翻訳者たち
ヴォルコフの執務室に置かれた暗号化端末が、音もなく一つのメッセージを映し出した。ベルリンの情報提供者からの、ごく短い報告だった。
《協議開始。資本が政治を動かした》
ヴォルコフは、その一文を無表情のまま見つめていた。
外交という名の巨大な歯車は、彼の設計通りに、ゆっくりと、しかし確実に回り始めた。善隣外交、ESAと手を結び、善良な仮面の下で西側に埋めてきた種が、ついに芽吹いたのだ。
だが、その成功の報は、今の彼に何の慰めももたらさなかった。
むしろ、時限爆弾のタイマーの針が、また一つ進んだことを告げる冷たい音にしか聞こえなかった。
数日後、ヴォルコフは内線で、設計主任のコマロフと推進システム専門家のベレゾフスカヤを呼び出した。
数分後、疲れきった顔の二人が執務室に入ってくる。
ヴォルコフは、彼らにモスクワからの報告書を黙って差し出した。
「…これは」コマロフが呟く。「欧州が、本気で我々の提案に乗るということですか」
「乗るのではない。もう乗ったのだ」
ヴォルコフの声は静かだった。
「問題は、彼らが乗り込もうとしている船が、今まさに沈没しかかっているということだ。会談は急速に進んでいる。ドイツとフランスは乗り気だ。イタリアも引きずられている。彼らは、ペトロフ政権の間に既成事実を重ねる気だ。そのための交渉材料として、ESAの人材協力は安いものだと誤解している」
「だがな」ヴォルコフはまぶたを揉んだ。
「この歴史的な和解は、数ヶ月でジュネーヴの調印式へ向かうだろう。その時、我々の鷹がテストタイプから脱却できていなかったら、どうなる?」
ヴォルコフは二人を交互に見据えた。
「我々は、世界中から賞賛される代わりに、主導権を奪われるだろう。歴史上最も愚かな判断として嘲笑われることになる。残された時間は、半年もない」
その言葉は、最後通牒だった。
翌日、『鷹の巣』の巨大な組立工場で、プロジェクトに関わる全ての技術者が招集された。
そこは、二つの絶望的な意見がぶつかり合う、戦場と化した。
「欧州製のソフトウェアは全て破棄すべきだ!」
ソ連時代からのベテランエンジニアが、拳を振り上げて叫んだ。
「あんな繊細すぎるガラス細工の制御システムは、我々のやり方には合わん! 多少性能が落ちても、我々が熟知した、信頼できる制御システムへ一から作り直すべきだ!」
「正気ですか!」
ベレゾフスカヤが、鋭く反論する。
「それでは、ソコルはただの『信頼性が高いだけの鈍重なロケット』に戻るだけよ! 私たちがテスト運用で世界に見せつけた性能は、欧州製のハードウェアとソフトウェアなしには絶対に製品として達成できない! 今すべきなのは、過去に逃げることではなく、この新しい技術を完全に理解し、使いこなすことでしょう!」
二つの思想が、決して交わることなく激しく火花を散らす。
頑丈だが不器用な『石の斧』を信じる者たちと、鋭利だが脆い『ガラスのナイフ』を使いこなそうとする者たち。
コマロフは、その間で苦悩に顔を歪めていた。どちらの言い分も、痛いほど理解できたからだ。
その夜、コマロフは一人、設計室に籠っていた。
机の上にはウォッカの瓶と、二つの全く異なるシステムの設計思想を記したメモが散乱している。
彼は頭を抱え、唸った。
(斧か、ナイフか…違う。どちらかを選ぶから、袋小路に陥るのだ…)
その瞬間、彼の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇った。
ソ連末期、西側の中古の工作機械を初めて導入した時のことだ。電圧も規格も違うその機械を動かすために、彼らが最初に作ったもの。それは、巨大で不格好な、しかし絶対に壊れない変圧器と、物理的なインターフェースアダプターだった。
「…そうか」
コマロフは、弾かれたように顔を上げた。
「翻訳だ…!」
彼はホワイトボードの前に立つと、震える手でマーカーを走らせた。
「欧州製のソフトウェアは、一切変更しない。我々の頑丈なエンジンやバルブも、そのままだ」
彼の声に気づき、徹夜組の若い技術者たちが、訝しげに集まってくる。
「我々が作るのは、その間を繋ぐ『翻訳機』、つまりコア部のデジタル-アナログ系統の変換・隔離モジュールだ」
コマロフは、二つのシステムの間に、新しい箱を描き加えた。
「この『翻訳機』が、欧州ソフトウェアからの繊細なデジタル信号を受け取り、それを我々のハードウェアが理解できる、アナログ系統の頑丈な信号へと変換する。これなら多少の誤差を許容できる。ソフトウェアの暴走を検知すれば、この翻訳機が物理的な回路を遮断して、エンジンを保護する。三重、四重のフェイルセーフを、全てこの『翻訳機』に持たせるのだ!」
それは、二つの思想の、妥協ではなかった。融合だった。
ガラスのナイフの鋭さを保ったまま、石の斧の柄を取り付ける。
ベレゾフスカヤが、その設計思想の持つ、不格好だが実用的な発想に気づき、目を輝かせた。
「…ドミトリー、あなた…! それなら、ソフトウェアの根幹を書き換えずに、我々の得意な冗長化設計の思想を、後付けで実装できるわ!」
絶望に覆われていた設計室に、初めて希望の光が差し込んだ。
その日から、『鷹の巣』は不眠不休の翻訳作業に突入した。
数ヶ月後、バイコヌールのエンジン燃焼試験台。
先日爆発事故を起こしたのと同じ燃料供給バルブが、新しい『翻訳機』を介して、再び燃焼試験にかけられていた。
管制室のモニターを、ヴォルコフ、コマロフ、ベレゾフスカヤが固唾をのんで見守っている。
「…全出力、5秒前」
轟音と共に、エンジンが青白い炎を噴き出した。
モニター上の圧力、温度、流量を示す全ての数値が、緑色の正常値の範囲で、完全に安定している。
「…わざとやってみろ」
ヴォルコフが、低い声で命じた。
管制官が、意図的に制御システムに電圧サージ(異常電圧)を流し込む。
以前ならば、即座にソフトウェアが暴走し、バルブが誤作動を起こしたはずの、致命的な一撃。
だが、モニター上の数値は、一瞬揺らいだだけで、即座に安定を取り戻した。
『翻訳機』が、その異常を完璧に吸収し、無力化したのだ。
管制室が、抑えきれない歓声に包まれた。
コマロフは、その場に崩れ落ちるように椅子に座り込み、ベレゾフスカヤは涙をこらえながら笑っていた。
ヴォルコフは、その光景を静かに見つめていた。
彼の視線の先には、ジュネーヴの調印式会場が、すでにはっきりと見えていた。
鷹は、飛べる。
翻訳者たちの手によって、石とガラスの翼は、ついに一つになったのだ。
更新の励みになります。ブクマ・感想・評価いただけると嬉しいです。




