友人の仮面
大地震発生から数時間後、クレムリン。大統領執務室。
その部屋は、今や世界で最も迅速な災害対策本部と化していた。
ペトロフは矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。
その姿は混乱のかけらもなく、ただただ冷静沈着。
対応は適切で、あまりにも適切で、まさにお手本と呼ぶにふさわしい。
「ノヴィコフ、駆逐艦から第二次ヘリ部隊を発艦させろ。生存者の捜索を最優先だ」
「外務省、タイ政府と連携し、プーケット国際空港を我々の救援物資輸送拠点として使用する許可を取り付けろ。即時だ」
「インド首相へ。我が国は医療チームの派遣準備がある。いつでも要請に応じてほしいと伝えろ」
彼は、ロシアが伝統的に友好関係を築いてきた国々へ、惜しみない支援を約束していた。
その姿は国際社会の目には、大国としての責任を果たす、頼もしい指導者そのものに映っているだろう。
その時、執務室の赤い電話機が鳴った。
インドネシア大統領府との緊急ホットラインだった。
ペトロフは受話器を取り、静かに相手の言葉に耳を傾けた。
電話の向こうから聞こえてくるのは、国家の指導者としての威厳をかろうじて保ちながらも、悲しみと疲労に打ち震えるインドネシア大統領の声だった。
「…ペトロフ大統領。感謝の言葉もない…。世界がまだ状況を把握できずにいる中で、貴国の艦隊が、すでに我が国の沖合に到着したとの報告を受けた…。神の御業としか思えない…」
受話器の向こうの、心の底からの純粋な感謝の言葉。
その一言を聞いた瞬間、ペトロフの机の上に置かれていた左手が、一瞬、かすかに震えた。
まるで強い電流が走ったかのように。
(…神の御業、か…)
彼の脳裏に、警告を出すことを主張したヴォルコフの顔と、それを一蹴した自分の声が蘇る。
神の視点を持ちながら、神にはなれないと断じたのは、自分自身だ。
(…違う。我々は神ではない。ただの、卑劣な友人だ…)
だが、受話器を握る彼の声は、その内心の激しい動揺を微塵も感じさせなかった。
その声は完璧にコントロールされ、力強く、そして慈愛に満ちていた。
「友よ。我々は、友邦が苦しんでいる時に、ただ手をこまねいているような国ではない。
ただ、偶然にも我々の艦隊が君たちの近くにいただけだ。
今は感謝の言葉などいい。必要なものを、何でも言ってくれ。ロシアは、友人のために決して支援を惜しまない」
受話器を置いた後、彼は震えが完全に収まった手で、カップの水を一口飲んだ。
そして何事もなかったかのように、次の指示を出すため、傍らに控える補佐官に顔を向けた。
その仮面の下にある魂の痛みを知る者は、この部屋には、そしてこの世界には、誰一人としていなかった。
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