神の視点と人間の選択
このエピソードも史実を基にしていますが、フィクションとして脚色したものです。この事件で犠牲になられた方々に、深く哀悼の意を表します。
2004年11月、クレムリン地下作戦室。
部屋の空気は鉛のように重かった。
ヴォルコフがスクリーンに映し出したのは、インド洋を囲む地図と、未来メールから抜粋された数行のテキストだった。
――2004年12月26日、スマトラ島沖にてM9.1の超巨大地震発生。インド洋沿岸全域に未曾有の大津波到達。死者20万人以上。
その破滅的な数字を前に、最初に沈黙を破ったのはノヴィコフ国防大臣だった。
彼の声は怒りに震えていた。
「言語道断だ、ヴォルコフ長官」
ノヴィコフは立ち上がり、ヴォルコフを睨みつけた。
「この情報を外部に漏らすなど!貴様は我々が持つ最大の戦略的優位を、自らドブに捨てろと言うのか!
このメールは我々だけの秘密だ!誰が死のうと知ったことか!」
そのあまりに無慈悲な言葉に、ヴォルコフは静かに、しかし強い意志を込めて反論した。
「大臣、これはテロでも戦争でもありません。自然災害です。相手は人間ではない。核兵器の設計図を公開しろと言っているのではありません。嵐が来ると告げるのと同じです。我々には警告を発する余地があるはずです」
「警告だと?」ノヴィコフは嘲笑するように言った。
「どうやって警告する?『ロシアの新しい地震予測モデルが的中した』とでも言うのか?世界中の諜報機関が、その『モデル』を盗むために我々の科学者を骨の髄までしゃぶり尽くすだろう!そしてその先にあるのは何か!我々の秘密の露見だ!国家の破滅だ!」
ヴォルコフは一歩も引かなかった。
「匿名でインドネシアやタイの気象機関にリークすることもできる。我々が直接手を下す必要はない!」
「匿名情報など誰も信じない!無視されるだけだ!」ノヴィコフは机を叩いた。
「そして万が一信じられたとしても、デジタル社会の現代で発信源が特定できないとでも思っているのか!君は感傷で国家を危険に晒す気か!」
二人の激論が部屋の空気を切り裂く。
シェスタコフ将軍はただ黙って眉間の皺を深くしていた。
この議論が、軍事合理性と人道のどちらに軍配を上げるかという単純な話ではないことを理解していたからだ。
これは未来を知ってしまった人間が「神の視点」をどう扱うべきかという哲学的な問いだった。
その間、ペトロフ大統領はただ黙って二人を見ていた。
彼は椅子に深く身を沈め、指を組みながら激しく言葉を交わす腹心たちを観察している。
その表情からは賛成も反対も読み取れない。
彼はただ、この究極の選択がロシアという国家の未来に何をもたらすのか、その利益とリスクを天秤にかけ続けていた。
やがてペトロフはゆっくりと手を上げた。
その合図一つで部屋は再び静寂に包まれた。
「…二人とも」
大統領の声は静かだったが、部屋の隅々まで響き渡った。
「議論は尽くしたようだ」
彼はヴォルコフを見た。
「ヴォルコフ、その『警告』がもたらす国際社会における我が国の地位向上という利益は理解できる」
次にノヴィコフを見た。
「そしてノヴィコフ、君の言う『秘密の保持』という国家安全保障上の絶対的要請もだ」
ペトロフは立ち上がり、スクリーンに映るインド洋の地図の前に立った。
彼はまるで、その青い海の向こうで数週間後に起きる悲劇を、その目で見ているかのように、長い間沈黙していた。
そして彼は振り返り、ヴォルコフに命じた。
「ヴォルコフ、明日の朝までに、その『匿名での警告』の具体的な文面、伝達経路、そして成功確率を記した報告書を提出しろ」
次にノヴィコフに命じた。
「ノヴィコフ、その警告が実行された場合に想定される全ての『最悪のシナリオ』…つまり秘密の露見に至るまでの過程と、それが我が国に与える損害評価を同様に提出しろ」
大統領は二人を交互に見据え、最後の言葉を告げた。
「神の視点を持つのはいい。
だが我々は神ではない。ロシアだ。
この取引が我が国にとって『儲かる』話なのかどうか…その判断材料を明日の朝までに揃えろ」
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