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知識の日

明日は小説ではなく、小説内で出てきた、CFEに関するコラムを投稿しますので、興味がある方はご覧ください。m(_ _)m

――2006年8月初旬、プロジェクト『ソコル』本部施設。


ヴォルコフの執務室の空気は、数ヶ月前とはまるで違っていた。

かつて施設全体を覆っていた焦燥と疲弊の代わりに、静かだが確かな熱気が戻ってきている。


彼の前には、腹心のパーヴェルと、設計主任のコマロフ技師が、晴れやかな顔で立っていた。


「長官、ご報告します」


パーヴェルが、手にした報告書を誇らしげに差し出した。

スクリーンには、プロジェクトの全工程を示すガントチャートが映し出されている。

忌々しい赤色で埋め尽くされていた項目は、そのほとんどが健全な緑色へと変わっていた。


「ESAから派遣された合同チームは、驚異的です。彼らがもたらしたのは、単なるソフトウェアや人材ではありませんでした。我々に欠けていた、品質管理、文書化、モジュール設計といった『ソフトウェア工学』の思想そのものです。彼らは、我々が作った強靭な『筋肉』に、ついに『神経』を通す方法を教えてくれました」


コマロフも、興奮を隠しきれない様子で頷く。

「10月に予定されている、T-4試験機による初の軌道投入と回収実験……これならば間に合います。いえ、間に合わせてみせます」


ヴォルコフは報告書を受け取り、その緑色の文字を指でなぞった。

安堵のため息が、思わず漏れる。

その後、二人を労った。


数分後、二人が退室した後で、この数年間、張り詰め続けていた糸が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。


――その瞬間だった。


執務室の静寂を破るように、私用携帯が鳴った。

ディスプレイには『母』と表示されている。


ヴォルコフは、少し訝しみながら通話ボタンを押した。

妻のユキを亡くしてから、一人娘のマリアの面倒を何かと見てくれている母だが、仕事中にこうしてかけてくるのは珍しい。


「……もしもし」


『セルゲイ? 仕事の邪魔をして悪いわね』


昔から変わらない、温かいが有無を言わせぬ母の声が響いた。

父を完全に尻に敷いていた、あの声だ。


『あんたに言っておくことがあってね。来月は、マリアの“知識の日”よ。あの子も、もう小学生になるんだから』


「……ああ、そうだったか」


『“そうだったか”じゃないわよ』


母の声のトーンが、一段階鋭くなった。


『あんた、まさか仕事だなんて言うんじゃないでしょうね。あの子が、どれだけあんたに来て欲しがっているか分かっているの? 最初の知識の日よ。父親がいないなんて、そんな惨めな思いをさせるんじゃないよ』


母の言葉が、短剣のように胸に突き刺さった。


知識の日……9月1日。

ロシアの全ての子供たちが、花束を持って初めて学校の門をくぐる、特別な日。


彼は、自分がその存在すら、忙しさにかまけて忘れかけていたことに気づかされた。

マリアとの会話が、最近、極端に減っていたことにも。


『……分かったら、ちゃんと休みを取りなさい。いいね?』


「ああ……分かった。必ず、行く」


一方的に切れた電話を、ヴォルコフはしばらく手にしたまま立ち尽くしていた。


執務室の机の上で、一枚の写真が彼を見つめている。

妻のユキが、マリアを身ごもっていた頃の、幸せそうな笑顔。

マリアが生まれた日、彼女は、その命と引き換えるように逝ってしまった。


その瞬間、封印していたはずの記憶が、鮮烈な痛みと共に蘇る。


ユキを失った直後の、荒れ果てた日々。

酒に溺れ、仕事も、そして生まれたばかりの娘の世話さえも放棄していた惨めな姿。

国家の重責を担う男が、ただの弱い、自己憐憫に浸るだけだった、あの頃。


喉が、からからに乾いていた。


机の引き出しには、かつてウォッカの小瓶を隠していた場所がある。

もちろん、もう何年も空けていない。


だが今、ヴォルコフは、無性にあの喉が焼けるようなアルコールの感覚を欲していた。

全てを忘れさせてくれる、あの液体を。


彼は、震える手で、その引き出しに、ゆっくりと手を伸ばした。

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