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生き延びるために

ヴォルコフのその言葉は、アルノーが予想していたいかなる答えとも違っていた。駆け引きでも、脅しでもない。ただ、静かな事実だけがそこにあった。ヴォルコフは、杖を傍らに置いたまま、わずかに身を乗り出した。


「誤解しないでほしい、アルノー副長官。私があなた方の技術を、ESAという組織を踏み台にしてきたことは事実だ。だが、それはあなた方の力を軽んじていたからではない。むしろ、その逆だ」


ヴォルコフの瞳に、ふと遠い日の光が宿る。それは、アルノーが初めて見る、策略家ではない、一人の人間の表情だった。


(そうだ、俺も昔は…)


ヴォルコフの脳裏に、ユキが生きていた頃の、まだ何者でもなかった自分の姿が蘇る。ただ純粋に、星々の海に人類の船を浮かべることを夢見ていた、一人の技術者だった頃の記憶。ESAが打ち上げる探査機が送ってくる一枚の写真に、心を躍らせていたあの頃。


(彼らを、ただの駒だと思ったことは一度もない。彼らもまた、俺と同じ地平を見ていた。ただ、俺の時計の針が、狂っていただけだ…)


その内心の感傷を悟らせることなく、ヴォルコフは言葉を続けた。


「ESAが成し遂げてきた純粋な科学的探求、人類の知識を広げようとするその高潔な意志を、私は誰よりも尊敬している。政治がそれを歪め、競争がその足を引っ張るのを、ずっと見てきた。…あなたも、そうではないか?」


その問いは、アルノーの技術者としての魂に、直接語りかけていた。彼は、ヴォルコフの瞳から目を逸らせない。


「だからこそ、あなたが必要なのです。政治家ではない、技術の未来を理解するあなたが」


ヴォルコフは、懐から一枚のデータチップを取り出し、テーブルの上に静かに置いた。


「"我々が、あなたの描く未来図の中で、再び便利な部品となるだけではないと、どうして信じられるか。"…その問いへの、これが私の答えです」


チップには、次世代の『ヴォストーク級』の心臓部である核融合炉『オグネヴィークI』の基礎理論と、OD-2でしか製造不可能な新規合金の生データが、一切の暗号化もされずに収められていた。ロシアが国家の存亡を賭けて開発している、まさに心臓部そのものだった。


「これは取引材料ではない。あなたへの信頼の証だ。我々は、自らの心臓をあなたに見せる。この船の未来を、そして、宇宙開発の未来を共に設計するパートナーとして、あなたを迎え入れたい」


アルノーは、その小さなチップに視線を落とした。指先ほどの大きさのそれに、欧州の、そして一人の技術者としての未来の全てが凝縮されているように思えた。ヴォルコフが差し出したのは、単なる提携案ではなかった。それは、同じ地平を目指す者への、魂の招待状だった。彼は、そのチップを、震える指でゆっくりと手に取った。


数日後、パリ、ESA本部


アルノーは、ジュネーヴの甘美で危険な誘惑をパリに持ち帰った。だが、彼を迎えたのは、決断を下すための静かな時間ではなかった。ESAという名の巨船が、今まさに竜骨を砕かれ、沈没しようとしている断末魔の叫びだった。


緊急理事会は、戦場と化していた。


「イギリスは、アストライア連合への全面的なコミットメントを再確認する! 大陸の友人たちがロシアとの危険な火遊びに興じている間に、我々は信頼できる同盟国と共に、月への道を切り拓く!」


イギリス代表の言葉に、ポーランドと北欧諸国の代表が力強く頷く。彼らにとって、ドイツとフランスが主導する「欧州戦略的自律」は、ロシアの脅威に対する裏切りでしかなかった。


「主権の放棄だ!」


フランス代表が激昂して返す。


「ワシントンの気まぐれに我々の運命を委ねろと言うのか! 我々は、我々の手で未来を掴む!」


ミュンヘンで引き裂かれたNATOの亀裂は、ESAの会議室にまで及び、組織を内側から崩壊させていた。ドイツ、フランス、イタリアが残ろうとも、宇宙開発という巨大事業は、もはや大陸欧州だけの力では支えきれない。金融の中心地ロンドンを擁するイギリスがアメリカ側についた今、欧州は半身を失い、ゆっくりと倒れ込むのを待つだけだった。


その夜、アルノーは一人、がらんとした執務室に残った。窓の外には、灯りの消えたパリの街が静かに広がっている。彼は机の上に、ジュネーヴで受け取ったデータチップを置いた。その隣に、ESAの来年度予算案の、赤字で埋め尽くされた悲惨なレポートが横たわっている。


(…道は、ない)


彼は悟った。このままでは、全てが崩壊する。誇りも、技術も、欧州が半世紀かけて築き上げてきた宇宙への夢も、全てが政治の嵐に飲み込まれて消える。


(だから…だから、私は…)


アルノーは、震える手で一枚の白紙のメモを取り、ペンを握った。

そこに、彼は名前を書き始めた。

それは、ESAという組織への忠誠を誓った彼が、決して書くはずのなかったリストだった。


ERSA構想に、個人的なレベルで賛同しそうな理事。

国家の枠を超え、技術者としての未来を憂いている各国の部門長。

アメリカのやり方に反感を抱いている、切り崩せそうな人物の名前。


それは、ESAという沈みゆく船に対する、静かな反逆の始まりだった。

そして、欧州の宇宙開発を救うための、彼に残された唯一の、そして最も危険な道だった。

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