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クレムリンの最終決裁

クレムリンの大統領執務室。


ペトロフは、ヴォルコフが提出した『改定CFE条約(ACFE)に関する新戦略提案』と題された報告書を、一言も発さずに読み終えた。

シェスタコフ将軍は、その隣で固い表情のまま直立している。


部屋には、時計の秒針の音だけが響いていた。


やがて、ペトロフは報告書を机に置き、指を組んだ。


「……シェスタコフ将軍。君は、これを承認したのか」


「承認ではありません、大統領閣下」


将軍は慎重に言葉を選んだ。


「あくまで、軍内部の反発を私が一時的に抑えるという『黙認』です。この計画の最終的な責任は、ここにいるヴォルコフ長官と、そして、ご決裁なさる閣下、あなたにあります」


その言葉は、責任の所在を明確にすると同時に、この計画がいかに危険な賭けであるかを改めて示していた。


ペトロフは、ヴォルコフに視線を移した。


「君は、アメリカを『友人』ではなく、『患者』に変えるというのだな。対テロ戦争という病に蝕まれ、国力を消耗し、やがて我々の差し出す『薬』……つまり『ソコル』に頼らざるを得ない、衰弱した患者に」


「その通りです、大統領」


ヴォルコフは臆することなく答えた。


「そして、その治療費として、我々は彼らの宇宙技術の全てを、合法的に手に入れます」


ペトロフは椅子から立ち上がり、執務室の窓辺をゆっくりと歩き始めた。

彼は背を向けたまま、まずシェスタコフに問いかけた。

その声は、冬の空気のように冷たく、静かだった。


「将軍。君は軍人だ。綺麗事は抜きで聞きたい。この計画が失敗した場合、我が国はどうなる? 具体的に説明してくれ」


シェスタコフは一瞬ためらった後、覚悟を決めたように口を開いた。


「最悪のシナリオは、国家の崩壊です」


その言葉は、何の誇張もなく、事実の重みだけを持っていた。


「我々が欧州通常戦力(CFE)条約からアメリカを外し、一方的に戦力を後退させたとしましょう。そして、欧州が我々の提案に乗らなかった場合、西側の国境線は完全に無防備になります。NATO軍は、我々が明け渡したその戦略的空白を、瞬く間に埋めるでしょう。それはベルリンの壁が、今度はスモレンスクの前に築かれることにつながります」


シェスタコフは続けた。一瞬言いよどんだが、はっきりと。


「さらに、国内も割れるでしょう」


それは現実的な、推測だった。


「保守派、特にノヴィコフ大臣のような現場上がりの政治家たちは、これを祖国への裏切りと見なす。彼らの銃口が、クレムリンに向かないという保証はどこにもない。政権は、内外からの圧力で圧殺されます」


ペトロフは黙って聞いていた。

そして、ゆっくりとヴォルコフの方へ向き直る。


「ヴォルコフ、聞いたかね。将軍の懸念はもっともだ。祖国をクーデターと侵略の危機に晒してまで、君は、この『賭け』に勝てると言うのか。我々が手にするものは、そのリスクに見合うだけの価値があるのか?」


「価値はあります。なぜなら、将軍が語る戦争は『過去の戦争』だからです」


ヴォルコフの声は、シェスタコフへの敬意を払いながらも、揺るぎない確信に満ちていた。


「我々が今戦うべきは、NATOではありません。『時間』です。この計画が成功すれば、我々は地上での無意味な消耗戦から解放され、国家の全ての力を、来るべき本当の戦争……五十五年後の、宇宙での防衛戦争に注力できます。アメリカを無力化し、欧州をパートナーとして取り込むことで、我々はそのための時間と技術と資金を、全て手に入れるのです」


一息の後、ヴォルコフは言い切った。


「将軍の言うリスクは、確かに大きい」


率直なリスクとして、シェスタコフの指摘は正しいと。


「ですが、それは未来の生存権を確保するための、必要経費です。そして、アメリカが『テロとの戦争』という泥沼に足を取られている『今』しか、その経費を支払う好機はないのです」


長い沈黙が、部屋を支配した。


シェスタコフの語る、あまりに現実的な「今日の危機」。

ヴォルコフの語る、まだ見ぬ「未来の生存」。


その二つが、ペトロフの頭の中で天秤にかけられていた。


やがて、ペトロフは振り返った。

その瞳には、もはや迷いはなかった。

彼の決断は、常に一つ。国益の最大化。


「よかろう。この計画を、国家の最高戦略として承認する」


彼はシェスタコフに向き直った。


「将軍。君には、軍の暴発を抑えるだけでなく、この計画をカモフラージュするための陽動を行ってもらう。NATOとの合同軍事演習の規模を、あえて縮小する提案をしろ。『ロシアは、もはや欧州を脅威とは見なしていない』という、偽りのメッセージを送るのだ」


次に、彼はヴォルコフを見た。


「ヴォルコフ。君は、直ちにベルリンとパリに飛べ。だが、政府高官に会うのではない。彼らが最も信頼する、産業界のトップと接触しろ。シーメンス、エアバス……そういった連中だ」


ペトロフの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。


「政治家に『平和』を説いても、彼らは疑う。だが、経済人に『利益』を約束すれば、彼らは自ら政府を動かす。ドイツとフランスに、この『アメリカ抜きの新欧州安全保障』が、いかに経済的に美味な話であるかを、骨の髄まで理解させろ」


「我々は、平和の使者ではない。最高のセールスマンになるのだ」

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