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彼女のいない今

――2006年9月1日、モスクワ。


初等学校の校門前は、祝福の光で満ち溢れていた。

秋の柔らかな日差しが、新品の制服や、子供たちが抱える色とりどりの花束をきらきらと照らしている。


ヴォルコフの隣で、娘のマリアは、祖母に結んでもらったのだろう、大きな白いリボン付きの髪飾りをつけていた。

その小さな手は、ヴォルコフに買ってもらったグラジオラスの花束を、固く握りしめている。


彼女の周りでは、他の母親たちが、満面の笑みでカメラを構え、我が子の晴れ姿を夢中でファインダーに収めていた。

その喧騒の中で、マリアだけが、うつむいていた。


――この場に、母親がいないのは、彼女だけだった。


ヴォルコフは、どう声をかければいいのか分からなかった。

ただ無言で屈み、少しずれていたリボンの髪飾りを、不器用な手つきで直す。

それだけが、彼にできる唯一のことだった。


やがて、入学式が始まるチャイムが鳴った。

子供たちが、母親に手を引かれ、次々と校舎へ吸い込まれていく。


「……マリア、行こう」


促しても、マリアはその場から動こうとしなかった。

うつむいたまま、小さな肩を震わせている。


やがて、ぐずり始めた彼女の嗚咽が、周囲のざわめきの中から、はっきりと聞こえてきた。

人々の視線が、自分たち親子に集まるのを感じる。


――国家の機密を操る男が、今、たった一人の娘を前に、完全に立ち往生していた。


仕方なく、ヴォルコフはマリアを、その花束ごと抱き上げた。

その瞬間、マリアの体が、かすかにこわばる。


ヴォルコフの腕から、スーツの生地から、うっすらと――しかし確実に――アルコールの匂いがした。

心の弱さから、この数週間で再開してしまった、あの忌まわしい匂い。

娘は、その匂いを、父親の裏切りであるかのように嫌がった。


それでも、マリアはもう何も言わなかった。

ヴォルコフの肩に顔をうずめることもなく、ただ固く握りしめた花束の先を見つめていた。


校舎の入り口で地面に降ろされると、彼女は一度だけ父を振り返り、そして涙をこらえながらも、一人で校舎の中へと入っていった。


ヴォルコフは、門の外で、その小さな背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


やがて、ポケットからタバコを取り出し、火をつける。

吐き出した煙の向こうで、娘が消えていった扉が、ぼんやりと滲んで見えた。


その日、彼はロスコスモスの執務室には戻らなかった。

車を、モスクワ南西のノヴォデヴィチ女子修道院へと向かわせる。


妻のユキが眠る、共同墓地へ――。


墓石の前に立ち、彼はただ、ユキの名が刻まれた冷たい石を見つめていた。

謝罪の言葉も、言い訳も、何も出てこなかった。


ただ、自分が救おうとしているその未来に、彼女はいない。

そして、彼女が命懸けで残してくれた未来マリアを、自分は傷つけている。


その、あまりにも単純な事実だけが、鉛のように、彼の心に沈んでいった。

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