逃避の軌道
――墓地から戻ったヴォルコフは、別人になっていた。
彼は、全ての感情を、分厚い氷の壁の内側に閉じ込めた。
都合がいいことに、本当に、都合がいいことに、プロジェクト『ソコル』は、彼の個人的な傷を忘れさせてくれる、完璧な口実を用意してくれていた。
T-4試験機による、初の軌道上実証実験。
それは、プロジェクトの、そしてロシアの宇宙開発の未来を占う、最も重要なマイルストーンだった。
「母さん、しばらくマリアを頼む」
電話口で、彼は感情のこもらない声でそう告げた。
「打ち上げが近い。バイコヌールの官舎に泊まり込むことになる」
『……分かったわ。でも、セルゲイ……』
母が何かを言いかけるのを遮り、彼は一方的に電話を切った。
マリアの顔を、もう見ることができなかった。
あの、ユキと全く同じ、深い黒髪が、彼の罪悪感をナイフのように抉るからだ。
数日後、バイコヌール宇宙基地への道中
ロスコスモスの本部施設と、バイコヌール宇宙基地を繋ぐ専用車の中で、首席補佐官のパーヴェルは、黙々と分厚い報告書を読みふける上司の横顔を、盗み見ていた。
数週間前から漂っていたよどんだ空気は、もうどこにもない。
酒の匂いも、虚ろな目も消え、そこにいるのは、かつての冷徹で寸分の隙もない、完璧な指導者としてのセルゲイ・ヴォルコフだった。
(……これでいい。これでいいんだ)
パーヴェルは、安堵のため息を心の内でついた。
長官の個人的な苦悩は、プロジェクトにとって害悪でしかない。
彼が再び仕事人間に戻ってくれたことは、この国家的事業にとって、何よりの朗報だった。
――2006年10月、カザフスタン共和国・バイコヌール宇宙基地。
発射台に立つ白銀の機体『ソコルT-4』は、朝日を浴びて神々しく輝いていた。
それは、もはや実験機というより、完成された宇宙船としての威容を放っている。
管制室の司令席に座るヴォルコフの目は、目の前のコンソールに表示される無数のパラメータだけを、冷たく見つめていた。
「全システム、最終チェック完了。オールグリーン」
「ESA合同チーム、準備よし」
「天候、問題なし。打ち上げウィンドウ、オープン」
技術者たちの緊張した声が、ヘッドセットを通して響く。
ヴォルコフは、マイクのスイッチを入れた。
その声は、機械のように平坦で、感情がなかった。
「カウントダウンを開始せよ」
「……5、4、3、2、1……」
「リフトオフ」
轟音と共に、大地が震えた。
ソコルT-4は、純白の煙と炎を吐き出しながら、ゆっくりと――しかし圧倒的な力強さで――蒼穹へと駆け上がっていく。
その機体には、実際の衛星と同じ重さのダミーウェイトが積まれていた。
これは単なる上昇実験ではない。
実践と全く同じプロセスを経て、一度地球を周回する軌道に乗り、そして大気圏に再突入し、自らの足でこの場所に戻ってくるという、人類史上誰も成し遂げたことのない壮大な挑戦だった。
管制室の巨大なスクリーンに、機体からの映像が映し出される。
急速に小さくなっていく地平線。
やがて、地球の青い輪郭が、黒い宇宙空間との境界線をくっきりと描き出した。
「第一段、燃焼停止。切り離し、成功」
「第二段エンジン、点火。軌道投入シーケンスへ移行」
パーヴェルやコマロフ技師が、固唾を飲んでスクリーンを見守る。
ESAから派遣された技術者たちも、食い入るようにデータを見つめている。
歓声も拍手も、まだない。
誰もが息を殺していた。
その中で、ヴォルコフだけが、まるで他人事のように、ただ、その光景を眺めていた。
――彼は、仕事に逃げた。
家族から、過去から、そして自分自身の心の弱さから。
そして今、彼の逃避の到達点であるこの鉄の塊は、彼を地上から引き離し、全てのしがらみから解放するように、ただひたすらに、完璧な軌道を描いて天へと昇っていく。
それは、あまりにも美しく、そしてあまりにも孤独な光景だった。
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