友好という名の取引
2002年2月、プロジェクト『ソコル』本部施設。深夜。
ヴォルコフは、執務室で一人、予算案の赤い数字と格闘していた。
冷めきったコーヒーのマグカップが傍らに置かれ、彼の回すペンの音だけが静寂に響く。
ペトロフ大統領が承認した極秘予算は、国家規模で見れば破格のものだった。
しかし、ゼロから次世代のロケットを開発するには、あまりにも足りない。
特殊合金の精錬、万分の一ミリ単位の精度を要求される工作機械、そして何より、ロシアが決定的に立ち遅れている高性能なマイクロプロセッサ――それらは金で買えるものではない。
西側の輸出制限措置の壁に阻まれ、どうにもならないボトルネックとなっていた。
(……金が足りない。技術が足りない。このままでは、鷹は巣立つ前に翼が折れる……)
彼が苛立ち紛れにペンを置いた、その瞬間だった。
ふと、もう一つの極秘プロジェクトの報告書が目に入る。
『プロメテウス』――あの未来の化学触媒。
すでに国内の主要ガスパイプラインには試験的に導入され、莫大な利益を生み出し始めていた。
だが、その利益を大っぴらに予算に計上すれば、金の出所を怪しまれる。
西側はロシアの異常な経済成長を訝しむだろう。
(……そうだ。金ではない。金そのものではない……)
ヴォルコフの頭の中で、バラバラだった歯車が、一つの機械として組み上がる音がした。
(『ガス』そのものを、通貨として使えばいい)
――数日後、クレムリン。大統領執務室。
「……つまり、君は、ただでさえ国庫を潤わせている虎の子のガスを、さらに安値でEUに売れ、と。
そう言うのかね、ヴォルコフ」
ペトロフは、腕を組み、面白そうに、しかし探るような目でヴォルコフを見つめていた。
「はい、大統領」
ヴォルコフは、臆することなく答えた。
「『ソコル』計画は、資金以前に、特定の精密部品――特に西側製の半導体やセンサー類の不足という、より深刻な問題に直面しています。
これらを我々が単独で開発するには、五年、いえ十年かかるかもしれません」
彼は一息つき、本題を切り出した。
「そこで、提案があります。
プロジェクト『プロメテウス』によって生じた余剰生産ガスを利用し、EU、特にドイツに対し、長期的なエネルギー供給を『友好価格』で保証します。
これは、テロとの戦争で不安定化する中東情勢に揺れる欧州にとって、抗いがたい魅力を持つ提案のはずです」
ペトロフの目が、鋭く光った。
「見返りは何だ?」
「ESA(欧州宇宙機関)です」
ヴォルコフは即答した。
「我々はこの善隣外交をテコに、ロスコスモスとESAの、より一層の技術協力を要求します。
『平和利用目的の宇宙開発』という、誰も反対できない美しい名目の下で。
彼らの持つ宇宙用コンポーネント、精密機器の製造ノウハウへのアクセスを求めるのです」
「彼らは、ロシアのエネルギーという『安全保障』と引き換えに、我々に宇宙開発の『部品』を売ることになる。
彼らは、自分たちが友好の証として差し出したその部品が、我々の秘密の鷹の、血肉となることを知る由もありません」
ペトロフは、数秒間、沈黙した。
やがて、その口元に、満足そうな、そしてどこか獰猛な笑みが浮かんだ。
「……ヴォルコフ。君は、真の愛国者だ。そして、最高の詐欺師でもある」
彼は立ち上がり、ヴォルコフの肩を叩いた。
「面白い。その計画、承認する。
欧州を、我々のエネルギー漬けにしてやれ。
そして、彼らの技術を、根こそぎ吸い上げてしまえ」
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