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過去の亡霊

ESA(欧州宇宙機関)パリ本部のカフェテリアは、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。磨き上げられた床に、午後の低い陽光が長い影を落とす。


その片隅で、ジャン=ピエール・アルノーは一杯のコーヒーを前に、ドイツ人の若い構造力学エンジニアと向かい合っていた。


「つまり、君はアストライア連合が定める新しい安全基準は、我々の設計思想の自由を奪うだけだと、そう言うのだね」


アルノーの問いは穏やかだったが、その言葉は静かな水面に投じられた小石のように、青年の心に波紋を広げた。青年は戸惑いながらも頷く。


「ええ、副長官…正直に言えば、そうです。基準はあまりに保守的で、我々が試験している新しい複合材の性能を最大限に引き出すことを許してくれません。まるでワシントンの弁護士が書いた契約書のようです」

「そうだろうな」


アルノーは頷いた。


「彼らにとって、これは科学ではなく政治だからだ。ルールを作り、そのルールで我々を縛るための」


(そして我々は、その罠にあまりにも無自覚だ)

アルノーは内心で呟いた。彼の脳裏には、目の前の青年ではなく、欧州そのものの未来が映っていた。




アストライア連合が掲げる西側の価値観。それは"西側にとっての自由と民主主義"という、神聖不可侵の祭壇に祀られている。だが、その祭壇に跪くことは、思考の停止を意味するのではないか。

彼の思考は、20世紀の血塗られた歴史へと飛ぶ。絶対的だと信じられた国家の威信が大陸を二度焼き払い、植民地支配という"絶対的正義"が数千万の命を泥沼へ引きずり込んだ。


あの時代の指導者たちもまた、自らの基準が神聖不可侵だと信じて疑わなかった。その結果がどうなったか。過去の亡霊が、アルノーの背後で冷たく囁いていた。

この過ちを、宇宙に手をかけた時代に繰り返してはならない。


「君の才能は、政治のためにあるのではないな」


アルノーは青年に静かに告げた。


「新しい地平を切り拓くためにあるのだよ」


彼は席を立った。青年の心に、疑念という名の小さな種を蒔いたことを確認して。そして次なる、最も重要な目標へと意識を切り替える。



ロンドンの夜は、冷たい霧雨に濡れていた。テムズ川沿いの由緒あるパブの個室。暖炉の火が、二人の男の顔に揺れる影を落としていた。


「アルノー、来てくれるとは思わなかった」


イギリス最高の推進システム専門家、デイビッドはエールのグラスを掲げ、旧友との再会を喜んだ。その笑顔に嘘はない。

先日のアルノーの話が、どうにも危ういと感じたデイビットがアルノーを飲みに誘ったのだ。


「君にしか頼めない話がある」


アルノーは本題を切り出した。二人の間にあった和やかな空気は、一瞬で張り詰める。


「デイビッド、我々はアメリカの属国になるために宇宙を目指しているわけではないはずだ。君の作るエンジンは、我々欧州自身の船を動かすべきだ。アメリカの支配から脱却し、真に自立した欧州の未来を共に築こう」


その言葉は、甘美な毒のようにデイビッドの心に染み込んでいった。技術者としての野心と、アルノーへの友情が彼の魂を激しく揺さぶる。

だが、彼の魂のもう半分は、祖国への忠誠によって固く縛られていた。


「アルノー…それは危険すぎる」


デイビッドの声はかすれていた。


「国家への裏切りだ」

「国家が我々を裏切ろうとしている時にか」


アルノーの問いに、デイビッドは答えることができなかった。彼はただ黙って、エールを飲み干す。その苦い味が、まるで自らの心の味のようだった。




数日後。デイビッドは、テムズ川を見下ろすアパートの一室で、一本の電話をかけていた。約束の言葉を告げると、彼はコートを羽織り、霧雨の中へと足を踏み出す。

彼の足は、MI6のセーフハウスへと向かっていた。

重厚な扉を開くと、待ち構えていたハンドラーが彼を無言で迎え入れる。



MI6のセーフハウスの空気は、安物の紅茶と湿ったツイードの匂いがした。デイビッドの向かいに座るハンドラー"マーリン"は、彼の報告をただ黙って聞いていた。その表情は、ロンドンの曇天のように何も読み取れない。


