後見人
パーヴェルが出て行った後の静寂は、罪悪感のように部屋に満ちた。
ヴォルコフは机の上の端末を睨み、そこに映る自分の顔を振り払うように立ち上がった。
約束は、約束だ。
宇宙庁本部の片隅にある医務室のドアを開けると、消毒液の匂いが鼻をついた。
当直の老医師は元日の来訪者に驚きながらも、黙って血圧を測り、簡単な問診を済ませた。
「長官、ただの疲労です。……それと、少し肝臓が悲鳴を上げています。お立場は理解しますが、ウォッカは友人ではありませんよ」
その言葉は、パーヴェルの忠告よりも静かに、だが深く突き刺さった。
ヴォルコフは礼を言って部屋を出た。頭は奇妙なほど冴えている。やるべきことは決まった。
自室に戻り、彼は一本の電話をかけた。政府の暗号化された特別回線。相手はすぐに出た。
「シェスタコフだ」
野太く、揺るぎない声。戦略ロケット軍を半生過ごした男の声だ。
「ヴォルコフです。……お時間をいただけますでしょうか」
「セルゲイか。元日から何の騒ぎだ」
シェスタコフ将軍は、ヴォルコフを長官ではなく、若き技術者だった頃のように「セルゲイ」と呼ぶ数少ない人間の一人だった。
ヴォルコフの才覚に賭け、当時のエリツィン政権末期の混沌の中で、若すぎると言う周囲の反対を押し切って彼をロスコスモスの長官代理にねじ込み、続くペトロフ政権に「我が国最高の頭脳だ」と引き継がせた後見人である。
「説明が難しい問題です。将軍に、直接お見せしたいものが」
電話の向こうでシェスタコフが短く息を吐く気配がした。
「……三時間後、ダーチャ(別荘)に来い。誰にも気づかれるな」
雪が降りしきるモスクワ郊外。
シェスタコフのダーチャは、古い木材が放つ温かみと、壁に飾られた勲章の冷たさが同居していた。
暖炉の火が、将軍の顔に深い影を落とす。
「それで、私の休日を潰すほどの話とは何だ」
シェスタコフは、ヴォルコフが差し出した端末を、老眼鏡越しに怪訝な顔で覗き込んだ。
異星人の侵攻、未来からの警告、そして膨大な技術データ。
将軍は眉一つ動かさずに画面をスクロールしていく。やがて、彼は端末をテーブルに置いた。
「アメリカの心理戦か、手の込んだハッカーの悪戯か」
「私もそう考えました。ですが、将軍。添付されている二〇〇〇年から二〇〇三年の小天体、太陽嵐の予測データ。これは現在のいかなるモデルでも算出不可能な精度です。もしこれが的中すれば、話は変わります」
シェスタコフは沈黙したまま、暖炉の火を見つめていた。
ヴォルコフを抜擢したのは、彼の技術的知見だけではない。その若さに見合わない、現実しか見ない冷徹な目に賭けたのだ。
その目が、こんな荒唐無稽なものを信じろと言っている。
「……セルゲイ」将軍はゆっくり口を開いた。「私が君をペトロフ大統領に推挙した時、何と言ったか覚えているか」
「『彼は嘘をつけない男です。ただ、真実を黙っていることはできる』と」
「その通りだ」シェスタコフは頷いた。「君は今、その真実を私に話している。そうだな?」
「はい。私の知る限りの、全てを」
将軍は重々しく立ち上がり、書棚から分厚いファイルを取り出した。
それは、NATOの最新兵器に関する機密報告書だった。
「この情報がもし本物なら、我々が今恐れている西側の脅威など、子供の玩具に等しくなる。……同時に、この情報自体が、我々を内側から崩壊させる毒にもなりうる」
シェスタコフはヴォルコフに向き直った。
その目は、もはやただの老将軍のものではなく、国家の安全保障をその両肩に背負う男の目だった。
「いいだろう。君の検証計画を、私が裏から支援する。必要な機材、人材、予算。全て『新型偵察衛星開発』の机上検討名目で処理する。だが、条件がある」
「何でしょう」
「この件は、当面、私と君、そして君が選んだ最小限の技術者だけの秘密とする。大統領閣下への報告は、私がその時機を判断する。……いいな、セルゲイ。これは命令だ。君は今、核のボタンよりも重い情報を持っているかもしれん。軽々しく動けば、ロシアが滅ぶぞ」
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