交差点
銀色のブレードが氷を削る甲高い音が止むと、マリアの荒い息だけが静まり返ったリンクに響いた。トリプルアクセルの着氷に失敗し、叩きつけられた腰が鈍く痛む。彼女が氷の上に座り込み、汗を拭ったその時だった。リンクサイドでコーチの携帯がけたたましく鳴り響いた。
「…何ですって? …ええ、はい、すぐに伝えます」
電話を切ったコーチの顔から血の気が引いていた。
「マリア…落ち着いて聞いてくれ。君のお父さんが…事故だ」
タクシーの車窓を流れるモスクワの景色は、滲んで何も見えなかった。頭の中で、コーチの言葉と、割れた氷の映像がぐるぐると回っている。着替えもそこそこに飛び出してきたため、まだ身体からは練習の熱が抜けきらないのに、指先は氷のように冷たかった。
いつも嫌っているのに、ここ数年まともに会話したことすらないのに。
どこかで自分の心をあざ笑う声が聞こえた。
駆けつけた連邦警護局(FSO)管轄の特別病棟は、灰色の壁と有刺鉄線に囲まれた、感情のない要塞だった。訪問者を拒絶するような威圧感が、マリアの最後の希望を削り取っていく。
入り口で待っていたのは、パーヴェルだった。
その顔は、マリアが知る、父の傍らでいつも穏やかに控えていた補佐官のものではなかった。知らない男の、冷たい仮面がそこにあった。
「パーヴェルさん、父は…! 事故だって…容態は、どうなんです? 生きてるの!?」
マリアは喘ぐように言葉を継いだ。
「マリアさん。まず、落ち着いてください。長官の生命に別状は…」
「じゃあ会わせて! 顔を見るだけでいい! お願いします!」
彼女の悲痛な叫びを、パーヴェルは無表情に遮った。
「それは、できません」
その拒絶は、静かだが絶対的だった。刃物のように冷たい響きがあった。
「どうして…! 私は娘よ! 家族でしょう!」
「だからこそ、です」
パーヴェルの声は、一切の感情を排していた。
「長官は今、あなた個人の父親である前に、この国の高官なのです。彼の容態一つが国際関係を揺るがし、敵国に誤ったシグナルを送る。ご理解ください」
国家の安全保障――その言葉が、見えない壁となってマリアの前に立ちはだかる。父は、もはや自分の父親である前に、国家の所有物なのだ。冷たいコンクリートの廊下で、彼女は深い孤独感と無力感に打ち震え、立ち尽くすことしかできなかった。
その頃、ホワイトハウスNSCのシチュエーション・ルームでは、安堵と勝利の空気が流れていた。
「キメラ作戦は成功。ターゲット、セルゲイ・ヴォルコフは事実上無力化された。完璧な仕事だ」
CIA長官は、葉巻の煙を満足げに吐き出した。
NASA長官ボレンスも、高揚を隠せない。だがそれは、内心の後ろめたさを隠すかのようでもあった。
彼は過去軍人でもあったが、今回のような裏工作を素直に賞賛できるほど、良心を失ってはいなかったのだ。
「素晴らしい。これでロシアの時計は止まった。彼らの宇宙開発は指導者を失い、停滞と内紛に陥るだろう。今こそ、我々の『ゲートウェイ』計画を加速させる時だ。ロシア抜きの国際標準を、彼らが混乱している間に確立する」
アメリカは、最大の敵が盤上から消えたと信じ、勝利への歩みを速めようとしていた。その楽観的な空気の中で、ただ一人、末席に座るダニエル・キムだけが、スクリーンの報告書から目を離さずにいた。
「長官、一つよろしいでしょうか」
キムの静かな声が、祝勝ムードに水を差した。
「何だね、キム博士。勝利の美酒が不味くなるような話はよしてくれたまえ」
CIA長官が、不機嫌そうに言う。
「ロシア側の公式発表が気になります」
キムは構わずに続けた。
「『悲劇的な交通事故』ではなく、『過労による長期療養』。なぜ彼らは、世界からの同情を買える最も効果的なカードを使わないのでしょうか」
その場にいた誰もが、その問いに答えられなかった。
キムは、スクランブルをかけられた事故現場の衛星写真を指差した。
「この情報統制も、あまりに迅速で完璧すぎる。まるで、こうなることを予測していたかのように。これは単なる混乱隠しではない。我々の作戦が露見している、あるいは…彼らがこの状況さえも、何らかの戦略の中に組み込んでいるというシグナルではないでしょうか」
「考えすぎだ、若者」
ボレンスが、父親のような口調で、しかし有無を言わせぬ響きで言った。
「絶対的な指導者を失った組織がどうなるか、歴史が証明している。彼らは混乱しているだけだ。我々はこの好機を逃してはならない」
高官たちが再び『ゲートウェイ』計画の具体的なステップについての議論に戻る中、ダニエル・キムは一人、黙ってスクリーンに表示されたヴォルコフの顔写真を見つめていた。
(要石は倒れた。だが、その不在を完璧に管理している、次のプレイヤーがいる…)
彼の思考は、まだ見ぬ敵――冷徹な仮面を被ったパーヴェルと、ヴォルコフが作り上げた恐るべき国家システムの存在を、ぼんやりとだが、確かに捉え始めていた。
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