ジュネーヴの握手
2006年3月、スイス・ジュネーヴ。
レマン湖のほとりに建つパレ・デ・ナシオン(国際連盟本部)は、歴史的な調印式の舞台となっていた。
「新欧州安全保障協力条約」──その名は、冷戦の完全な終焉と、新たな協調の時代の到来を世界に告げるものだった。
条約の骨子は、ヴォルコフが描いた設計図そのものだった。
第一項 ロシアは、ウラル山脈以西の攻撃的戦力(戦車師団、攻撃ヘリ部隊等)を大幅に削減し、その履行を欧州安全保障協力機構(OSCE)の査察団に完全に公開する。
第二項 見返りとして、欧州連合(EU)はロシアとの間で、エネルギー、宇宙開発、先端技術分野における包括的な経済パートナーシップ協定を締結する。
第三項 アメリカは、この条約の「保証人」という名誉ある立場で参加するが、欧州大陸内の軍備管理の直接的な当事者からは一歩引く形となる。
米国は戦略上縛られることなく、中東での作戦権限を得た。
調印式のテーブルには、ドイツ外務大臣、フランス外務大臣、そしてロシアの外務大臣が座り、晴れやかな表情でペンを走らせる。
彼らの背後には、満足げに頷くアメリカの国務長官の姿があった。
――ワシントンD.C. ホワイトハウス状況分析室。
「素晴らしい。ペトロフは、ついに現実を受け入れたな」
国家安全保障担当補佐官は、隣に座るCIA長官に呟いた。
「彼らは、もはや超大国ではないことを自ら認めたのだ。軍事費を削減し、我々のルールに従って経済を立て直す道を選んだ。
我々がイラクで手を汚している間に、欧州は自らの足で安定を手に入れた。これ以上の結果はない」
――ベルリン ドイツ連邦首相府。
「見たまえ。ロシアは、もはや我々の脅威ではない。我々の市場であり、パートナーだ」
ドイツ首相は、側近たちに誇らしげに語った。
「我々は、アメリカの核の傘に頼るだけの一辺倒な外交から脱却し、大陸の平和と繁栄を、我々自身の主導で築き上げたのだ。
これは、ドイツ外交の歴史的な勝利だ」
彼の言葉には、弱体化した隣国に対する、かすかな憐れみと優越感が滲んでいた。
――ジュネーヴの会場では、万雷の拍手とカメラのフラッシュの中、各国の首脳たちが固い握手を交わしていた。
それは、誰もが「平和」と「勝利」を信じて疑わない、完璧な調印式だった。
ただ一人、その光景をパリの執務室のモニターで見ていた男を除いては。
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