表の握手と裏の取引
2002年12月、ウラジオストク。
凍てつくような港の寒気をよそに、日露両国の首脳が立った調印式会場は、歴史的な熱気に包まれていた。
ペトロフ大統領と日本の首相が、笑顔で固い握手を交わす。
「日露新時代経済パートナーシップ協定」――その名は、両国の輝かしい未来を謳っていた。
日本の自動車メーカー最大手と、その関連企業連合が、ロシア極東および中央ロシアに大規模な生産拠点を建設する。
その条件は、日本側にとって信じがたいほどに破格だった。
完成車および関連部品への関税を、今後10年間、実質ゼロとする。
工場用地および建屋はロシア側が提供。
旧ソ連時代の軍事工場跡地を最新鋭の自動車工場へと、ロシアの国家予算で改装する。
エネルギーコスト、法人税についても、前例のない優遇措置を適用する。
まさに「至れり尽くせり」の条件だった。
日本の財界は、ロシア市場への巨大な足がかりを得られると沸き立ち、政府もまた、隣国との安定した関係構築を国民にアピールできた。
すべてが、輝かしい成功の物語に見えた。
――同時期、東京・霞が関。経済産業省。
一人の課長補佐が、ロシアの「トヨタウン」計画へ輸出される工作機械のリストを前に、頭を抱えていた。
リストに記載された、ある日本製「高精度5軸マシニングセンタ」は、自動車の金型製造用とされている。
しかし、その性能は、軍事転用可能な戦略物資として、輸出規制の対象に抵触する可能性が極めて高かった。
彼は、規定通り、ワシントンの米国商務省カウンターパートに国際電話で問い合わせた。
「…それで、この件なんだが。ロシア向けの輸出案件で、少々機微な技術が含まれている。貴国の見解を伺いたい」
電話の向こうのアメリカ人担当官の反応は、驚くほど鈍いものだった。
「ああ、その件ね。ペトロフ大統領肝煎りの、日本の自動車工場への投資だろう?
こちらの分析では、完全に民生利用の範囲内だ。特に懸念事項はない」
「しかし、この工作機械のスペックは…」
「問題ないと言っている」
アメリカ人の声には、有無を言わせぬ響きがあった。
「大統領府は、ロシアの経済的安定は、テロとの戦争における重要な要素だと考えている。
我々はその方針を支持するだけだ。良い一日を」
電話は、一方的に切られた。
課長補佐は、受話器を置いたまま、窓の外を見た。
アメリカが、これほど甘い審査をするなどありえない。
これは、審査ではない。国家としての、意図的な『目こぼし』だ。
彼は、理由のわからない巨大な政治の奔流の中にいることを悟り、ただ、その輸出許可書に、承認の印を押すしかなかった。
――プロジェクト『ソコル』本部施設。
ヴォルコフとコマロフ技師が、その輸出許可リストを食い入るように見つめていた。
それは、彼らにとって、単なる機械のリストではなかった。
未来へ至るための、パーツリストそのものだった。
「長官…」
コマロフの声が、興奮に震えていた。
「この『自動車部品用レーザー溶接機』…これを使えば、『ソコル』の燃料タンクの、あの複雑な曲面をミリ単位の誤差なく溶接できる。
そして、この『エンジン制御ユニット(ECU)用シリコンウェハー製造装置』…これこそ、我々が喉から手が出るほど欲しかった、誘導コンピュータの心臓部を作るための機械です…!」
彼らは、兵器を密輸しているのではない。
白昼堂々、日米両政府の承認の下、合法的に、プロジェクト『ソコル』の神経や骨格となる、最高レベルの産業基盤を、ロシア国内に丸ごと輸入しているのだ。
ヴォルコフは、リストの末尾に記載された、アメリカ政府の「懸念事項なし」という一文を指でなぞった。
悪魔との取引は、成立した。
アメリカは「テロとの戦争」での協力という麻薬のために、自らの同盟国である日本を使い、未来のライバルを、その手で育て上げることを選んだのだ。
その取引の代償の大きさを、まだ誰も知らなかった。
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