表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/101

表の握手と裏の取引

2002年12月、ウラジオストク。


凍てつくような港の寒気をよそに、日露両国の首脳が立った調印式会場は、歴史的な熱気に包まれていた。

ペトロフ大統領と日本の首相が、笑顔で固い握手を交わす。


「日露新時代経済パートナーシップ協定」――その名は、両国の輝かしい未来を謳っていた。


日本の自動車メーカー最大手と、その関連企業連合が、ロシア極東および中央ロシアに大規模な生産拠点を建設する。

その条件は、日本側にとって信じがたいほどに破格だった。


完成車および関連部品への関税を、今後10年間、実質ゼロとする。

工場用地および建屋はロシア側が提供。

旧ソ連時代の軍事工場跡地を最新鋭の自動車工場へと、ロシアの国家予算で改装する。

エネルギーコスト、法人税についても、前例のない優遇措置を適用する。


まさに「至れり尽くせり」の条件だった。

日本の財界は、ロシア市場への巨大な足がかりを得られると沸き立ち、政府もまた、隣国との安定した関係構築を国民にアピールできた。

すべてが、輝かしい成功の物語に見えた。


――同時期、東京・霞が関。経済産業省。


一人の課長補佐が、ロシアの「トヨタウン」計画へ輸出される工作機械のリストを前に、頭を抱えていた。

リストに記載された、ある日本製「高精度5軸マシニングセンタ」は、自動車の金型製造用とされている。


しかし、その性能は、軍事転用可能な戦略物資として、輸出規制の対象に抵触する可能性が極めて高かった。


彼は、規定通り、ワシントンの米国商務省カウンターパートに国際電話で問い合わせた。


「…それで、この件なんだが。ロシア向けの輸出案件で、少々機微な技術が含まれている。貴国の見解を伺いたい」


電話の向こうのアメリカ人担当官の反応は、驚くほど鈍いものだった。


「ああ、その件ね。ペトロフ大統領肝煎りの、日本の自動車工場への投資だろう?

こちらの分析では、完全に民生利用の範囲内だ。特に懸念事項はない」


「しかし、この工作機械のスペックは…」


「問題ないと言っている」

アメリカ人の声には、有無を言わせぬ響きがあった。


「大統領府は、ロシアの経済的安定は、テロとの戦争における重要な要素だと考えている。

我々はその方針を支持するだけだ。良い一日を」


電話は、一方的に切られた。

課長補佐は、受話器を置いたまま、窓の外を見た。


アメリカが、これほど甘い審査をするなどありえない。

これは、審査ではない。国家としての、意図的な『目こぼし』だ。


彼は、理由のわからない巨大な政治の奔流の中にいることを悟り、ただ、その輸出許可書に、承認の印を押すしかなかった。


――プロジェクト『ソコル』本部施設。


ヴォルコフとコマロフ技師が、その輸出許可リストを食い入るように見つめていた。

それは、彼らにとって、単なる機械のリストではなかった。

未来へ至るための、パーツリストそのものだった。


「長官…」

コマロフの声が、興奮に震えていた。


「この『自動車部品用レーザー溶接機』…これを使えば、『ソコル』の燃料タンクの、あの複雑な曲面をミリ単位の誤差なく溶接できる。

そして、この『エンジン制御ユニット(ECU)用シリコンウェハー製造装置』…これこそ、我々が喉から手が出るほど欲しかった、誘導コンピュータの心臓部を作るための機械です…!」


彼らは、兵器を密輸しているのではない。

白昼堂々、日米両政府の承認の下、合法的に、プロジェクト『ソコル』の神経や骨格となる、最高レベルの産業基盤を、ロシア国内に丸ごと輸入しているのだ。


ヴォルコフは、リストの末尾に記載された、アメリカ政府の「懸念事項なし」という一文を指でなぞった。


悪魔との取引は、成立した。

アメリカは「テロとの戦争」での協力という麻薬のために、自らの同盟国である日本を使い、未来のライバルを、その手で育て上げることを選んだのだ。


その取引の代償の大きさを、まだ誰も知らなかった。



更新の励みになります。ブクマ・感想・評価いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