コラム:CFE条約に関して
以下に示すコラムは、現実の国際条約や制度を参照しつつ、本作の主題に関わる背景理解を補うことを目的としています。
内容は、一般に公開されている一次・二次資料に基づくものであり、法律的・外交的な専門見解ではありません。
記述上の誤りや誤解を招く点があれば、それは筆者の責任に拠るものであり、読者諸賢からのご指摘には謙虚に学ぶ所存です。
本作においてヴォルコフが多用している「信頼醸成」の発想は、現実の軍備管理条約──とりわけCFE条約(欧州通常戦力条約)と、その後継案であるACFE(改正CFE)──を背景にしています。
なおACFEは作者が略称として記載していますが、学術文書では"Adapted Treaty on Conventional Armed Forces in Europe treaty"か"Adapted CFE"と呼ばれます(日本語では直訳するとCFE適合条約ですね、wikipediaにも一文だけ記載があります)。
【CFE条約と履行停止】
CFE条約は1990年に調印され、欧州における通常兵力の上限と相互査察体制を規定した、冷戦後秩序の出発点とも言える軍備管理合意でした。
しかし2007年、ロシアはこの条約の「履行停止(suspension)」を宣言します。これは条文に明示された手続きではなく、正式な脱退(withdrawal)には第19条に基づく150日前通告が必要だったことから、形式的には「脱退」でも「明白な違反」でもないとされました。
このとき西側諸国(NATO諸国)は、ロシアの行為を「条約の誠実履行義務に反する政治的逸脱」として非難します。その根拠となったのが、国際条約法の一般原則としての「good faith」義務です。
これは、1969年ウィーン条約(条約法に関するウィーン条約)第26条に明記されています:
“Every treaty in force is binding upon the parties to it and must be performed by them in good faith.”
― Vienna Convention on the Law of Treaties, Article 26
訳しますと以下です。
「効力を有するすべての条約は、その当事国を拘束し、当事国は誠実にこれを履行しなければならない。」――『条約法に関するウィーン条約』第26条
つまり西側諸国は、ロシアは形式上加盟国のまま義務履行を停止しており、これが「制度の信頼性そのものを損ねる行為」と見なしたのです。
【逆の視点:ロシア側の見解】
他方、ロシア側は次のように反論しました:
•NATO諸国はACFEの批准を見送り、制度的均衡が損なわれている。
•自国はACFEを批准したにもかかわらず、NATO諸国が制度を拒否したことで「片務的(one-sided)」構造になった。
•NATO加盟国は欧州内の軍備制限を守る一方で、中東や中央アジアではCFEと無関係の軍事行動を自由に展開している。
•2000年代初頭、NATOが東欧諸国を拡大しながらACFEを批准しなかった事実は、ロシアにとって“自国だけが兵力制限を受け、他国は制限外で展開する”という不公平な構図(one-sidedness)と映った。
このように、ロシアは制度の不履行を「制度全体がもはや機能していなかった」という文脈で説明し、「suspension」は政治的抗議であると位置付けたのです。
重要なのは、ロシア自身は西側の行動を「good faith違反」として条約法上から制度的に訴えることはしなかったという点です。
これは一見矛盾しているように見えますが、制度の「外」に出ていなかったのは西側(=加盟維持を継続)であり、制度内部の論理において違反を問える立場はそちらにあったためです。
なお、ACFEはCFEの明確な後継条約と位置付けられていましたが、西側諸国がこれを批准しなかった以上、その条文は発効せず、“履行義務”は生じません。したがって、履行していない条約に基づいてgood faith違反を問うことは、制度上不可能だったのです。(ep.29「対テロ戦争」での"CFE条約での改定を意図的に留保され~"はこの事実に基づいています)。
結果、「制度的な違反性」を主張できるのは、CFE制度にとどまりつつ相手の行動を記録・解釈する西側諸国であり、ロシアのように“履行停止”を選んだ側は、形式上その道具を持たなかったのです。
【制度的ねじれと“二つの背信”】
この構造は、以下のような制度的非対称性を浮き彫りにします:
•ロシアは制度を停止して抗議したが、制度内から相手の違反を訴える名分と説得力を弱めました。
•西側は制度にとどまることで、相手の違反を制度内から批判する正当性を維持しました。
•また西側はACFEを未批准のままにして制度の更新を停滞させ、旧東側との通常戦力バランスの是正を事実上妨げた側面も否めません。
結果として、ロシアやベラルーシなどはCFEの厳格な枠(戦力枠)にとどめられる一方、新規NATO加盟国(バルト諸国)はACFE未発効ゆえ同等の拘束を受けない歪みが残りました。
最後に9.11以後は主に米国の国防費が急増し、ひきづられたNATO加盟国合計の防衛支出も大幅な拡大をしてしまい、旧東側諸国の不信を買いました(NATO側の軍事費はリーマンショック後まで拡大し続けます)。
以上のように、「違反を問う制度」は一方的にしか機能しない一方、双方ともに問題がある行動を実施したという、きわめて現実的かつ政治的な構図が存在していたわけです。
この構図は、制度が機能不全に陥っても、「誰が違反と見なされるか」という政治的レッテル付けの力学が条文よりも強く働くことを示しています。
当時の事情としてここら辺を踏まえていただけると、より情景が見えてくるかと思います。
お読みいただきありがとうございました。
※このコラムと現代を見比べたときなかなか信じがたいかもしれません。しかし実際2000年頃劣勢が極まったロシアはかなりの譲歩を繰り返していました。
当時コソボ、イラクで安保理の事前授権なしに当初行動したNATO(イラクは英米有志連合)諸国に対し、トランスニストリアおよびグルジア国内の拠点(ヴァジアーニ、グダウタ等)の縮小・撤収に応じる程度には譲歩しています(まあグダウタはその後情勢変化で居座ったりしていますが)。
なお米国のアフガン侵攻は自衛権を立てて攻撃を開始してますので、今回は脇に置いています。
コラムいかがだったでしょうか?。youtubeでなんかロシアがやらかしたとなっている本条約の経緯を双方の視点から書き起こしてみました。面白いと感じていただけたならうれしいです。
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