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ベルリンの囁き

2005年9月、ベルリン。

ブランデンブルク門を見下ろす最高級ホテルの一室。その空気は、磨き上げられた調度品のように冷たく、静まり返っていた。窓の外では、統一ドイツの象徴である門が、秋の曇天の下で歴史の重みを纏っている。


セルゲイ・ヴォルコフは、ロスコスモスの長官という本性を「ロシア産業技術団」代表という地味な肩書きの奥に隠し、静かに紅茶を一口含んだ。


彼の目の前に座っているのは、ドイツ産業界の皇帝、シーメンス社会長ハンス・ディートリッヒ。

隙なく仕立てられたチャコールグレーのスーツに身を包み、穏やかな紳士に見える。

だが、温和なだけな人物がシーメンスという、超巨大企業の会長になれるわけがないのだ。


「ヴォルコフ長官、わざわざお越しいただき光栄です」


ディートリッヒは完璧な英語で言った。その声は丁寧だが、どこか値踏みするような響きがある。


「貴国のエネルギーは、我が国の産業にとって生命線ライフラインです。今後とも、安定した供給をお願いしたい」

「もちろん、ディートリッヒ会長」


ヴォルコフは微笑んだ。


「友好は、我々の基本方針ですから。…しかし、その友好を、時として脅かすものが、我々の間にはあります」


彼は、テーブルの上に一枚の地図を広げた。

欧州の地図だ。そこには、CFE条約によって定められたロシア軍とNATO軍の配置が、赤い線と青い線で、まるで大陸の体に刻まれた古い傷跡のように引かれている。


ディートリッヒの視線が、その線の上で一瞬、硬くなった。

特に、かつて自らの祖国を東西に引き裂いていた、あの忌まわしい境界線の上で。彼の世代にとって、この地図は冷戦という名の屈辱の記憶そのものだった。自分たちの運命が、モスクワとワシントンの間で決められていた時代の。


「この、時代遅れの線引きです」

ヴォルコフは、その赤い線を指でなぞった。

「我々ロシアは、もはやソ連ではありません。我々の関心は、西ではなく、東と南…そして、上にあります」


彼は地図の端にある、空白の宇宙空間を指差した。

「会長、もし仮に、ですよ」

ヴォルコフは声を潜めた。

「もし仮に、ロシアが、この赤い線をウラル山脈の東側まで、一方的に後退させるとしたら? もし、ポーランド国境から1000キロ以内に、攻撃的な機甲師団を一切置かないと、国際的に約束するとしたら?」


ディートリッヒの目が、わずかに見開かれた。

それは、ドイツにとって建国以来の夢想だった。東方からの軍事的脅威の、完全な消滅。

だが、彼の心に浮かんだのは安堵だけではなかった。もっと別の、より大きく、より危険な可能性の扉が、目の前で開かれようとしていた。


「…その見返りは、何ですかな?」

ディートリッヒの声は、先ほどよりも低く、硬質な響きを帯びていた。それは単なるビジネスマンの問いではなかった。大国の提案の裏にある真意を探る、政治家の問いだった。


「見返り、ではありません。これは、新しい時代の『前提条件』です」

ヴォルコフは言った。

「この新しい現実を反映した、新しい安全保障の枠組みが必要です。つまり――」

彼はここで意図的に間を置いた。

「アメリカの過剰な影響力を排した、欧州大陸の国々による純粋な『大陸内安全保障条約』です。その時、貴社のような企業は、軍事的な緊張ではなく、経済的な協力にこそ、そのリソースを注力できるようになるでしょう」


その言葉が出た瞬間、ディートリッヒの纏う空気が確かに変わった。

彼の瞳の奥で、冷たい計算の炎が、熱い野心の炎へと燃え移るのをヴォルコフは見逃さなかった。

アメリカの核の傘の下で繁栄を享受するのではない。大陸の運命を、大陸の人間自身が決める。

それは、おそらくドイツ人がどこかで持ち続けている夢なのだ。


「考えてみてください」とヴォルコフは続けた。

「安定したロシア市場、安価で豊富なエネルギー、そして軍事的脅威の消滅。これは、貴社の株主にとって、どれほどの利益をもたらすでしょうか」


ディートリッヒは、何も言わなかった。

彼の頭脳が計算しているのは、もはや株価や利益率だけではない。

ワシントンを怒らせるリスクと、欧州が真の主権を取り戻すという歴史的な利益。その二つを、巨大な天秤にかけていた。


ヴォルコフは、彼が結論を出すのを、静かに待った。


数分後、ディートリッヒは、傍らに控える秘書に静かに命じた。

その声には、もはや一片の迷いもなかった。

「…首相官邸に、連絡を。明日の朝、私が直接伺うと」


ヴォルコフは、心の中で静かに勝利を確信した。

政治家は動かなかった。だが、資本は動いた。

そして、その資本の裏にある、国家の自立という名の誇りが、今、歴史を動かそうとしていた。


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