【精霊国物語番外編】地道な一歩
マリーエルの四番目の兄ヨンムの恋のお話。
時系列は、マリーエルの成人式前と、大陸に旅していた時です。
ヨンムは、窓枠の端からそっと中庭を窺った。
中庭では今、マリーエルが舞の稽古をしている。真剣な表情を浮かべているが、しかしその瞳は楽しそうに輝いていた。辺りには幼精が飛び回り、陽の光を受け、眩く煌めいている。
舞を教えているのは、知の精霊の呼び掛けを受けたアントニオ。
眉間に皺を寄せ、厳めしい顔をしながら舞の指導をするその姿に、ヨンムは小さく笑った。
頭ばかりを使って、体を疎かにするせいで、舞の動きはどこかぎこちない。しかし、それでも幼精が躍り回るのを見ているからか、マリーエルの動きは見る間に良くなっていく。
──精霊姫とは、そういうものか。
舞というものの知識だけはふんだんに持っているアントニオが、細かい箇所を確認し、それをいちいち訂正する。そうすると、マリーエルの動きはよりよいものになる。
ふっと、アントニオが表情を和らげたのに、ヨンムは見入った。
マリーエルだけにしか向けない笑顔。
精霊に近い感性で生きるマリーエルを、時に追い掛け、時に叱り、頭を悩ませているアントニオが、ふとした瞬間にマリーエルへと向ける笑顔。
アントニオのマリーエルへと抱く想いは、父性に近いものだろう。そして祈りにも似た信仰の想い。
アントニオにとって、マリーエルに仕えることは喜びであり、この世界に命を受けた意味でもある。そう、折に触れて彼は口にした。
ヨンムは、自身の胸に沸いた感情を吐き出すように溜め息を吐いた。
「姫様、いけません!」
その時、アントニオの慌てた声が言った。
ぼんやりと眺めていた中庭で、駆け回り始めたマリーエルに目を向ける。マリーエルは、楽しそうに幼精と舞い始めた。それは、儀式用の舞ではなく、ただ精霊の力を受け、この世界に流れる力のままに躍る舞だった。力が渦巻くと、花の精霊が現れ、マリーエルの手を引いた。マリーエルは嬉しそうに笑うと、精霊と声を合わせ歌い始めた。
美しい音色が大気を震わせる。精霊姫が精霊と共に歌う歌は、世界を満たし広がっていく。
それに耳を澄ませていたヨンムは、ふとアントニオに視線を移した。彼の様子にふっと笑う。
眉間を押さえたアントニオは、じっとその場で佇んでいた。
例え舞の稽古中だとしても、精霊姫が精霊と歌い始めたなら、それを遮るようなことはしない。アントニオはそう決めていた。だが、精霊にとって命世界の者の都合など知ったことではないのは重々承知の上で、しかしそれでも少しは事情を汲んで頂きたいものです、とアントニオが愚痴るのを、ヨンムは耳にしたことがある。
ヨンムは階段を降りて中庭に続く廊に出ると、複雑な表情でマリーエルを見つめるアントニオに声を掛けた。
「今日も始まったみたいだね」
振り返ったアントニオが、困ったように眉を下げ、息を吐く。
「あぁ、ヨンム様。いらしていたのですね。本日も姫様の為に……熱心に通われて、嬉しい限りです。ですが、姫様があの様子では稽古の成果を見て頂く訳には……。本日は腕の振りにより磨きがかかり、是非ともお目に掛けたい所なのですが──もしお時間を頂けるようでしたらこの後、歌が終われば是非ご覧頂ければ」
そうつらつらと語るアントニオに相槌を打ちながら、ヨンムは内心で「会いに来たのはお前にだよ」と呟いた。
マリーエルに興味がない訳ではない。大切な妹であり、精霊姫という稀有な存在でもある。兄弟姉妹の中では、個性の面でも興味がそそられる相手であるし、ヨンムが研究の話をしても、理解出来なかったとしても聞こうという姿勢があった。そのこともあって、ヨンムは近く行われる彼女の成人の儀の際に、とっておきの彩りを加えてやろうと企んでいた。
何より、精霊姫の持つ力は、〝この世界の構造を解き明かし役立てる研究〟に活用出来ると、ヨンムは踏んでいた。あらゆる精霊と──精霊王の力をもその身に受け、流し、世界を満たすことが出来る。
とはいえ、成人になってもおらず、器としての成熟を待たれる現在、研究に付き合えという訳にもいかず、精霊姫という存在を自身の許に置こうなどとは思ってもいないヨンムは、彼女の使命を妨げることのない範囲で、何かしらを発明してはその具合を確かめに訪れていた。
