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巨人のアキレス腱

2002年5月、フランス・パリ。ESA本部。


ヴォルコフは、にこやかな紳士として、ESAの理事会メンバーとテーブルを囲んでいた。

議題は、ロシアが提案した「汎欧州エネルギー安全保障パートナーシップ」。

市場価格より二〇%も安価な天然ガスを長期供給するという、ドイツをはじめとする欧州諸国にとっては抗いがたい提案だ。


その見返りとして、ロシアが提示したのは、驚くほど控えめなものだった。


「我々ロスコスモスは、長年使い続けてきたソユーズの近代化を計画しています」


ヴォルコフは、穏やかな口調で語りかける。


「特に、アビオニクス(航空電子機器)と通信システムの刷新が急務です。

そこで、ESAの皆様に、共同開発パートナーとしてご協力いただけないかと。

例えば、貴機関がアリアンロケットで採用している民生品の高信頼性プロセッサや各種センサー類。

これらを我々の科学探査衛星に搭載するための、技術的フィージビリティスタディから始めさせていただけませんか」


それは、軍事転用とは最も縁遠い、「科学」と「安全」を盾にした、巧妙な提案だった。

ESA側は、ロシアのエネルギーという魅力的な果実を前に、このささやかな「協力」を無下には断れない。

議論の末、共同技術委員会の設置が暫定的に合意された。


ヴォルコフは、パリの青空の下、外交的勝利の一歩を静かに踏みしめていた。


――同時期、モスクワ郊外。プロジェクト『ソコル』本部施設。


その空気は、パリの和やかな雰囲気とは正反対の、焦りと苛立ちに満ちていた。


組立工場の中央で、設計主任のコマロフ技師が設計図を拳で叩いていた。


「不可能だ!

この設計は、ロケット自身が着陸の最終段階で毎秒数千回の判断を下すことを前提としている!

我々の誘導コンピュータは、そんな芸当はできない!

我々のシステムが信頼できるのは、単純で、頑丈だからだ!

こんな砂上の楼閣は、些細な計算エラーで火の玉になるだけだ!」


彼の怒鳴り声に、推進システム専門家のベレゾフスカヤが、冷静に、しかし厳しく反論する。


「ドミトリー、問題は設計じゃないわ。私たちの『道具』よ」


彼女は、試験中のメタンエンジンの性能データを指差した。


「見て。エンジンは理論通り、驚くほど精密な出力調整が可能よ。

問題は、それを制御する『頭脳』と『神経』がないこと。

私たちには、この強力な筋肉を操るための、デジタルな頭脳がないのよ!」


これこそが、プロジェクト『ソコル』、そして2000年代初頭ロシアのアキレス腱だった。


彼らは、ソ連時代から受け継いだ世界最高峰のロケットエンジン技術を持っていた。

パワフルで頑丈なエンジンを作ることはできる。


しかし、それを自在に操り、百メートルの高さからピンポイントで着陸させるために必要な高性能マイクロプロセッサ、超精密なセンサー、そしてそれらを統合する高度な制御ソフトウェア――その全てが、ロシアには絶望的に欠けていた。


九〇年代の経済崩壊と技術停滞は、ロシアの産業から「繊細さ」と「知性」を奪い去っていた。

彼らは未来の鷹の強靭な「心臓」を作ることはできても、その飛行を司る「脳」を作ることができなかった。


パリから帰国したヴォルコフの元に、コマロフからの報告書が届く。


『エンジン本体の開発は順調。ただし、制御用コンピュータの目処、立たず』


ヴォルコフは、その短い一文を読み、ESAとの交渉で得たささやかな糸口を固く握りしめた。


外交という蜘蛛の糸を手繰り寄せ、鷹の脳を手に入れる。

それしか、道はなかった。



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