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中国航天

2018年、初冬。北京、人民大会堂。


その巨大なホールは、個人の意思を圧倒するために設計されていた。天井から吊り下げられた無数の星を模したシャンデリアが、赤絨毯の上に冷たい光を投げかけている。 ソビエト連邦がその栄華の絶頂にあった時代に建てられたこの場所は、イデオロギーは違えど、ロシア代表団にとって奇妙な既視感を覚えさせる空間だった。


セルゲイ・ヴォルコフは、分厚い防弾ガラスの向こうに見える天安門広場から視線を戻し、隣に座る二人の指導者の横顔を見た。


一人は、現職大統領スタニスラフ・ソクーロフ。法の支配者らしい、隙のないスーツに身を包み、中国側首脳と儀礼的な挨拶を交わしている。 もう一人は、前大統領ヴィクトル・ペトロフ。今は与党を束ねる国家安全保障会議議長という「顧問」の肩書だが、その存在感は現職を遥かに凌駕していた。彼はただ腕を組んで目を閉じ、まるでこの公式会談の退屈な前置きが終わるのを待っているかのようだった。


ヴォルコフは、長時間のフライトでかすかに痛む古傷を、誰にも気づかれぬよう背筋を伸ばしてごまかした。あの日、キメラの爪が彼を闇に突き落としてから一年近くが経過し、身体はほぼ回復した。だが、彼の内面は変わった。死の淵を覗いたことで、余計な感傷は全て削ぎ落とされ、思考はより明確に、より純粋な目的意識へと研ぎ澄まされていた。


「ヴォルコフ長官、そして皆様」


中国側の通訳が、滑らかなロシア語で続けた。


「まずは、『ナジェージダ』の歴史的偉業の達成に、心からの祝辞を申し上げたい」


中国首脳が、穏やかな笑みで拍手を送る。数週間前、アンドレイ・ソロキン船長率いる『ナジェージダ』は、火星圏での小天体探査と、人類史上初となる「地球圏外での燃料(水)補給試験」を完了し、火星圏を出発していた。 ロシアが提示した「実利」は、今や疑いようのない現実となっていた。


「その成功を受け、我々もまた、ユーラシア宇宙構想のパートナーとして、全力を尽くしています」


そう言って中国側首脳が視線を向けた先に、一人の男が座っていた。 中国航天科技集団(CASC)総経理、チャン・ウェイ(張偉)。 ヴォルコフと同世代か、あるいは少し若い。技術者出身らしい、鋭い知性と抑えきれない野心を宿した目をしている。


「チャン総経理から、『ヴォストーク級』二番艦の進捗を」


促され、チャン・ウェイは立ち上がると、ヴォルコフに対し、敬意と挑戦の入り混じった笑みを向けた。


「ヴォルコフ長官。あなたがたの『ナジェージダ』は、我々にとっての北極星となりました。我々が建造を担当する二番艦、コードネーム『神龍』も、あなた方が共有してくださった合金精錬の基礎データを元に、主要フレームの建造は極めて順調に進んでいます」


スクリーンに、軌道上で組み立てられる『神龍』の壮麗なCGが映し出される。その進捗は、ロシア側の想定を上回る速度だった。


「そして」


チャンは、そこで意図的に間を置いた。プレゼンテーションの最も重要な瞬間を知り尽くした、巧みな演出だった。


「この『神龍』と、我々が独自に建設を進めている軌道ステーション『天宮』、そして貴国の『OD-2』との間の、恒久的かつ安定的な接続を確立するため、我々はロシア側に一つの重要な提案をさせていただきたい」


彼は、ヴォルコフの目を真っ直ぐに見据えた。


「再使用型ロケット『ソコル』の、完全なライセンス生産の許可を要求します」


ホール内の空気が、一瞬で張り詰めた。 ソクーロフの眉が、かすかに動く。


チャンは構わず続けた。その声は、もはや敬意ではなく、対等なパートナーとしての要求に満ちていた。


「『ナジェージダ』が火星への道を開きました。ですが、その道をハイウェイに変えるには、より多くの『トラック』が必要です。我々の工業力に、あなた方の『ソコル』の設計図を与えていただければ、ユーラシア宇宙構想の進捗は、現在の三倍、いえ五倍の速度で加速できます。これは、人類全体の利益のための提案です」


否定しがたい論理だった。 だが、ヴォルコフは、その滑らかな言葉の裏にある、全く別の意図を正確に読み取っていた。


(…探針か)


ヴォルコフの思考が、氷のように冴え渡る。 彼らが本当に欲しいのは、ロケットそのものではない。 このロシアの「奇跡」――2000年以降、まるで未来を知っていたかのように、一度の致命的失敗もなく技術的特異点を駆け上がってきた、この異常なまでの成功の「秘密」だ。


彼らは「ソコル」の設計図を、そのブラックボックスを解剖し、ロシアがどこで、どのようにして「ありえない近道」を発見したのか、その源泉を探ろうとしている。


(彼らは気づいている。「未来メール」の存在に、薄々だが感づいているのだ)


