大統領の孤独
重厚な扉が閉まり、ヴォルコフとノヴィコフ、シェスタコフの足音が廊下の向こうに消えていく。
地下作戦室に、ペトロフは一人残された。
完全な静寂が訪れた、その瞬間だった。
ドンッ!!
ペトロフは、ありったけの力で、その拳を硬いマホガニーの机に叩きつけていた。
先ほどまでの、氷のように冷静な国家元首の姿はどこにもない。
そこには、ただ怒りと無力感に顔を歪ませた、一人の男がいた。
「…ふざけるな…」
絞り出すような声が、彼の喉から漏れた。
「なぜ私が、こんな選択をしなければならんのだ…!」
彼の脳裏に、あの数字が焼き付いて離れない。
――死者20万人以上。
それは単なる数字ではない。
父親、母親、昨日まで笑い合っていた子供たち、恋人たち、友人たち。
何の罪もない、名もなき20万の人生が、数週間後に巨大な水の壁に飲み込まれて消える。
彼は、その光景を、あまりにも鮮明に幻視してしまっていた。
(…馬鹿げている。私の心は、世界に向かって叫べと、警告しろと、一人でも多くの命を救えと、そう言っている…)
だが、彼は大統領だった。
ロシア連邦大統領という、仮面をつけた人間だ。
彼の口から出た言葉は、「この取引が我が国にとって『儲かる』話なのかどうか」だった。
彼は、20万人の命を天秤の片方に乗せ、もう片方には「ロシアの国益」という、血も涙もない鉛の塊を置いた。
(…大統領に、心などあってはならん。あるのは、国家という機械を動かすための、冷たい理性だけだ…)
彼は自分にそう言い聞かせ、その教え通りに振る舞ってきた。
しかし今日、彼が手に入れた「神の視点」は、その理性と感情を分厚く隔てていた壁を、粉々に打ち砕いてしまった。
ペトロフは、ぜえぜえと荒い息を吐きながら、ゆっくりと拳を上げた。
机には、彼の激情の痕跡が、わずかに刻まれている。
彼は、その傷跡を、まるで自分自身を戒めるかのように、ゆっくりと指でなぞった。
そして、深く、深く息を吸い込み、吐いた。
数秒後。
彼が顔を上げた時、そこにはもう、感情に揺れる男の姿はなかった。
その瞳には、再び全てを見透かすような、冷徹な光が戻っていた。
彼は、乱れたネクタイを直し、何事もなかったかのように、スクリーンに映るインド洋の地図に向き直った。
天秤は、まだ揺れている。
そして、その針をどちらに振るかを決めるのは――今この瞬間に感情を殺した、世界で最も孤独な、この男だけだった。
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