「…以上です」


デイビッドは乾いた唇を舐めた。


「アルノーは完全にロシアの思想に染まっている。ESAを内側から分裂させ、欧州の宇宙戦略を麻痺させるつもりです」


マーリンは頷き、カップを置いた。その硬質な音が、部屋の沈黙を際立たせる。


「彼の最終目標エンドゲームは何だね。ただの破壊活動家ではあるまい。あの男が最終的に何を"築こう"としている?」


その問いに、デイビッドの心臓が大きく跳ねた。脳裏に、アルノーが熱っぽく語った壮大な構想が鮮やかに蘇る。


ロシアの推進力と欧州の精密さを融合させた、全く新しい宇宙機関『欧州ロシア宇宙庁(ERSA)』。技術者として、そのビジョンの美しさと合理性に魂が震えた記憶。


(…言えない)


言えば、アルノーは破滅する。そして、欧州が自立する唯一の可能性も永遠に失われる。それは友人への裏切りであり、技術者としての魂の自殺でもあった。


「…分かりません」


デイビッドは視線を落とした。


「彼の思想は、もはや支離滅裂です。あるのは、アメリカへの憎悪と現実離れした理想だけかと」


それは嘘だった。だが、スリーパーとしての義務と友人への最後の誠意との間で、彼がつけた唯一の嘘だった。マーリンは数秒間、デイビッドの顔をじっと見つめた後、静かに頷いた。


「…分かった。下がっていい」




デイビッドが去った後、マーリンは別の回線で報告を入れる。


「デイビッドからの最終報告です。ターゲットの最終目標は"欧州の自律"という名の政治的混乱。ただし具体的な計画は確認できず」


この不完全な報告は、MI6という世界最高峰の諜報機関に致命的な誤算をもたらすことになる。

彼らは、アルノーを組織内の危険分子と見なし、その影響力を削ぐことに注力するだろう。だが、アルノーがすでに沈みゆく船の外に新しい箱舟を建造し始めているという真実には気づかない。


デイビッドが意図せず残した、その情報の空白こそが、アルノーにとって唯一の、そして最大の勝機となるだろう。



そして、MI6は動き始める。英国諜報機関は欧州の情報コミュニティにおいて曇りのない光であり、同時に最も危険な色を放つ存在だった。

テムズハウスの最上階にある分析室。巨大なガラス窓の外に広がるロンドンの街並みを見下ろしながら、対テロ・国内担当部長"C"は部下たちに命じた。


「ターゲットはアルノー。デイビッドの報告に基づけば、彼はロシアの甘言に乗せられた単独の暴走者であり、欧州の結束を脅かす病巣だ。静かな狩りを始める」


MI6の分析官たちは、アルノーの全ての行動を洗い直し始めた。彼の通話記録、思想の変遷、そしてヴォルコフとの全ての接触記録を。


彼らは、アルノーという病巣を正確に診断し、外科手術のように切り取るため、そのメスを研ぎ澄ませていく。誰と会い、何を食べ、誰に電話をかけるのか。その全てが、ロンドンの巨大なサーバーに吸い上げられ、パターン化されていく。


だが、彼らは知らない。自分たちが追いかけているのが、単独犯の軌跡ではなく、新しい世界の設計図の断片であることを。



その頃、アルノーはパリのアパルトマンで、一人静かに次の手を考えていた。彼は、自分が周到に動いていると信じていた。

だが、まだ気づいていない。自らの背後に、英国という獅子の冷たい視線が注がれていることに。

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