表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/52

元日のメール

この物語はフィクションです。実在の人物、組織とは一切関係がありません。

また実在の国家・民族・事件を支持または批判する意図はありません。

元日の朝、モスクワは灰色の雲に押し潰されていた。

大晦日の祝宴の余韻もなく、通りは雪解けの泥を踏みしめる人影が、まばらに行き交うだけだ。


セルゲイ・ヴォルコフ、ロスコスモス長官は、ロスコスモス官舎に籠もり、冷めきった紅茶をすすりながら、メールの受信音に眉をひそめた。差出人欄には、見覚えのない肩書きが並んでいる。


《地球統合防衛軍提督》。


ふざけた悪戯メールか、あるいは官僚機構のどこかで酔っ払いがやらかしたのか──そう思って件名をクリックした瞬間、息が止まった。


「2060年3月15日、異星文明による本格侵攻が始まる。人類の生存は、今から60年の準備にかかっている」


文面は短く、冷ややかだった。


スクロールすると、添付ファイルがずらりと並ぶ。未発表の天文観測データ、数年先の自然災害の秒単位予測、既存理論では説明不能な推進装置の設計図。そして最後に──彼の孫の名前と、生年月日、2059年時点での階級が書かれていた。


だが、ところどころが文字化け。エンコードは正常なようだが……。


椅子の背もたれが冷たく感じる。


ふざけたハッカーが仕込める情報量ではない。いや、それ以上に、ここに書かれた災害の予測が、一つでも当たれば……。


「なぜ、俺に送った?」


声に出した瞬間、自分の口調が無意識に低くなっているのに気づいた。


この馬鹿げたメールの存在を公にすれば、即座に政治の餌になる。

だがもし、もし真実であったら。隠していて、信じなかった場合の代償は計り知れない。


窓の外では雪が降り始めていた。


ヴォルコフはマグカップを机に置き、ゆっくりと添付ファイルを開く。そして決めた。


最初の一歩は、信じることでも、疑うことでもない。


「検証」だ。


受話器に手を伸ばそうとして、口の中に乾き覚える。夜の酒がまだ口の中に残っているようだ。喉を潤す紅茶は苦いだけで、味がしない。顔を拭っても、目の奥のざらつきは消えない。あの病院の白い廊下の残像が、ふっとよぎる。やめろ、戻ってこい。


意志の力で幻影を振り払い、短縮ダイヤルを押す。コール二回でつながった。


「……主任のパーヴェルです」

「パーヴェル。すぐ来い。理由は来てから話す」

「長官、今日は元日です。先週だって二度——」

「三十分だ」


そこで一拍の沈黙。ため息が混じった。


「……向かいます」


三十二分後。パーヴェルは分厚いコートについた粉雪を落としながら入ってきた。部屋の酒の匂いに、目線が一瞬だけ漂う。ヴォルコフの無精ひげ、乱れたネクタイに、ほんのわずかに顔をしかめる。パーヴェルはすぐに表情を整えたが、警戒は引っ込めていない。


「新年早々のご用件は?」

「これだ。まず見ろ。反応は後だ」


端末を開く。海王星外縁の物体群、秒単位の太陽嵐予測、既存理論を踏み外した推進設計。パーヴェルは拡大とスクロールを無言で繰り返した。眉間の縦皺が一本、深くなる。


「出所は?」

「聞くな。……俺にもよくわからん」

「は?」


パーヴェルはゆっくり顔を上げた。淡々とした声の裏で、観察している。最近の遅刻、会議の欠席、酒の匂い。噂は全部知っている目だ。


「長官。確認させてください。先週の調整会議、途中退室。今朝の呼び出しは元日。で、出所不明のデータ。これで俺に『信じろ』は無理です」

「信じろとは言っていない。検証しろと言っている」

「検証するために、一年分の観測計画を、今ここで引き直せと?」

「今日は骨組みだけだ。太陽観測を優先、深宇宙は既存網の再配置で。データは分割して渡す。全体像は、お前と俺だけで持つ」


パーヴェルは黙って椅子に寄り、画面をさらに食い込むように覗き込んだ。数分。やがて、短く息を吐く。


「……理屈が通ってる部分はある。全部じゃない。だからこそ危ない」

「わかってる」

「もう一つ。条件を付けます」

「言え」

「医務室での検査。飲酒は禁止。対外説明の窓口は当面、俺に一本化。あなたは指示と決裁に徹する」

「命令口調だな」

「俺はあなたの部下で、同時に、この機関の保険でもある。最近の長官は、保険を必要としているように見えます」


パーヴェルの言葉が刺さる。反論できない。ずっと、あの電話の呼出音が頭から離れない。


胸が冷える。頭の奥で、誰でもない声が、かすかに反響する。気取られるわけにはいかない。


「……いい。条件は飲む」

「では、実務の話に戻ります」


パーヴェルは手帳を開いた。もう疑いの目ではない。プロの目だ。


「太陽はプルコヴォとノリリスクの二拠点で。同時刻観測のギャップを埋めるために、地方の大学に委託枠を広げる。深宇宙はレーダーのスキャンパターンを変えるだけでも収穫がある。設計図の方は、理論班に二手で投げる。名前は伏せる。あなたが最近……いや、やめた。とにかく、外に匂いが出ないように」

「予算は?」

「骨組みなら今年の枠内。動かすのは人の方です」


パーヴェルは端末を閉じ、こちらをまっすぐ見た。


「長官。これがガセなら、あなたは終わる。俺も巻き込まれる。だから、やるなら徹底的にやる。データは俺が守る。あなたは、あなた自身を管理してください」

「……助かる」


彼は頷いた。コートを手に取る。


「では、さっさと医務室へ行ってください。今日はそれが最初の仕事だ」

「命令か?」

「同僚としての頼みです」


ドアが閉まる。部屋に静けさが戻る。端末の画面に、自分の顔が映る。ひどい顔だ。


しかめた顔で紅茶を一口。苦味が、少しだけ戻った。検証だ。まず、そこからだ。

更新の励みになります。ブクマ・感想・評価いただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