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鷹の初飛行

2004年6月、カザフスタン共和国。バイコヌール宇宙基地の片隅。


公式記録上、この日行われるのは「新型気象観測用サブオービタルロケット」の打ち上げ実験とされていた。

集められた観客も、ロスコスモスの若手職員やその家族たち。国家プロジェクトというよりは、さながら社員向けのささやかなレクリエーションのようだった。


その観客席の後方で、一人の男が、小さな女の子を腕に抱いて、静かに発射台を見つめていた。

セルゲイ・ヴォルコフ。そして彼の娘、マリア。


「パパ、あのロケット、お空に行くの?」


マリアが、父親の肩越しに小さな指で発射台を指差す。

彼女の目には、これから始まるイベントが、ただ楽しいお祭りのように映っている。


「ああ、そうだよ。少しだけ、空にお散歩に行くだけだ」


ヴォルコフは、娘の髪を優しく撫でながら答えた。

周囲の誰も、この男が、これから打ち上げられる小さな鉄の塊に、ロシアの――いや、人類の未来を賭けていることなど知る由もない。

今日の彼は、ただの「休暇を利用して、娘にロケットを見せに来た優しい父親」だった。


やがて、最終カウントダウンが始まる。

ヴォルコフの腕の中で、マリアが歓声を上げた。

しかし、ヴォルコフの目は笑っていなかった。


発射台に立つ、全長わずか十五メートルの小さなロケット。

それは『ソコル』の完全な試作機ではない。

日本から取り寄せた工作機械と、ESAとの協力で得たセンサー類を組み合わせ、そしてロシアの魂である強力なエンジンを搭載した、実験機『ソコル-T1』。


その目的は、宇宙へ到達することではない。

ただ、高度百キロまで到達し、そして自らのエンジンを逆噴射させて、垂直に地上へ帰ってくること――ただそれだけだった。


「…3、2、1、リフトオフ!」


轟音と共に、『ソコル-T1』は白い煙を吐き出しながら、空へと駆け上がっていく。

観客席から、大きな歓声と拍手が沸き起こる。


ヴォルコフは、娘を抱く腕に、無意識に力を込めた。

彼は、ただロケットを見ているのではない。

その遥か向こうに、六十年後に太陽系を埋め尽くすであろう、異星の艦隊を見ていた。


ロケットは、数分で大気圏を突破し、やがてエンジンの燃焼を停止した。

観客たちの興奮が、少しずつ落ち着き始める。

多くの者にとって、ショーはこれで終わりだ。


しかし、本当の戦いは、ここからだった。


管制室と繋がったイヤホンから、パーヴェルの冷静な、しかし緊張を隠せない声が聞こえてくる。


「…機体、反転。再突入フェーズへ移行」

「…降下速度、秒速一二〇〇メートル。安定」

「…高度一万メートル。着陸用エンジン、点火準備」


ヴォルコフは、固唾を飲んだ。

彼がこの数年間、全てを賭けてきたものが、今、試されようとしている。


「…エンジン、点火! 降下速度、減速中!」


イヤホンの向こうで、技術者たちの声が上ずる。


「…高度五百!…三百!…百!」

「…着陸脚、展開! 姿勢制御、良好!」

「…5、4、3、2、1…」


次の瞬間、イヤホンから、管制室が爆発したかのような歓声が聞こえてきた。


「…着陸成功! 『ソコル-T1』は、自らの足で、大地に立ちました!」


ヴォルコフは、その報告を聞きながら、空を見上げた。

目頭が、熱くなるのを止められなかった。


彼の腕の中で、マリアが不思議そうに父親の顔を見上げていた。


「パパ、どうしたの? 泣いてるの?」


「…違うよ、マリア」


ヴォルコフは、涙を隠すように、娘を強く抱きしめた。


「嬉しくて、誇らしいだけだ。…あのロケットが、君の未来を守る、最初の翼になるんだ」


鷹は、まだ小さく、不格好だった。

しかし、その日、確かに初めて、自らの翼で大地に立ったのだ。

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