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疑念の種

ESAという名の巨船は、もはや沈むのを待つだけの鉄の棺だ。


その冷徹な事実を、ジャン=ピエール・アルノーはパリの執務室で受け入れた。そして今、彼はウィーンの街角で、棺から未来の種を盗み出すための、最初の罪を犯そうとしていた。


彼が「箱舟」に乗せる最初の乗組員として選んだのは、ポーランドの若き天才、カシア・ノヴァクだった。ワルシャワ工科大学が輩出した、サイバー防衛分野の至宝。


その鋭敏な頭脳は、いずれアストライア連合のネットワーク防衛の、揺るぎない要となるはずだった。アルノーは、彼女の才能をアメリカの盾として浪費させるつもりはなかった。


国際サイバーセキュリティ会議が開催されているホーフブルク宮殿の喧騒は、今のアルノーには遠い世界のざわめきにしか聞こえなかった。彼は人混みの中から、目的の人物をすぐに見つけ出した。


コーヒーを片手に、初老のドイツ人教授と熱心に議論を交わす、小柄な女性。ショートカットの髪も、快活な表情も、数年前にESAの研修で見た時から変わらない。だが、その瞳の奥にある知性の輝きは、もはや学生のそれではなく、一人の専門家としての自信に満ちていた。


アルノーは、穏やかな笑みを浮かべて、彼女たちの輪に近づいた。


「ノヴァク博士。素晴らしい発表だったと聞いているよ」

「アルノー副長官!」


カシアは、恩師を見つけた学生のように、ぱっと顔を輝かせた。その純粋な尊敬の眼差しが、これから彼女を欺こうとしているアルノーの胸を、かすかに刺した。


「先生こそ、このような場所でお会いできるとは。光栄です」


当たり障りのない挨拶を交わした後、アルノーは旧知のドイツ人教授に目配せをし、本題を切り出した。


「少し、二人で話さないかね。君の新しい研究について、ぜひ聞かせてもらいたい」




ホーフブルク宮殿近くの、観光客の喧騒から離れた小さなカフェ。窓際の席に座ると、午後の柔らかな光がテーブルに落ちた。


二人の会話は、恩師と聡明な教え子のように、和やかに始まった。最新の暗号理論、量子コンピューティングの脅威、そしてESAの古いシステムが抱える脆弱性。カシアは目を輝かせ、専門的な議論に没頭した。


だが、アルノーが何気ない口調でミュンヘン以降の欧州情勢に水を向けた瞬間、彼女の瞳から光がすっと消えた。カフェの和やかな空気が、一瞬で張り詰める。

カシアの瞳の奥には、アルノー個人への尊敬とは裏腹に、彼の祖国フランスと、その同盟国ドイツに対する、隠しきれない怒りと失望が渦巻いていた。


「先生…アルノー副長官。あなたのことは今でも尊敬しています。ですが、あなた方がミュンヘンでなさったことは…」


カシアは、言葉を選びながらも、その思いを正直に打ち明けた。その声は、非難というより、深い悲しみに震えていた。


「欧州を二つに引き裂いた。ポーランドにとって、NATOはロシアの脅威に対する唯一の盾です。それを、独仏のエゴが内側から破壊した。私は、悲しいのです」


アルノーは彼女の言葉を舌の中で転がし、苦く飲み込んだ。今から、彼はこの聡明な教え子に、ある種の考え方を吹き込むのだ。


それは、決して過ちではない一つの視点だが、同時に彼女が、そしてポーランドという国が拠り所としてきた"西側"の価値観とはかけ離れたものだ。罪悪感が、冷たい金属のように胃の底に沈む。だが、箱舟の設計者には、感傷に浸る時間は許されていなかった。




彼は、彼女の愛国心とNATOへの忠誠心を正面から否定しない。ただ、優しく微笑み、少しずつ、少しずつ、彼女が信じる世界の姿を、別の角度から照らし始めた。


「君の怒りは、もっともだ。私も、あの決断が多くの友人を傷つけることを、誰よりも理解している」


彼はまず、彼女の痛みに深く共感してみせた。カシアの表情が、わずかに和らぐ。彼女は、この目の前の男が、政治のエゴイズムとは違う場所にいると信じたかったのだ。

アルノーは、その小さな信頼の芽を頼りに、巧みに彼女の視点を誘導していく。


「だが、カシア。思い出してほしい。我々ESAが、純粋に技術的な探求としてロシアとの協力を模索した時、ワシントンは何をしたかね? 彼らは我々が長年続けてきた共同開発を一方的に中止させ、SLS計画から我々を締め出すと脅した。あれは対等なパートナーへの態度だっただろうか?」


アルノーは、彼女の政治的立場ではなく、技術者としての記憶に訴えかけた。カシアの眉がかすかに寄せられる。彼女もあの時、突然中止された共同プロジェクトの一員だった。理不尽だと感じた記憶が、心の隅で疼いた。


