聖人と悪党
2005年1月3日 モスクワ
モスクワの国営テレビは、朝から晩まで同じ映像を繰り返し流し続けていた。
雲ひとつないインド洋の青。そこを低く滑るロシア海軍の白いKa-27PS救難ヘリ。
海沿いの町に押し寄せた瓦礫の山をかき分け、幼い子を胸に抱えて走る海兵隊員の巨躯。
甲板上に設営された野戦病院では、汗にまみれた軍医たちが止血や輸液に追われている。
救援艦隊に同行したテレビ局クルーが送るその映像は、悲劇の記録であると同時に、ロシアという国家の「慈悲」と「力」を、これ以上なく端的に示す最高の宣伝素材でもあった。
「見ろ、ヴォルコフ」
クレムリンの大統領執務室。ペトロフはスクリーンを見据えたまま、底冷えするような声を落とす。
「世界は我々を称賛している。『偶然近くを通りかかった心優しき友人』──その仮面は見事に機能した」
笑みはない。ただ淡々と事実を述べているだけの声色。
「この映像のおかげで、我が国の国際的イメージは飛躍的に向上する。
これで私が進めている国内の寄生虫……つまりオリガルヒどもの排除と拘禁に対する西側の非難も、確実に弱まるだろう。
何しろ我々は──人道家だからな」
あまりにも露悪的な言葉だった。
ヴォルコフは一瞬、全身の血が沸き立つのを感じた。
(二十万人の死を……政治カードとしか見ていないのか)
何か言わなければ──そう思ったが、口を開く直前、ヴォルコフは目の前の男の瞳を見て、言葉を失った。
ペトロフはスクリーンを見ていなかった。
画面に映る自分の顔──その奥を、じっと覗き込んでいた。
そこに宿っていたのは、勝利の満足でも冷たい計算でもなかった。
それは、あまりにも深く、暗い悲しみだった。
二十万人を救えなかったという無力感。
その悲劇を国益のために利用せざるを得ないという罪悪感。
そして、全ての決断の責任を一人で背負わなければならない指導者の、底なしの孤独。
ペトロフは悲しんでいないのではない。
大統領という仮面の下で、誰よりも深く悲しみ、
そのうえで国を動かすために悪党を演じているのだ。
部屋には重い沈黙が降りた。
テレビの中では、アナウンサーがロシア兵の英雄的行動を誇らしげに伝えている。
聖人と悪党──その二つの顔を持つ国家の指導者は、
その報道をただ静かに、黙して見つめていた。
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