ワシントンの死角
2005年11月、ワシントンD.C.、国務省。
欧州局の若き分析官、マーク・サリバンは、ベルリンの大使館から送られてきた機密公電を前に、眉をひそめていた。
『ドイツ首相府、ロシアとの間で「新欧州安全保障構想」に関する非公式協議を開始。
構想の骨子は、ロシア軍の大規模な東方移動と、それを担保するCFE条約の改定。
ドイツ産業界が、この動きを強力に後押ししている模様』
彼は、この報告書に「要注意(Watch Closely)」のフラグを立て、上司である欧州局長、リチャード・アームストロングの机に置いた。
数時間後、アームストロングは、内線でサリバンを呼びつけた。
「マーク、このドイツの件だが」
アームストロングの声は、疲れていた。彼の関心の九割は、今やイラクとアフガニスタンに注がれている。
「何か、大きな動きになりそうかね?」
「判断は時期尚早ですが、局長」
サリバンは答えた。
「ロシアが、CFE条約から我々を意図的に排除しようとしている可能性があります。
これは、欧州における我々の影響力を削ぐ、巧妙な一手かもしれません」
アームストロングは、大きくため息をついた。
「またか。ドイツとフランスは、いつもそうだ。アメリカの力が中東に向いている隙に、自分たちの『欧州軍』構想を蒸し返したいだけだろう。
ロシアは、それに乗じてガスを売りつけたい。いつものゲームだ」
彼は、報告書を「定期監視(Monitor Routinely)」のファイルトレイに放り込んだ。
「マーク、聞いてくれ。今、国防総省が気にしているのは、バグダッドのIED(即席爆発装置)の数だ。
ホワイトハウスが気にしているのは、次の選挙だ。
誰も、欧州の官僚が遊んでいる、退屈な軍縮条約の名前など気にしていない」
「ロシアが、本当に戦車をウラルの向こうに動かすというなら、むしろ結構なことじゃないか。
我々の軍事費が、少しは中東に回せる。
ドイツがそれで満足なら、好きにさせておけ」
サリバンは、何かを言いかけたが、やめた。
彼は理解したのだ。
今のアメリカにとって、欧州は「問題のない地域」であり、ロシアは「もはや脅威ではない、没落した大国」でしかない。
彼らの思考は、完全に『テロとの戦争』というパラダイムに囚われており、その死角で、ロシアが壮大な戦略ゲームを仕掛けていることなど、想像すらしていない。
ヴォルコフの計画は、完璧に機能していた。
アメリカは、自らの慢心と、目の前の戦争によって、その目を曇らされていた。
彼らは、自らの手で、欧州における自らの影響力を、切り捨てようとしていたのだ。
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