「それは…安全保障上の、難しい判断だったのでは…」

「安全保障か」


アルノーは静かに頷いた。


「では、シーメンス社への攻撃を見てみろ。あれは公正な法執行だったか? それとも、欧州の技術的自立の芽を摘むための、政治的な見せしめではなかったか? ベルリンで囁かれている噂を、君も聞いているだろう。彼らの民主主義を内側から揺さぶっている、ポピュリスト政党を支援する影について…」


彼の言葉は、カシアが「盾」だと信じてきたアメリカの、別の顔を次々と浮かび上がらせる。彼女の頭脳は、アルノーが提示する一つ一つの事実を否定できない。


シーメンスの一件は、明らかにやり過ぎだった。ドイツの政情不安の裏にアメリカの影があるという噂も、この業界のインテリジェンスに触れる者なら誰もが知っている。


だが、それらはロシアの脅威という絶対的な悪の前では、必要悪として見過ごすべき細部に過ぎないはずだった。彼女の価値観が、必死にそう叫んでいた。




アルノーは、彼女の心の動揺を見透かし、最後の、そして最も鋭い問いを投げかけた。その声は、どこまでも穏やかだった。


「君が信じるその『盾』は、我々欧州が自らの足で立とうとする時、その足を砕くための棍棒へと姿を変えるのだとしたら…? それでも君は、その盾を心から信じ続けられるかね?」


その言葉は、毒のように、しかし甘美な響きをもって、カシアの信念の中心へと染み込んでいった。彼女がこれまで築き上げてきた、善と悪、友と敵という明確な世界の輪郭が、ゆっくりと、しかし確実に溶け始めていく。


彼女は反論の言葉を見つけられず、ただ、目の前の恩師の、悲しげな、しかし揺るぎない瞳を見つめ返すことしかできなかった。

だが、この考えが毒か、あるいは気付け薬か。アルノー自身にもわからない。これは彼の中にずっとあった一つの考えだった。


彼は、ある種古いフランス人だったのだ。二度、灰燼に帰した祖国の土の上で、理想だけでは国家は生き残れないという現実を学んだ世代の末裔。


欧州の統一と自立を心から願いながらも、その最も深い場所では、常に最悪の事態――大陸が再び巨人の掌の上で引き裂かれる日を想定し、生き残る術を模索する冷徹な思考。それはESA副長官として、ただEUを支えると決めていた時はあえて目を向けなかった考え方だ。


だが、ロシアの、あのセルゲイ・ヴォルコフという男の手を取ると決めたことで、彼はこの思考の封印を解いた。今、カシアの中に埋め込んだ疑念の種は、欧州が、EUが完全に砕け散ったその日に、彼女が自分を頼ってくるための布石となるはずだ。そう、信じるしかない。そしてその日は、そう遠くはないだろう。まだ彼女は揺らいでいない。そう…彼女の世界が、盤石だと信じているからだ。




アルノーは、それ以上は押さなかった。ただ、混乱した表情で席を立とうとする彼女に、別れ際の贈り物として、最も甘美な毒を囁くだけだった。


「君の才能は、米国の下請け仕事で終わるべきではない。私は、君が主役になれる舞台を用意できるよ」


カシアは、何も答えずにカフェを去っていった。ウィーンの街角で一人になった彼女の心に、アルノーが蒔いた疑念の種が、静かに、しかし確実に根を張り始めていた。

アルノーは、彼女の背中が見えなくなるまで見送ると、静かに会計を済ませた。彼の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだ。




ウィーンを発った彼は、次々と彼が目星をつけたESAの頭脳たちに接触を始めた。

ロンドンのテムズ川沿いのパブ。彼は、イギリス最高の推進システム専門家である旧友と、ぬるいエールを酌み交わした。


「デイビッド」と彼は切り出す。「我々が長年夢見た欧州の船は、もうない。だが、君が設計したエンジンを積むべき、新しい大陸を目指す船があるとしたら?」


旧友は、アストライア連合への忠誠と、技術者としての野心との間で、苦い顔でグラスを見つめるだけだった。



ストックホルムの雪明りに照らされた研究所。彼は、若き光学センサーの天才に語りかけた。


「エリック、君のその目は、月の裏側ではなく、火星の、その先の光を捉えるべきだ。アメリカの望遠鏡のレンズを磨くだけの仕事に、君の人生を費やすな」


若者は、アルノーの言葉をSF小説のように聞きながらも、その瞳の奥には抑えきれない好奇心の光が灯っていた。



彼は、決してロシアの代弁者として語らなかった。ただ、沈みゆく欧州の宇宙開発の未来を憂う、一人の先輩として、彼らの魂に直接問いかけ続けた。


その囁きは、まだ誰の心も完全には動かさない。だが、アストライア連合という名の巨大な船の船底に、彼は見えない小さな亀裂を、一つ、また一つと、着実に刻み込んでいった。

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