収穫の年
この話で出てくる南オセチア紛争は、現実では2008年に発生しています。
――2007年。
それは、セルゲイ・ヴォルコフがこの7年間に蒔いた種が、一斉に芽吹き、収穫の時を迎えた年だった。
プロジェクト『ソコル』の最終開発計画が、正式に完了した。
再使用型宇宙輸送システムは、もはやコンセプトでも実験機でもない。
いつでも顧客を乗せて、宇宙と地上を往復できる、完成された「商品」となったのだ。
そして、最大の顧客が、自らその扉を叩いた。
――ワシントンD.C. ホワイトハウス・国家安全保障会議室。
「……つまり、NASAは国際宇宙ステーションへの人員と物資の輸送を、ロシアに『外注』しろと、そう言うのかね」
大統領は、信じられないという表情で、NASA長官と国家予算局長官を交互に見た。
予算局長官は、疲弊しきった顔で分厚いファイルを机に置いた。
「閣下、選択肢はありません。イラクとアフガニスタンでの戦費は、我々の予測を遥かに超えています。
スペースシャトル計画をこれ以上維持するのは、財政的に不可能です。
その一方で、ロシアは我々のシャトルの一回あたりの打ち上げコストのおよそ一五パーセントで、人員を輸送できると提案してきています。
彼らの新しい『ソコル』を使えば、です」
NASA長官が、悔しさを滲ませながら言葉を継いだ。
「彼らは、我々の足元を見ています。
中東の泥沼で身動きが取れず、予算が枯渇している我々には、彼らの提案を飲むしかないことを……。
一方でロシアは政治的に、完全に頭を垂れています。
西側のドルを稼ぐためなら、NASAの『下請け』でも喜んでやると。
これは技術的には屈辱的な取引です。しかし、ISSを放棄するよりはマシです」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
誰も、これが七年がかりの壮大な戦略の結果だとは夢にも思っていない。
彼らの目には、ロシアはただ経済的に困窮し、かつてのライバルに、プライドを捨てて頭を下げてきた、憐れな敗者にしか映っていなかった。
「……よかろう。計画を承認する」
大統領は、吐き捨てるように言った。
「だが、これはあくまで一時的な措置だ。我が国の宇宙開発を、決してロシアに依存するわけではない。分かっているな」
この決定と同時に、ESAも追随した。
高コストなアリアン計画では、もはやロシアの再使用型ロケットの価格競争力に太刀打ちできなかったのだ。
欧州もまた、ロシアを「下請け」として、その宇宙計画の生命線をソコルに委ねることを決定した。
――モスクワ・クレムリン。
同時期、ペトロフ大統領は全く別の報告を聞いていた。
第二次政権の任期が半ばに迫る中、彼の威光は今や絶対的なものとなっていた。
シェスタコフが、南オセチア情勢について簡潔に報告する。
「……大統領閣下。先制攻撃を仕掛けてきたグルジア軍は、我が方の一個師団によって三日で国境線の外まで完全に駆逐されました。我が方の損害は軽微です」
「見事なものだな」
ペトロフは、満足げに頷いた。
「欧州の反応は?」
「予想通りの非難声明です。しかし、それだけです。
彼らは我々がジュネーヴで結んだ『新欧州安全保障協力条約』の履行状況を賞賛するのに忙しい」
シェスタコフの口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「大統領閣下。皮肉なことに、あの条約こそが今回の迅速な勝利の最大の功労者です。
我々は条約に従い、千台の旧式戦車を廃棄する義務を負いました。
そして、その廃棄予算と余った人員を、全て残った五百台の最新鋭戦車の近代化改修に注ぎ込んだのです。
今の我が軍に、張り子の虎はいません。
数は少なくとも、全ての部隊が最新の複合装甲、データリンクシステム、そして高度に訓練されたプロフェッショナルで構成されています。
あの条約は、ロシア軍から『量』を奪い、その代わりに圧倒的な『質』を与えてくれたのです」
ペトロフは、椅子に深く座り直し、指を組んだ。
宇宙では、敵であったはずの米欧が、ロシアの技術に依存し始めた。
地上では、ロシアを縛るはずだった条約が、ロシアの軍隊をより強く、より危険なものへと変えた。
七年。
たった七年で、世界は、セルゲイ・ヴォルコフが描いた設計図通りに、完璧に再編された。
そして、その真実に気づいている者は、このクレムリンの部屋にいる、数人しかいなかった。
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