ヨンムは懐から包みを出すと、その中の小さな発明品に力を流し込んだ。木で組んだ小鳥が、ぐぐぐと重く動き、次の瞬間風に乗った。ふわりと浮いて空を飛び、中庭をぐるぐると回り始める。
マリーエルが目を上げ、木の小鳥に気が付くと、わっと嬉しそうな顔をした。
その様子に、ヨンムは忍び笑った。
小鳥に組み込んだ精霊石が光り、音を吸収する。
嘴を開いた小鳥は、少しだけ歪な声で、マリーエルと精霊の歌を紡ぎ始めた。
マリーエルは驚いたように目を見張り、興奮を抑えきれずその場でぴょんぴょんと跳ねる。花の精霊がその手を伸ばし、木の小鳥に力を送った。組んだ木から芽が生え出て伸びあがる。葉が増え、花が──。
「……あっ」
ヨンムの呟く声を合図にしたように、木の小鳥は地に落ちた。
ふいに歌声が止む。
花の精霊が、悲しそうに項垂れた。
ヨンムは駆けて行き、小鳥を拾うと手のひらの上でもう一度力を込めた。
木の小鳥は、ぐぐぐを顔を上げ、再び歌を紡ぎ始めた。
「かなりギリギリまで軽量化したから、何かを乗せて飛ぶのは無理だけど、こうして歌を歌うことは出来る」
「わ、本当だ! ヨンムお兄様って本当に何でも作っちゃうのね」
マリーエルが、項垂れていた花の精霊を見上げ、微笑んだ。花の精霊が微笑み返す。
「あぁ、木で創られた小鳥。また我等と共に歌うことが出来る」
「うん」
花の精霊が小鳥を撫でると、その体に芽吹いた花々がはらりと散り風に乗る。花の精霊はマリーエルの額に口づけを落とすと、その風に乗り姿を消した。
舞い落ちる花弁に、マリーエルが歓声を上げる。
「姫様。気は済みましたか」
アントニオの諫めるような声が言った。目を瞬いたマリーエルが、「あっ」と気まずげに小さく呟いた。
精霊に誘われるままにマリーエルが行動するのはいつものことだ。しかし、アントニオは敢えて、言っても無駄だと理解した上で、口を酸っぱくして言う。
「舞の稽古はまだ済んでいません。本日の夕餉は皆で食べるのだと言っていませんでしたか。カルヴァスも来るのでしょう?」
「う、そうだった。稽古の続きを……お願いします」
マリーエルは、表情を硬くしてアントニオに頭を下げた。
放り出していた、練習用の杖を取りに向かったマリーエルを見やり、アントニオはヨンムの手のひらの上に目を落とした。
「えーと、素晴らしい発明品ですね。それは一体他に何が出来るのですか?」
アントニオはいかにもお世辞といった風に笑みを浮かべた。ヨンムはつまらない気持ち半分、愉快な気持ち半分で、薄く笑った。
「他には何も出来ないよ。ただ風に乗り、音を覚えるだけ。これは研究の息抜きに造ったものだからね」
はぁ、と戸惑ったように相槌を打ったアントニオは、しかし顎に手を当て考え込んだ。
「やはり、創造の精霊の呼び掛けを受けた方は独特な感覚をお持ちなのですね」
妙に納得したように言うアントニオに、ヨンムは思わず小さく笑った。その笑い声に、アントニオが驚いたような顔をする。
「僕からしたら、知の精霊の呼び掛けを受けたお前の方が、随分独特な感覚を持っているように見えるけど」
「そ、そうでしょうか……?」
眉間に皺を寄せたアントニオが、今度は納得がいかない、というようにヨンムの顔を覗き込んだ。さらり、と垂らしたままのアントニオの髪が、ヨンムの目の前で揺れる。
少しだけヨンムよりも高い背を曲げるようにして厳めしい顔をするアントニオに、ヨンムは内心で焦がれた。
──あぁ。この髪に触れることが出来たなら。
アントニオの瞳には、何の熱も籠っていない。
あるのは、知識に対する渇望と、マリーエルに対する愛情だけ。あとは国を想う気持ちか。
自身の瞳に映るこの想いに、アントニオは気が付くだろうか。
ヨンムは内心で首を振る。気が付く筈がない。アントニオはかなりの鈍感な上に、そういった可能性を頭に置いていない。知の精霊の呼び掛けを受けたくせに。
ヨンムはゆっくりと手を上げ、中庭の真ん中で小首を傾げて様子を伺っているマリーエルを指さした。
「マリーエルが待ってるけど」
「あぁ、そうでした。申し訳ありません」
アントニオはパッと背を向け走って行ってしまう。
──そうやって駆けて行く先が、僕の許だったら良かったのに。
マリーエルと何やら話していたアントニオが、「ヨンム様!」と声を上げた。
