利益のための人道
翌朝、ヴォルコフとノヴィコフが提出した二つの報告書は、ペトロフの机に並べられていた。
大統領は、一睡もしていないかのような鋭い目で二人を見据えた。
「二人とも、報告は読んだ」
ペトロフは静かに言った。
「ヴォルコフ、君の言う『人道的警告』は、あまりに多くの不確定要素を含んでいる。秘密の露見というリスクは、我が国が負うには大きすぎる」
彼は次に、ノヴィコフに向き直った。
「そしてノヴィコフ、君の言う『完全な沈黙』は、この千載一遇の好機をドブに捨てるに等しい。ただ座して20万人が死ぬのを眺めるのは、指導者の怠慢だ」
ペトロフは立ち上がり、告げた。
その声には、もはや一切の迷いはなかった。
「我々はそのどちらでもない、第三の道を行く」
彼はまず、ヴォルコフに命じた。
「警告は出す。ただし、ロシア連邦としてではない。
我々が密かに資金援助している、サンクトペテルブルクの在野の地震学者がいるだろう。彼に、ごく個人的な研究論文として『スンダ海溝における大規模な地殻ストレスの兆候』という、極めて簡素な情報を、海外のマイナーな学術ウェブサイトに投稿させる。それだけだ。
誰の目にも留まらない、しかし後から掘り起こせば『警告は存在した』と証明できる、ただそれだけの一手だ」
次に、ノヴィコフ国防大臣に命じた。
「そして、艦隊を出す。太平洋艦隊所属の駆逐艦『アドミラル・ヴィノグラードフ』を旗艦に、イワン・ロゴフ級大型揚陸艦を追加した小規模な護衛艦隊を、近日中に出航させろ。行き先は、シンガポールとジャカルタ。
名目は『東南アジア諸国連合との安全保障対話のための表敬訪問』だ。元々来年の春に予定されていたものを、前倒しする」
ノヴィコフが目を見開いた。
「閣下、しかし、それはあまりに不自然な動きです!西側は必ず訝しむ!」
「ああ、訝しむだろう」
ペトロフは頷いた。
「だが、彼らはこう結論付ける。
『経済が回復しつつあるロシアが、テロとの戦争で手薄になった東南アジアに影響力を拡大しようと、唾をつけ始めた』とな。それは、我々が受け入れられる、ギリギリのリスクだ」
ペトロフは二人を見据え、その計画の真の目的を明かした。
「我々は、津波を止めることはできない。
だが、世界で最初に被災地に到着する救援部隊になることができる。
我々は、未来を知る神としてではなく、『偶然近くを通りかかった、心優しき友人』として彼らを助けるのだ。
世界は、ロシアの迅速な人道支援に感謝し、称賛するだろう。
我々は、20万人の悲劇を、我が国の国際的地位を飛躍させるための、最大の舞台として利用する」
――――
二日後。サンクトペテルブルクの古びたアパートの一室。
老地震学者ヤロスラフは、暗号化されたメールに記された、ただ一言の指令――「実行せよ」を確認し、深いため息をついた。
彼は、自分が国家のチェス盤のどんな駒なのかを正確には知らない。
ただ、時折与えられる指令に従い、研究の断片を発表するだけで、研究費と年金が保証される生活を送っていた。
海外の誰も見ていないような地質学フォーラムにログインし、短い論文を投稿する。
タイトルは「スンダ海溝における微弱な地殻変動の周期性について」。
内容は専門家でなければ理解できない、退屈なデータと数式の羅列。
そして、その結論の最後に、ただ一行だけを付け加えた。
『これらのデータは、今後数ヶ月以内に、この海域でM8.5を超える大規模なエネルギー解放が起きる可能性を示唆している』
投稿ボタンをクリックし、PCを閉じる。
ヤロスラフは戸棚からウォッカの瓶を取り出した。
――――
さらに一週間後。ウラジオストクの軍港。
灰色の空の下、駆逐艦『アドミラル・ヴィノグラードフ』とイワン・ロゴフ級大型揚陸艦、ほか数隻がゆっくりと岸壁を離れていった。
甲板に整列した水兵たちの間を、冷たい風が吹き抜ける。
彼らに与えられた任務は「東南アジアへの表敬訪問」。
しかし、その揚陸艦の巨大な船倉に積まれているのは、儀礼用の武器弾薬ではなく、医薬品、数千トンの真水、仮設住居、そして一個大隊分の陸戦隊員と、彼らが扱う重機だった。
艦長は、この不可解な任務に首を捻りながらも、命令通りに南へと舵を切った。
ロシアという国家の、利益のために死にゆく20万人と、利益のために助けられる数千人。
非情な方舟は、歴史上最も残酷な救援活動に向けて、静かにその航海を開始した。
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