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鷹の苦悩

明日の更新ですが午前7時と午後7時の二回です。

よろしくお願いします。

プロジェクト『ソコル』本部施設、深夜。

組立工場は、煌々とした照明に照らされ、二十四時間体制で稼働を続けていた。

しかし、そこに以前のような熱気はない。静かな、そして深刻な疲労が、施設全体に澱のように溜まっていた。


設計主任のコマロフ技師は、真っ白になった髪をかきむしりながら、モニターに映る無数のエラーコードを睨んでいた。

「ダメだ…ダメだ…!」


彼の隣で、推進システム専門家のベレゾフスカヤが、青い顔で彼をなだめる。

「ドミトリー、少し休んで。三日も寝ていないじゃない」


「休めるか!」

コマロフは叫んだ。

「ESAから送られてきたこの制御ソフトウェア…これは、我々が今まで作ってきた、頑丈で信頼できるだけの『石の斧』とは、全く違う!

これは、繊細すぎるガラスのナイフだ!

少しでも扱いを間違えれば、我々自身の手を切り刻む!」


問題は、まさにそこにあった。

欧州から手に入れた技術は、確かに最先端だった。

しかし、それは、完璧な品質管理、クリーンな環境、そして何より、それを使いこなすための高度なソフトウェア思想という『土壌』があって初めて機能するものだった。


ロシアの技術者たちは、その土壌を持っていなかった。

彼らは、荒れ地で世界一頑丈なジャガイモを作ることはできても、温室で世界一美しい蘭を咲かせることはできなかったのだ。


その結果、プロジェクトは深刻な「拒絶反応」に苦しんでいた。

日本製の超精密な工作機械は、わずかな電圧の変動でエラーを起こし、ラインを止めた。

欧州製のセンサーは、ロシア製の武骨なケーブルと接続した途端、ノイズを拾って使い物にならなくなった。

そして何より、それら全てを統合するソフトウェアは、バグの海に沈み、技術者たちを絶望させていた。


ヴォルコフは、その光景を司令室のモニター越しに見ていた。

腹心のパーヴェルが、静かに報告する。

「…長官。先週、燃焼試験中に燃料供給バルブのソフトウェアが誤作動を起こし、小規模な爆発事故がありました。

幸い死傷者はいませんでしたが…」


パーヴェルは言葉を続けた。

「現場の士気は、限界に達しています。

彼らは、未来の技術ではなく、自分たちの『過去のやり方』と戦っているのです。

このままでは、鷹は巣立つ前に、自らの重さで潰れてしまいます」


ヴォルコフは、何も答えなかった。

外交の舞台で、彼は連戦連勝だった。

世界というチェス盤の上で、神のような手つきで駒を動かし、敵を翻弄している。


しかし、その足元――彼が未来を託したはずの『鷹の巣』が、内部から崩壊し始めている。

彼は、窓の外に広がる暗いロシアの夜空を見上げた。


(…間に合わないかもしれない)


その冷たい予感が、初めて、彼の背筋を凍らせた。



ワシントンD.C. 国務省


同じ夜、地球の裏側では、別の種類の疲労が空気を満たしていた。

欧州局の若き分析官、マーク・サリバンは、上司であるリチャード・アームストロング局長の執務室のドアをノックした。


「夜分に失礼します、局長。ベルリンとパリから、看過できないレベルの報告が」


イラク情勢の報告書から顔を上げたアームストロングは、露骨にうんざりした表情を浮かべた。

「また欧州の連中の、夢物語のような『欧州軍』構想か? 彼らは我々が中東で手を汚している間に、いつもその手の遊びを始める」


「今回は、少し質が違うようです」

サリバンは手元の報告書を差し出した。

「ドイツとフランス政府が、ロシアとの間で『新欧州安全保障構想』に関する公式な準備協議を開始することで合意しました。驚くべきは、その動きをシーメンスやエアバスといった産業界が全面的に後押ししているという事実です。これは政治家のスタンドプレーではない。資本が、本気で東を向こうとしています」


アームストロングは、報告書に目を通し、眉をひそめた。

「…ロシア軍のウラル以東への後退だと? そんな虫のいい話を、本気で信じているのか、あのドイツ人たちは」


「彼らが信じているのは、その先にある経済的利益です」とサリバンは続けた。「安定したエネルギー供給、軍縮によるコスト削減、そして広大なロシア市場へのアクセス。産業界にとって、それは抗いがたい魅力です。彼らが、自国の政府を動かしたのです」


アームストロングは、大きくため息をつき、報告書を机に置いた。

「…分かった。注視リストの優先度を上げておけ。だが、今の我々に、欧州のお伽話に付き合っている余裕はない。まず片付けるべきは、バグダッドの爆弾だ」


彼の関心は、まだ中東の砂漠にあった。

だが、その視線の隅で、欧州という名の巨大な船が、自分たちの知らない海図を広げ、ゆっくりと舵を切り始めていることに、彼はまだ気づいていなかった。



プロジェクト『ソコル』本部施設


ヴォルコフの執務室の机に置かれた暗号化端末の画面が、音もなく一つのメッセージを映し出した。ベルリンの情報提供者からの、ごく短い報告だった。


《協議開始。資本が政治を動かした》


ヴォルコフは、その一文を無表情のまま見つめていた。

外交という名の巨大な歯車は、彼の設計通りに、ゆっくりと、しかし確実に回り始めた。西側に埋めてきた種が、ついに芽吹いたのだ。


だが、その成功の報は、今の彼に何の慰めももたらさなかった。

むしろ、焦燥感を煽るだけだった。


外堀は埋めた。世界は、彼が作った舞台の上で踊り始めた。

だというのに、その舞台の主役であるはずのソコルが、今まさに巣の中で翼を折ろうとしている。


彼は、窓の外に広がる暗いロシアの夜空を、再び見上げた。

まいた種が、開き始める。

そして、その果実を収穫するための時間が、もはや残されていないかもしれないという、絶対的な恐怖と共に。

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