元日のメール
この物語はフィクションです。実在の人物、組織とは一切関係がありません。
また実在の国家・民族・事件を支持または批判する意図はありません。
元日の朝、モスクワは灰色の雲に押し潰されていた。
大晦日の祝宴の余韻もなく、通りは雪解けの泥を踏みしめる人影が、まばらに行き交うだけだ。
セルゲイ・ヴォルコフ、ロスコスモス長官は、ロスコスモス官舎に籠もり、冷めきった紅茶をすすりながら、メールの受信音に眉をひそめた。差出人欄には、見覚えのない肩書きが並んでいる。
《地球統合防衛軍提督》。
ふざけた悪戯メールか、あるいは官僚機構のどこかで酔っ払いがやらかしたのか──そう思って件名をクリックした瞬間、息が止まった。
「2060年3月15日、異星文明による本格侵攻が始まる。人類の生存は、今から60年の準備にかかっている」
文面は短く、冷ややかだった。
スクロールすると、添付ファイルがずらりと並ぶ。未発表の天文観測データ、数年先の自然災害の秒単位予測、既存理論では説明不能な推進装置の設計図。そして最後に──彼の孫の名前と、生年月日、2059年時点での階級が書かれていた。
だが、ところどころが文字化け。エンコードは正常なようだが……。
椅子の背もたれが冷たく感じる。
ふざけたハッカーが仕込める情報量ではない。いや、それ以上に、ここに書かれた災害の予測が、一つでも当たれば……。
「なぜ、俺に送った?」
声に出した瞬間、自分の口調が無意識に低くなっているのに気づいた。
この馬鹿げたメールの存在を公にすれば、即座に政治の餌になる。
だがもし、もし真実であったら。隠していて、信じなかった場合の代償は計り知れない。
窓の外では雪が降り始めていた。
ヴォルコフはマグカップを机に置き、ゆっくりと添付ファイルを開く。そして決めた。
最初の一歩は、信じることでも、疑うことでもない。
「検証」だ。
受話器に手を伸ばそうとして、口の中に乾き覚える。夜の酒がまだ口の中に残っているようだ。喉を潤す紅茶は苦いだけで、味がしない。顔を拭っても、目の奥のざらつきは消えない。あの病院の白い廊下の残像が、ふっとよぎる。やめろ、戻ってこい。
意志の力で幻影を振り払い、短縮ダイヤルを押す。コール二回でつながった。
「……主任のパーヴェルです」
「パーヴェル。すぐ来い。理由は来てから話す」
「長官、今日は元日です。先週だって二度——」
「三十分だ」
そこで一拍の沈黙。ため息が混じった。
「……向かいます」
三十二分後。パーヴェルは分厚いコートについた粉雪を落としながら入ってきた。部屋の酒の匂いに、目線が一瞬だけ漂う。ヴォルコフの無精ひげ、乱れたネクタイに、ほんのわずかに顔をしかめる。パーヴェルはすぐに表情を整えたが、警戒は引っ込めていない。
「新年早々のご用件は?」
「これだ。まず見ろ。反応は後だ」
端末を開く。海王星外縁の物体群、秒単位の太陽嵐予測、既存理論を踏み外した推進設計。パーヴェルは拡大とスクロールを無言で繰り返した。眉間の縦皺が一本、深くなる。
「出所は?」
「聞くな。……俺にもよくわからん」
「は?」
パーヴェルはゆっくり顔を上げた。淡々とした声の裏で、観察している。最近の遅刻、会議の欠席、酒の匂い。噂は全部知っている目だ。
「長官。確認させてください。先週の調整会議、途中退室。今朝の呼び出しは元日。で、出所不明のデータ。これで俺に『信じろ』は無理です」
「信じろとは言っていない。検証しろと言っている」
「検証するために、一年分の観測計画を、今ここで引き直せと?」
「今日は骨組みだけだ。太陽観測を優先、深宇宙は既存網の再配置で。データは分割して渡す。全体像は、お前と俺だけで持つ」
パーヴェルは黙って椅子に寄り、画面をさらに食い込むように覗き込んだ。数分。やがて、短く息を吐く。
「……理屈が通ってる部分はある。全部じゃない。だからこそ危ない」
「わかってる」
「もう一つ。条件を付けます」
「言え」
「医務室での検査。飲酒は禁止。対外説明の窓口は当面、俺に一本化。あなたは指示と決裁に徹する」
「命令口調だな」
「俺はあなたの部下で、同時に、この機関の保険でもある。最近の長官は、保険を必要としているように見えます」
パーヴェルの言葉が刺さる。反論できない。ずっと、あの電話の呼出音が頭から離れない。
胸が冷える。頭の奥で、誰でもない声が、かすかに反響する。気取られるわけにはいかない。
「……いい。条件は飲む」
「では、実務の話に戻ります」
パーヴェルは手帳を開いた。もう疑いの目ではない。プロの目だ。
「太陽はプルコヴォとノリリスクの二拠点で。同時刻観測のギャップを埋めるために、地方の大学に委託枠を広げる。深宇宙はレーダーのスキャンパターンを変えるだけでも収穫がある。設計図の方は、理論班に二手で投げる。名前は伏せる。あなたが最近……いや、やめた。とにかく、外に匂いが出ないように」
「予算は?」
「骨組みなら今年の枠内。動かすのは人の方です」
パーヴェルは端末を閉じ、こちらをまっすぐ見た。
「長官。これがガセなら、あなたは終わる。俺も巻き込まれる。だから、やるなら徹底的にやる。データは俺が守る。あなたは、あなた自身を管理してください」
「……助かる」
彼は頷いた。コートを手に取る。
「では、さっさと医務室へ行ってください。今日はそれが最初の仕事だ」
「命令か?」
「同僚としての頼みです」
ドアが閉まる。部屋に静けさが戻る。端末の画面に、自分の顔が映る。ひどい顔だ。
しかめた顔で紅茶を一口。苦味が、少しだけ戻った。検証だ。まず、そこからだ。
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