ヴォルコフは、隣に座るペトロフを盗み見た。 老いた熊は、相変わらず目を閉じたままだ。だが、その微動だにしない横顔は、ヴォルコフには別の意味に見えた。


(値踏みしている)


ペトロフは、チャン・ウェイという男が、そしてその背後にいる中国という国家が、ロシアの秘密の核心にどこまで迫っているのかを、この沈黙の中で冷静に測っているのだ。


この会談は、技術供与の交渉の場などではなかった。 それは、ロシアが持つ「地図」の存在を巡る、静かな、しかし決定的な諜報戦の、最初の砲火だった。




人民大会堂の壮麗なホールは、公式会談の終了と共に、再び政治的な喧騒に包まれた。結局 ヴォルコフが「技術の標準化と共有は、人類全体の利益に繋がる」という、誰も反論できない、しかし何の約束も含まない一般論でチャン・ウェイの要求を巧みにかわすと、中国側首脳は満足げに頷き、午後の経済フォーラムの話題へと移った。


チャン・ウェイだけが、その一瞬、ヴォルコフの瞳の奥にあった探りの目線を見逃さなかった。彼は「師」が差し出した教科書通りの答えに、失望も安堵もせず、ただ静かに一礼した。


隣に座るヴィクトル・ペトロフは、その全てのやり取りの間、一度も目を開けることはなかった。だが、ヴォルコフには分かっていた。老いた熊は、獲物の匂いと、その獲物が隠し持つ牙の鋭さを、完璧に値踏みし終えていた。


同日、夕刻。 ロシア連邦大使館、大使公邸の奥深く。 盗聴防止装置が低いノイズを発する、窓のないセーフルーム。そこは、北京の喧騒から切り離された、モスクワの飛び地だった。


重い葉巻の紫煙が、部屋の空気にゆっくりと溶けていく。ペトロフが、ようやくこの訪問で最初の「仕事」を始めた証だった。


「さて」


現職大統領であるソクーロフが、まず口火を切った。その声は、公式会談の時とは違う、鋭さを取り戻していた。


「チャン・ウェイという男、そしてその背後にいる者たち。彼らの要求をどう見る、セルゲイ」


ヴォルコフは、冷え切った紅茶に口をつけた。


「技術的な観点から申し上げれば、要求をはねのけるのは容易です。『ソコル』の核心技術、特にエンジンと再突入時の制御OSはブラックボックス化されています。ライセンス供与は、我々が『許可した範囲』の旧世代技術に限定できます。彼らの野心を満たさず、不満を逸らす程度の手札は、いくらでも」


「だが」


とソクーロフが遮る。


「君の顔には『たやすくはない』と書いてあるな」


ヴォルコフは、カップを置いた。その顔には、事故以来初めて見せる、深い疲労と葛藤の色が浮かんでいた。


「ええ。ですが…彼らの要求は、ある一点において、我々の痛いところを突いています」


彼は立ち上がり、部屋の隅に置かれた戦術ボードに、一つの単語を書きなぐった。


『ノースマーズ(北の火星)』


それは、ソクーロフとペトロフも知る、ロスコスモスの最重要機密プロジェクトの名だった。 『ソコル』の次世代機。未来メールの世界では試作のみに終わり、ついに量産化しなかった、完全再使用型の超大型往還船。地球低軌道に数百トンの物資を打ち上げ、場合によっては火星に百名の人間を送り込むことも可能な、まさしく「北の火星」を目指す船。


「『ノースマーズ』計画の進捗には、確かに中国の工業力が必要です」


ヴォルコフの声が、重く響いた。


「我々の国力は、未来メールが予測した『あり得た歴史』のそれよりも、格段に増しています。ドイツの技術を取り込み、GDPは日本に肩を並べています。ですが…」


彼は、息を吸い込んだ。


「限界です」


その告白は、ソクーロフとペトロフを沈黙させた。絶対的な成功を続けてきた男の、初めての弱音だった。


「月面基地『ルナ・ゲート』、火星航路の維持、OD-2の拡張、そしてOD-3の建設計画。我々は、あまりにも多くの戦線を同時に広げすぎた。ロシアの技術者も、資材も、予算も、全てが限界まで張り詰めている。手が、足りないのです」


ヴォルコフは、二人に向き直った。


「『ソコル』はくれてやるつもりはありません。ですが、『ノースマーズ』を完成させ、2060年の『本当の戦争』に間に合わせるためには、中国の巨大な工業力という『増強装置』を、何らかの形で組み込むしかない。彼らが我々の秘密に気づき始めた、今、このタイミングで…」


セーフルームの沈黙が、重くのしかかる。 中国は「地図」の存在を疑い始めた。 ロシアは、その中国の力を借りなければ、地図の最終目的地にたどり着けない。


ペトロフが、ゆっくりと葉巻の灰を落とした。


「…つまり」


老いた熊の声が、静かに響いた。


「我々は、地図の秘密を知りたがる隣人に、家の設計図の一部を渡すべきかどうかを、議論せねばならん、というわけだ」

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