後見人の決断
ACFE:Adapted Conventional Armed Forces in Europe Treaty(適合型CFE条約)と呼ばれる。1999年イスタンブールで関係国で署名されたが、NATO側が批准保留に転じ発効せず、事実上凍結された。
ダーチャの暖炉の火が、シェスタコフ将軍の顔に深い影を落としていた。
ヴォルコフの言葉は、この老将軍が半生を捧げてきたロシア軍の存在意義そのものを、根底から覆すものだった。
「…正気か、セルゲイ」
シェスタコフの声は、怒りよりも呆れや、苛立ち。そして深い戸惑いを帯びていた。
「欧州通常戦力(CFE)条約は、我々がNATOと血を流さずに済むための最後の安全弁だ。そこからアメリカという最大のプレイヤーを意図的に外すだと?
それは欧州における軍事バランスを自ら放棄するに等しい。軍は…いや、この国の保守派は全員、君を国賊として吊るし上げるだろう」
「おっしゃる通りです、将軍」
ヴォルコフは静かに頷いた。
その冷静さが、逆にシェスタコフの苛立ちを煽る。
「ですが、我々が今戦っている『本当の戦争』は、ドイツやポーランドの平原で起きるのではありません。
それは、55年後の宇宙空間で、そして今この瞬間、この国の研究施設で、静かに始まっているのです」
彼は、ダーチャの窓の外に広がる深い森を見つめた。
「将軍、お考えください。
我々がCFE条約の足枷に縛られ、西側との無意味な戦車や戦闘機の数の競争を続けている間に、アメリカはNASAに年間数百億ドルを投じ続けている。
我々の予算は?
オリガルヒから吸い上げた資金を注ぎ込んでも、まだ足りない。
プロジェクト『ソコル』は、欧州と日本から集めた部品を前に、それを動かす頭脳と神経を作るための『時間』と『金』が、絶望的に不足しているのです」
ヴォルコフは、シェスタコフに向き直った。
その目には、狂信者の熱ではなく、死刑執行人のような冷徹な光が宿っていた。
「ACFEからアメリカを外し、欧州の安全保障を『欧州自身』の問題として矮小化させる。
アメリカの関心を、中東の泥沼と対テロ戦争に完全に釘付けにする。
その間に、ロシアは『欧州の平和を保証する善良な隣人』を演じながら、全ての国家リソースを宇宙へ、未来へ、ただ一点に集中させるのです」
「これは、陸軍と空軍の一時的な後退ではありません。
これは、来るべき絶滅戦争を前にした、国家としての『選択と集中』です。
我々は、過去の戦争に勝利するために、未来の戦争に敗北するわけにはいかない」
シェスタコフは、長い間、沈黙していた。
彼はヴォルコフを若き日から知っている。
その才能を、その危うさを、誰よりも理解していた。
そして今、目の前の男は、国家の存亡という大義のために、ロシアの魂である軍隊そのものを、生贄に捧げろと言っている。
やがて、彼は重々しく口を開いた。
「…セルゲイ。もしこの計画が失敗すれば、我々は西側に全ての喉元を差し出し、未来の希望も失う。
文字通り、全てを失うのだぞ」
「覚悟の上です」
「…大統領閣下は、何と?」
「まだ、お話ししておりません。
まず、あなたの、軍としての『内諾』が必要でした」
シェスタコフは、深く、長い息を吐いた。
そして、暖炉の火を見つめたまま、絞り出すように言った。
「…分かった。私個人の権限で、この計画への反対意見を水面下で抑え込もう。
だが、時間は稼げん。軍が気づく前に、大統領の承認を取り付け、結果を出せ。
さもなければ…私がお前を撃ち殺すことになる」
それは、後見人が弟子に送る最大限の信頼の言葉であり、そして、最後の警告だった。
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