苦い勝利
――2007年、南オセチア前線・臨時軍司令部。
野戦テントに設けられた作戦室は、勝利の熱気と、まだ消えぬ硝煙の匂いで満ちていた。
壁一面の戦況図には、ロシア軍の猛進を示す太い赤い矢印が、グルジア領の奥深くまで突き刺さったまま凍りついている。
作戦に参加した将官たちの軍服には土埃と汗、そしてニトロセルロース火薬の匂いが染み付き、生々しい戦場の記憶を漂わせていた。
その空気を、一本の通信が凍らせた。
「総司令部より緊急命令。当戦区の戦闘序列にある全部隊の過半を、百四十四時間以内にウラル山脈以東の指定地点へ再配置せよ」
通信兵の無機質な声が終わると、室内の空気が軋むような沈黙が落ちた。
「……冗談ではない」
軍主流派の象徴、歴戦のアレクサンドル・ミハイロヴィチ・レオニード中将が低く唸る。
昨日、彼は二人の部下を失ったばかりだ。
「南オセチアから敵を駆逐し、秩序を回復したのは我々だ。
今ここで引けば、死んでいった兵士たちは一体何のために血を流したというのだ」
その怒気を断ち切ったのは、冷ややかな声だった。
「将軍。これはジュネーヴで締結された条約の履行です」
声の主は、アルチョーム・パーヴロヴィチ・バラーノフ大佐。
参謀本部所属の若き将校で、ペトロフ政権の意向を担ってここに派遣されている。
その軍服は、この泥と硝煙の空間で場違いなほど清潔だった。
「欧州に、規律正しい新生ロシア軍を見せる。
勝利に酔い居座る軍隊より、命令一下、数千キロを即座に移動できる軍隊の方がはるかに価値があると、私は考えます」
「条約だと……!」
レオニードが机を叩く。
「やつらは我々が勝つと分かって、この屈辱的な条項を突きつけたんだ。罠だ!」
「ならば、その罠ごと喉元に突き返すまでです」
バラーノフ大佐の視線は、氷のように冷たかった。
「我々は勝ち、そして即座に去る。
それを見た欧州は二つの事実を同時に知るでしょう。
『ロシアはもはや勝利に酔って暴走する熊ではない』。
そして『ロシアは、指導部が決めれば大陸の端から端まで軍を動かせる恐るべき能力を持つ』と。
彼らは牙を剥く熊よりも、自ら鎖を締め直す熊の方を、はるかに恐れるはずです。
我々が今見せるべきは牙ではなく、その牙を収める理性と速度です」
レオニードをはじめ、現場の将軍たちは言葉を失った。
それは軍人としての誇りを否定する、あまりに政治的で――しかし反論の余地のない正論だった。
地図上の赤い矢印は動かない。
だが国家の命令は絶対だ。
数時間後、南オセチアの最前線では、まだ薬莢の匂いが漂う塹壕を兵士たちが黙々と後にしていた。
行進は東へ、ウラルの向こうへ向かう。
整然としたその隊列は、敗北ではなかった。
だが、勝利の味を知り尽くした老将軍たちにとって、その光景は灰を噛むように苦かった。
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