クレムリンの天秤
黒塗りの政府専用車両が、クレムリンのスパスカヤ塔をくぐり抜ける。
車内には重い沈黙が満ちていた。
ヴォルコフの隣で、シェスタコフ将軍は窓の外の景色に目を向けたまま、静かに言った。
「セルゲイ、これから我々が渡るのは、戻ることのできない橋だ。一度この扉を開ければ、もう昨日の世界には戻れん」
「覚悟は、できています」
ヴォルコフの答えに、将軍は頷かなかった。
ただ、前を向いたまま「そう願う」とだけ呟いた。
車を降り、二人は大統領府へと続く廊下を歩く。
それは、ヴォルコフがかつて見た古く薄暗い廊下だった。
ところどころ擦り切れた赤い絨毯が、足音を鈍く吸い込む。
壁にはレーニンや、今や忘れられた書記長たちの肖像画が陰鬱に並び、この国の重く血塗られた歴史が二人を見下ろしているようだった。
受付官に案内されたのは「緊急事態対応会議室」。
ヴォルコフが息を呑む。
通常の執務室ではない。
国家の存亡に関わる事態でのみ使用される部屋だ。
重厚な樫の扉を開けると、そこにはロシアの権力の中枢が凝縮されていた。
若く、しかしすでに絶対的な権力者のオーラを放つヴィクトル・ペトロフ大統領。
その隣には、強硬派として知られるアレクサンドル・ノヴィコフ国防大臣と、元諜報員らしい鋭い目つきのヴャチェスラフ・モロゾフ安全保障会議書記が座っている。
三人の視線が、入室した二人に突き刺さった。
「将軍」
ペトロフ大統領が、静かに口火を切った。
「この会議は待てないと、君はそう主張した。君たちの報告は『国家の存亡に関わる』と聞いているが?」
その声には、真偽を鑑定するような冷徹な響きがあった。
「その通りです、大統領閣下」
シェスタコフ将軍が一歩前に出て、答えた。
「我々が直面している脅威は、既存のいかなる軍事的・政治的枠組みをも超えるものです。詳細は、このセルゲイ・ヴォルコフ長官から直接……」
将軍が言い終わる前に、ノヴィコフ国防大臣が苛立たしげに口を挟んだ。
「宇宙庁が何を掴んだというのだ? アメリカの新型戦略兵器か、それとも中国の宇宙軍拡か。もったいぶらずに話せ」
その言葉に、部屋の空気が張り詰める。
ヴォルコフは、彼らの思考がまだ冷戦時代のパラダイムに囚われていることを痛感した。
これから自分が語る話が、いかに現実離れして聞こえるかを。
シェスタコフ将軍が、目で「やれ」と合図する。
ヴォルコフはブリーフケースからポータブル端末を取り出し、会議室のメインスクリーンに接続した。
「国防大臣、我々がこれからお話しするのは、地球上のどの国家の話でもありません」
彼は息を吸い込み、人類の誰もがまだ知らない、恐るべき未来の、最初のページをめくった。
「これは、60年後に我々の太陽系を訪れる、『訪問者』に関する報告です」
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