鷹の巣
2001年11月、モスクワ郊外。旧ジュコーフスキー航空工学研究所。
その場所は、地図の上では「閉鎖された保管施設」として扱われていた。
しかし、その錆びついた鉄条網の内側では、ロシアの宇宙開発の未来を賭けた、最も野心的なプロジェクトが始まろうとしていた。
だだっ広い、天井の高い組立工場。
その中央に、数人の男女が集められていた。
ロスコスモスの各部門から「長期出向」の名目で引き抜かれた、最高の頭脳たちだ。
腹心のパーヴェル首席補佐官、推進システムの専門家アンナ・ベレゾフスカヤ、そしてブランの設計主任であり、ソ連時代からの生きる伝説であるドミトリー・コマロフ技師。
彼らは皆、訝しげな表情で、この奇妙な人事の意図を測りかねていた。
彼らの前に、ヴォルコフが立った。
この数ヶ月で、彼の纏う空気は完全に変わっていた。
かつての、酒の匂いと自己破壊的な翳りをまとった男の姿はどこにもない。
そこにいたのは、無駄な肉が削ぎ落とされ、その双眸に冷徹な知性と鋼の意志を宿した、不屈の男だった。
パーヴェルは、その変化を最も近くで見ていた。
かつては「自分が支えなければ」と危うさを感じていた上司は、今や、その背中に国家の運命を背負っても揺らがないほどの、静かな自信に満ち溢れている。
「諸君」
ヴォルコフの声が、静かな工場に響いた。
「本日をもって、ロスコスモス内に――いや、この国家内に、完全に独立した新しい組織を立ち上げる。
プロジェクト名は『ソコル』。目的は、我が国の次世代宇宙輸送システムの開発だ」
彼はスクリーンに、あの『スペースX』のロケット設計図を映し出した。
コマロフ技師が、思わず一歩前に出た。
彼は、そのシンプルかつ合理的な設計思想に、長年の技術者としての魂を揺さぶられた。
「……馬鹿な。美しい……あまりにも。この垂直着陸機構……まるでSFだ。
しかし、このエンジンノズルの材質、制御ソフトウェアの要求レベル……現在の我々の技術では、これをそのまま形にすることは不可能です、長官」
「その通りだ、コマロフ技師」
ヴォルコフは頷いた。
「だから、我々はこれをコピーするのではない。『翻訳』するのだ」
彼は続けた。
「この設計図は、完成品ではない。我々が解くべき『問題集』だ。
ベレゾフスカヤ、君のチームには、このメタンエンジンを我々の持つ合金技術で再現できる形に再設計してもらう。
コマロフ、君にはこの機体構造を、ソフトウェアへの依存度を下げつつ、同等の強度と軽量性を実現する新しいフレーム構造を考えてもらう」
集められた技術者たちの顔に、絶望ではなく、挑戦者としての光が灯り始めた。
これは、単なる模倣ではない。
未来からの挑戦状に対する、現代のロシア最高の頭脳たちによる「回答」作りなのだ。
ヴォルコフは、彼らを見渡し、静かに、しかし絶対的な確信を持って言った。
「このプロジェクトは、単なるロケット開発ではない。
これは、我が国の基礎工業力、材料科学、コンピュータ技術――その全てを、この秘密の巣の中で、十年、二十年先の未来へと強制的に引き上げるための、国家再編計画だ。
失敗は許されない。そして、外部に漏れることは、国家の消滅を意味する」
パーヴェルは、その光景を見ながら、確信していた。
自分たちが今仕えているこの男、セルゲイ・ヴォルコフは、過去の悲劇を乗り越えたのではない。
彼は、その絶望の全てを、人類を未来へと進めるための燃料に変えてしまったのだ、と。
鷹は、その巣で、静かに翼を広げ始めていた。
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