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カサンドラの警告

2005年5月17日 パリ ESA本部。


「至急回覧」


件名の赤文字は、夜明け前の薄暗い廊下で、不吉な光を放っていた。

宛先は理事会全メンバー、発信者は宇宙輸送部門副長官ジャン=ピエール・アルノー。

その報告書のタイトルは、彼の絶望を端的に示していた。


――『バイコヌール視察報告:ロシアの技術的ブレークスルーと欧州宇宙戦略の再評価について』


報告書の冒頭は、冷徹な事実認識から始まっていた。


『ロシアの再使用型輸送機「ソコル」計画は、我々の想定を少なくとも5年以上先行している。これはコンセプトではなく、既に実証段階にある完成されたシステムである』


続く数ページには、T-3試験機の詳細な写真、機体構造の解析、着陸脚の作動原理、そして推進系のノズル形状に関する驚くべき予測が列挙されていた。

アルノーは最後にこう結んでいる。


『現状の欧州開発計画を続行することは戦略的敗北を意味する。我々は「ソコル」の前にあっては挑戦者ですらない。もはや顧客候補の一人に過ぎない。ESAが生き残る道は一つ。ロシアとの戦略的連携を、あらゆる外交的手段を用いて模索することである。競争は既に終わったのだ』


理事会室に集まった面々は、書類をめくるたびに顔色を失っていった。


「…馬鹿な」

「5年の差だと? あり得ない」


だが、誰もが心の底では理解していた。アルノーの報告は真実だと。

競争か連携か――結論は、出るまでもなく出ていた。


――


同年6月 モスクワ。

ESA代表団は異例の速さでモスクワに飛んだ。

名目は「平和的宇宙利用における共同開発分野の拡大協議」。

実質的には、ソコル計画という名の巨人に対し、欧州がいかにしてその足元に席を確保するかという必死の交渉だった。


クレムリンに隣接する政府迎賓館。

白い会議テーブルを挟んで、ESA幹部とロスコスモスの幹部が向き合う。

中央に座るヴォルコフは、柔らかく微笑みながらも、相手の質問を一歩ずつ絡め取るように答えていった。


「推進系の燃焼効率についてですが、そのデータを共有いただくことは…」

ESA側が切り出す。


「もちろん共有可能です」

ヴォルコフは即答した。

「ただし、それには貴機関が開発中の姿勢制御ソフトウェアの最新モジュールと、それに付随する全てのシミュレーションデータが必要になります。言うまでもなく、平和利用目的ですが」


「離着陸用脚部の衝撃吸収技術は素晴らしい。我々も参考にしたいのですが…」

「ええ、お見せできますとも」

ヴォルコフは頷いた。

「条件として、欧州の複合材成形ノウハウ、その基礎研究から応用技術まで全てのライセンスを、ロスコスモスに無償で提供いただければ」


ESA幹部たちは、最初は情報を引き出しているつもりだった。

だが、数時間が経過し議事録を確認した時、彼らは愕然とした。

ロシアに提供する技術項目の方が、ESAが得るものより遥かに多く、そして遥かに価値が高いものばかりだったのだ。


会議が終わり、握手を交わす。

アルノーは薄く笑いながらも、心の奥で血の味がするのを覚えていた。


(しまった…これは"共同開発"じゃない…我々は自ら進んで解体され、その最も価値ある部分を彼らに差し出しているだけだ…)


そんな彼らにヴォルコフは背を向け、窓越しにモスクワ川を見下ろした。

その瞳には満足も油断もなかった。

ただ、獲物が自ら網にかかり、その網をさらに強固にするために、自身の肉を差し出してきたという冷ややかな確信だけが宿っていた。

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