悲劇の観測者
2004年12月26日、プロジェクト『ソコル』本部施設。
その日、ヴォルコフは仕事が全く手につかなかった。
彼は執務室にいることができず、まるで檻の中の熊のように、だだっ広い施設の中をあてもなく歩き回っていた。
誰もいない休憩室にたどり着き、壁にかけられたテレビの前に、吸い寄せられるように座る。
画面の中では、クリスマスを祝う、陽気でありふれた海外の番組が流れていた。
(…もうすぐか)
ヴォルコフは、机上の全ての問題――プロジェクトの遅延も、予算の不足も、国際社会の駆け引きも、今はどうでもよかった。
彼の思考は、ただ一点、インド洋の青く穏やかな海に集中していた。
彼が投じた、あまりに小さく、そして無力な「警告」という名の小石。
それは、歴史の奔流の中に、何の波紋も立てずに消えていった。
脳裏で、20万人という数字が明滅する。
彼が救うことを放棄した命の数だ。
国家の秘密を守るため。
ロシアの未来の優位性を確保するため。
その、あまりにも冷たい理性の前で、彼は人であることをやめた。
神の視点を持ちながら、救いの手を差し伸べることを自ら禁じたのだ。
その時だった。
ピピピッ、ピピピッ…
陽気な番組が、けたたましい緊急警報音と共に、ニュース速報の画面に切り替わった。
「臨時ニュースです。先ほど、インドネシア・スマトラ島沖を震源とする、極めて大規模な地震が発生しました。マグニチュードは…」
アナウンサーの切迫した声が、他人事のように遠くに聞こえる。
ヴォルコフは、何も言わなかった。
ただ、テレビ画面に映し出された、これから起きる全てを知りながら、深く、深く、うなだれた。
その肩は、良心の呵責という誰にも見えない重荷に押し潰され、小さく震えていた。
――――
同時刻、シンガポール沖。
ロシア太平洋分艦隊、旗艦『アドミラル・ヴィノグラードフ』艦橋。
艦隊司令官のアンドレイ・ペトレンコ少将は、穏やかな海を眺めながら、シンガポールへの入港手順を確認していた。
表敬訪問は、退屈だが重要な任務だ。
その平穏な艦橋の空気を、通信士官の鋭い声が引き裂いた。
「司令!モスクワ海軍司令部より、最優先緊急警報!暗号レベル『ゼロ』!」
その言葉に、艦橋にいた全員の背筋が伸びる。
『ゼロ』は、国家の存亡に関わる有事の際のみに使われる、最上位の暗号レベルだ。
通信士官が差し出した一枚の紙を、ペトレンコはひったくるように受け取った。
そこに記されていたのは、簡潔な、しかし信じがたい命令だった。
『スマトラ島沖にて超巨大地震発生。大津波を予測。現時刻をもって表敬訪問任務を中止。
全艦、直ちに第一級災害救助態勢に移行。積載物資の全開放を許可。
進路をインド洋に向け、最大戦速で被災海域へ急行せよ』
ペトレンコは命令書から顔を上げた。
全てを理解した――この不可解なほど前倒しにされた航海の真の意味を。
船倉に満載された、表敬訪問には不釣り合いなほどの大量の医薬品と食料の、本当の使い道を。
彼はゆっくりと、被っていた制帽を一度脱ぎ、そして決意を込めて深くかぶり直した。
その顔は、もはや外交官のそれではなく、戦場に向かう指揮官の顔だった。
「面舵いっぱい!進路、西!マラッカ海峡を抜け、インド洋へ向かう!」
ペトレンコの鋼のような声が、艦橋に響き渡る。
「機関、最大戦速!全艦、これは訓練ではない!繰り返す、これは訓練ではない!」
世界がまだ悲劇の第一報に混乱している、まさにその瞬間。
ロシア海軍は、まるでその悲劇が起きることを数週間も前から知っていたかのように、世界で最も迅速に、そして的確に動き始めていた。
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