ダモクレスの剣
――パリ、ESA(欧州宇宙機関)本部。
宇宙輸送部門副長官、ジャン=ピエール・アルノーは、ジュネーヴの祝祭的な中継映像を音を消して見ていた。
画面の中で笑顔を交わす政治家たちの姿が、まるで別世界の出来事のように感じられた。
彼の机の上には、この数か月で三度も理事会に提出し、そして三度とも「政治的配慮に欠ける」として事実上黙殺された警告メモの草稿が置かれていた。
――――――――
件名:ロシアの宇宙開発能力に関する再評価と、新安保条約が内包する技術的リスクについて
草稿には、彼の絶望的なまでの懸念が、冷静な筆致で綴られていた。
各国首脳は、ロシアが地上兵力を削減することを「融和」や「弱体化」の証と見なしている。
しかし、これは致命的な誤解である。
彼らは、我々が「ソコル」と呼ぶ再使用型ロケットの実証試験を既に成功させている。
これは、地上兵力の陳腐化を前提とした、次世代の戦力投射能力への国家的リソース再配分計画である可能性が極めて高い。
新条約に盛り込まれた「宇宙分野での包括的パートナーシップ」は、事実上、ロシアに対して欧州の持つデュアルユース(軍民両用)技術へのフリーパスを与えるに等しい。
我々は、彼らの旧式の戦車と引き換えに、未来の宇宙兵器の設計図を、自ら差し出しているのだ……
――――――――
その時、内線電話が鳴った。相手はESAの理事長だった。
「アルノー君、素晴らしいニュースだ! ジュネーヴの条約のおかげで、来年度のロスコスモスとの共同予算が倍増される見込みだ!
君の部門が以前から要望していた、次世代アビオニクスの共同開発も、これで本格的に始動できるぞ!」
理事長の弾んだ声を聞きながら、アルノーは目を閉じた。
(分かっていない。彼らは何も分かっていない)
自分だけが、ダモクレスの剣が振り下ろされるのをすぐそこに見ている。
そして、その剣を吊るす髪の毛を、自分たちが今、喜んで細くしているのだ。
「……素晴らしいニュースです、理事長」
アルノーは、心の奥底にある絶望を押し殺し、完璧な官僚として答えた。
「直ちに、ロシア側との具体的な協議に入ります」
更新の励みになります。ブクマ・感想・評価いただけると嬉しいです。




