猟鷹
2001年10月、クレムリン。大統領執務室。
部屋の空気は、数週間前の緊迫感とはまた違う、静かで、底知れない重みを帯びていた。
世界は「テロとの戦争」という新しい時代に突入した。
だがその裏で、この部屋にいる者たちだけが知る「未来からの情報」が、重くのしかかっていた。
ペトロフ大統領は、世界地図の前で腕を組み、長い間考え込んでいた。
やがて彼は、ヴォルコフとシェスタコフ将軍に向き直った。
「……予言は、真実となった。これで、あのメールは単なる情報源ではない。我が国が従うべき、国家戦略指針となった」
彼は机に戻り、ヴォルコフに鋭い視線を向けた。
「次の議題だ、ヴォルコフ。技術だ。我々が、来るべき六十年後の『本当の戦争』を戦い抜くための、武器の話だ。君が解析を進めている技術の中で、最優先すべきものは何か?」
ヴォルコフは、この瞬間を待っていた。
スクリーンに一枚の設計図を映し出す。
それは、従来のソユーズロケットとは似ても似つかない、洗練された、しかし奇妙な形状のロケットだった。
「これです、大統領。再使用型ロケット。メールの記述によれば、21世紀初頭にアメリカで『スペースX』という民間企業を率いる『ブレナン・ヴァンス』という人物が開発する技術です」
シェスタコフ将軍が眉をひそめた。
「再使用型だと? ソ連時代に『エネルギア』で試みて、コストに見合わず失敗した計画ではないか」
「その失敗とは、根本的に思想が異なります、将軍」
ヴォルコフは説明を始めた。
その声には、科学者としての純粋な興奮が滲んでいる。
「このロケットの革新性は、第一段推進ブースターを使い捨てにせず、自らのエンジンで垂直に着陸させ、再利用する点にあります。これにより、宇宙への輸送コストは三の一、将来的には百の一にまで下がると記されています。これはもはや改良ではありません。宇宙輸送における、馬車から自動車へのパラダイムシフトです」
彼は続けた。
「我々のソユーズは世界一信頼性の高いロケットです。しかし、それは世界一精密で高価な『鉄の矢』です。一度放てば、二度と戻らない。しかし、この技術は、宇宙と地上を往復する『船団』を我々に与えてくれます。来るべき防衛戦争において、どちらが有利かは言うまでもありません」
執務室は深い沈黙に包まれた。
ペトロフは席を立ち、ゆっくりと窓際まで歩いていく。
クレムリンの壁の外に広がるモスクワの街並みを見下ろし、沈思黙考していた。
ガガーリン以来、ロシアの宇宙開発は国家の誇りそのものだった。
その栄光の歴史を、アメリカの、それもまだ存在すらしない一民間企業の設計図のために根底から覆す――それはあまりにも大きな決断だった。
だが……。
ペトロフは、ヴォルコフとシェスタコフの方にゆっくりと振り返った。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
「全面的なゴーサインを出す」
その一言に、シェスタコフも息を呑んだ。
「大統領、しかし既存のロケット産業からの反発は……」
「私が抑える」
ペトロフは有無を言わせぬ口調で言った。
「これは単なる一研究開発ではない。我が国の宇宙開発の、国家としての優先順位を、本日この瞬間より完全に切り替える。ヴォルコフ、君にはロスコスモスの全権限を与える。国内最高の技術者を集め、このロケットを、我々の手で、本家よりも先に完成させろ」
彼はヴォルコフの目を見据えた。
「プロジェクト名を『Сокол(ソコル)』とする。気高い『猟鷹』だ。西側が旧式の矢を放ち続けている間に、我々は獲物を狩る鷹を、秘密裏に育てる」
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