地獄の海岸線
このエピソードも史実を基にしていますが、フィクションとして脚色したものです。この事件で犠牲になられた方々に、深く哀悼の意を表します。
2004年12月26日、インドネシア・アチェ州沿岸部上空。
艦隊旗艦『アドミラル・ヴィノグラードフ』から飛び立った、カモフKa-27PSヘリコプターのキャビンは、油と汗と、そして言いようのない焦燥感で満ちていた。
操縦桿を握る、まだ二十歳になったばかりのパイロット、イワン・ポポフ水兵は、喉の奥にこみ上げてくるものを必死に抑え込んでいた。
眼下の光景は、まさに地獄だった。
かつて緑豊かな熱帯の海岸線だった場所は、巨大な爪で抉られたように、無残な姿を晒している。
打ち上げられた無数の漁船が、折れたヤシの木や原型をとどめない瓦礫と絡み合い、まるで巨大なゴミ捨て場のようだ。
茶色く濁った海水は、内陸深くまで侵入し、家々の基礎だけを残して全てを飲み込んでいる。
ところどころには黒い油のようなものが漂い、鼻をつく異臭が、ヘリの換気システムを通してまで侵入してくる。
「…信じられない…」
副操縦士が、茫然とした呟きを漏らした。
イワンも同じ思いだった。訓練で何度も見てきた災害シミュレーションなど、この現実の百分の一も表現できていなかった。
ヘリのキャビン後部では、救助隊の水兵たちが必死に海岸線を見下ろしている。
「あっちだ! 流木につかまっている人がいる!」
「屋根の上! まだ誰かいるぞ!」
彼らの指差す方向には、絶望的な状況の中でわずかに生き残った人々が、助けを求めて手を伸ばしていた。
泥まみれになり、力尽きかけている者、子供を必死に抱きしめている親。
その表情には、恐怖と悲しみと、そしてほんのわずかな希望が入り混じっている。
イワンは無線から聞こえる救助隊の指示を聞きながら、操縦桿を繊細に操作した。
ヘリは強風にあおられ、不安定に揺れる。
一瞬の判断ミスが、自分たちの命だけでなく、助けを待つ人々の最後の希望を奪いかねない。
プレッシャーが、彼の全身に重くのしかかる。
「降下する! ホイスト準備!」
後部ハッチが開けられ、強烈な日差しと、腐臭混じりの湿った空気が流れ込んでくる。
水兵たちが救助用のワイヤーとハーネスを素早く準備する。
彼らの顔にも、眼下の惨状に心を痛めている色が浮かんでいた。
それでも、その動きは訓練されたプロフェッショナルそのものだ。
ヘリは、ゆっくりと瓦礫の山の上にホバリングする。
下では人々の手が、必死に空に向かって伸ばされていた。
一人の水兵が、躊躇なく危険な瓦礫の上に降下していく。
イワンは、ヘリのわずかな揺れを感じながら、何度も息を吐いた。
自分が今、この地獄のような光景の中で、ほんの少しでも人々の役に立っている。
その事実だけが、彼の胃の不快感をわずかに和らげていた。
眼下には、まだ無数の命が助けを求めていた。
ロシア海軍のヘリコプターは、一機、また一機と地獄の海岸線をなめるように飛び、懸命にその数を減らしていく。
彼らは、ただ命令に従っているだけではない。
そこにいるのは、未来を知る者の罪を少しでも償おうとする、名もなき水兵たちの静かな祈りだった。
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