悪魔の取引
2002年秋、クレムリン。地下作戦室。
部屋の壁に設置された巨大なスクリーンには、プロジェクト『ソコル』の進捗を示す工程表が映し出されていた。
しかし、その多くは「部品調達の遅延」を示す、忌々しい赤色で埋め尽くされている。
ノヴィコフ国防大臣が、重い拳でテーブルを叩いた。
「これでは話にならん!
ESAとの協力は遅々として進まず、肝心の技術は小出しにされるばかりだ。
アメリカは『テロとの戦争』に夢中で、我々のことなど歯牙にもかけん。
このままでは、我々は鷹どころか、飛べない鶏を育てることになるぞ!」
彼の怒りは、この場にいる全員が共有していた。
シェスタコフ将軍も、苦い表情で黙り込んでいる。
その中で、ヴォルコフが静かに立ち上がった。
「大臣、大統領閣下。お二人に、膝を詰めてご相談したいことがあります」
視線が彼に集まる。
ヴォルコフは、スクリーンを別の表示に切り替えた。
それは、中東やアフガニスタンの地図と、複雑な紛争の予測データだった。
「大臣のおっしゃる通り、ESAからの協力だけでは『ソコル』は完成しません。
そして、アメリカの同意なくして、西側の重要技術は手に入らない。
ですが、そのアメリカが今、最も欲しているものを、我々は提供できます」
彼は、地図上の一点を指差した。
「『テロとの戦争』は泥沼化する…これは、メールが示す確定した未来です。
彼らは、見えない敵との終わりのない戦いで疲弊していく。
我々はその中で、限定的ながらも協力をしてきました。
今回、一歩進んだ『協力』の代償として、彼らに一つの『目こぼし』を要求します」
ペトロフが、鋭い視線を向けた。
「どんな『目こぼし』だ?」
「プロセッサ技術です」
ヴォルコフは続けた。
「ただし、彼ら自身からではありません。日本です」
ノヴィコフが、怪訝な顔をする。
「日本だと? なぜだ」
「大統領、我が国は今、経済再生のために外国企業の誘致を積極的に進めています。
その目玉として、『日本の自動車産業を、大々的にロシア国内に呼び込む』という計画を立ち上げるのです。
トヨタ、デンソーといった世界最高のメーカーに、最新鋭の工場をロシア国内に建設させる。
表向きは、経済協力であり、我々の自動車産業の近代化です」
ヴォルコフは、核心を突いた。
「しかし、我々の真の狙いは車ではありません。工場そのものです。
現代の自動車は『走るコンピュータ』です。
その心臓部であるマイコン(車載用マイクロコントローラ)、各種センサー、そしてそれらを制御するソフトウェア技術。
それら全てを、我々は『自動車生産』という大義名分の下で、そっくり手に入れるのです」
ノヴィコフが、ここで反論した。
「待て、ヴォルコフ。自動車用の部品が、そのまま宇宙ロケットに使えるとでも言うのか。
耐久性の基準が全く違う。素人の考えだ」
「もちろん、そのままでは使えません」
ヴォルコフは、その反論を待っていたかのように、即座に答えた。
「ですが大臣、考えてみてください。
我々に今欠けているのは、ゼロから高性能なプロセッサを設計し、製造する『土壌』そのものです。
日本の自動車工場は、その土壌を――つまり、クリーンルーム、超精密な製造装置、品質管理のノウハウ、そして何より、世界最高峰の技術者たちの『思考方法』を、ロシアの地にいながらにして我々に与えてくれます。
我々の科学者たちが、その信頼性の塊である産業用マイコンをリバースエンジニアリングし、宇宙空間の放射線に耐えうるよう三重、四重の冗長性を持たせ、シールドを施す。
それは、ゼロから開発するより遥かに現実的な道です。
これは技術の盗用ではありません。未来へ進むための、最も効率的な学習です」
ペトロフは、長い間、沈黙していた。
やがて、彼は立ち上がり、ヴォルコフの前に立った。
「…君は、アメリカに悪魔の取引を持ちかけるつもりなのだな。
彼らの泥沼の戦争を助ける見返りに、彼らの最も忠実な同盟国である日本から、我々の未来の牙を研ぐための技術を、彼ら自身の黙認の下で引き抜く」
大統領は、満足そうに頷いた。
「面白い。実に面白い。
ノヴィコフ、ヴォルコフと共に、対米交渉の草案をすぐに作れ。
これは、戦争だ。
ただし、銃弾を一発も使わない、我々の新しい戦争だ」
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