「本日の成果をお見せします。さぁ、姫様」
アントニオは、真剣な顔でマリーエルに合図を出す。
二人の許に歩み寄ったヨンムは、廊の端に置かれた椅子に腰掛け、〝本日の成果〟の舞を眺めた。
ふと、目を覚まし、机に突っ伏して眠っていたのだと知る。ヨンムは硬くなった体を鳴らし、欠伸をした。
連日の激務にそろそろ体は限界を迎えそうであったが、精霊国全土を駆け回るカオルやクッザールに比べれば幾分かマシだろう。とぼんやりと考えながら目を擦る。卓の上には、自身の隊の者達が届けた成果物が積まれていた。皆が、十分に気を遣って部屋に入ったのだとは思うが、それに気が付かない程に深く眠っていたらしい。
少し離れた場所にある長椅子に目を向けたヨンムは、卓に頬杖を突き、それを見つめた。
アントニオが眠っている。
昨夜はヨンムよりも早く限界を迎えて寝入った筈なのに、まだ目を覚ます様子はない。
眠るアントニオは、まるで書物を積み重ねたようだった。別に見た目がそう見える訳ではない。知の精霊の力を受ける者の成せる技なのだろうか。精霊という存在を、この世界の在り方を探求し続けているヨンムとしても、はっきりしたことは掴めずにいる。世界とは、それ程にまだ見えぬモノを潜ませている。
ヨンムはアントニオの許まで歩み寄ると、屈みこんでその顔を見下ろした。
眠っていると、眉間に皺は寄らない。夕暮れに沈む深い樹々の色をした髪が、長椅子に垂れている。
アントニオを研究室へと引き込むのは、随分と簡単だった。
深淵の女王と対峙したあの時に負った怪我のこと。それは、マリーエルの旅から離すのに役立った。勿論、それは鏡話が機能すれば補えることだ。どうせ、どんくさいアントニオが旅に同行した所で怪我をしてお荷物になるのが判り切っている。剣の腕が確かで、クッザールからの信頼も厚いカルヴァスが居ればそれで済むことだ。加えて世話役に、突如現れたという大陸の剣士まで居る。それで十分だ。
ヨンムは、アントニオを引き込んだことは、自身の欲望だけが理由ではなく、合理的な判断のもとの決定なのだと自分に言い聞かせた。事実、国中が慌ただしく、一人一人に気を向けている余裕がない。アントニオの知識を求める者にはそれを与え、しかし、主には精霊国の為の発明を行うヨンムの許に身を置くように仕向けた。ヨンムにとっても発明は口実ではない。どちらもヨンムにとっての望みだった。
ヨンムは、アントニオの胸の上に置かれる、薬布を巻いた腕を見やった。腕に負った傷は少しずつ良くなっている。直に薬布を取ることも出来るだろう。
再び寝顔に目を移したヨンムは、ふと、アントニオの髪に触れた。
──今は、こんなにも近くに居る。こうして、気を抜いて眠ることさえする。でも……。
アントニオの目蓋がピクリと震えた。薄く開いた瞳がヨンムを捉える。
「……ヨンム様? あぁ、もう朝ですか。随分と眠って──痛っ、何が、イタイッ!」
アントニオは呻いてから、ヨンムが握ったままの自身の髪に目を移した。ぼんやりと身を起こしたアントニオは、引っ張られる髪に「痛っ」と叫び、戸惑いのまま怪我をした手で体を支えたことによって「イタイッ」と呻いた。
アントニオが長椅子の上で暴れたせいで、長椅子の横に積まれギリギリで均衡を保っていた荷物が崩れた。
未だ髪を掴まれたままのアントニオが、眉間に皺を寄せる。
「な、なにを……しているのですか。ヨンム様」
『な、なにを……しているのですか。ヨンム様』
くぐもった声が、荷物の中から言った。
アントニオの髪を手放したヨンムは、崩れた荷物の中から木の小鳥を掴み上げた。
「あぁ、これか。随分と懐かしい。そうか、そっちの装置の精霊石が動力を供給したのか」
崩れた荷物の中には、今まで息抜きにと造り上げたもの達が紛れている。
ヨンムは、頭の中で何かが組み上がっていく感覚に黙り込んだ。
「あ、あの……」
戸惑ったまま放置されたアントニオが、緩く首を振る。
ヨンムがこのような表情で黙り込んだ時は、何かを創造しようとしている時。それを、研究室で共に過ごす内に理解していた。
パッと顔を上げたヨンムは、アントニオを振り返った。
「よし、次の装置を思いついた。確認したいことがある。お前の知識を貸せ」
「……はい、かしこまりました」
このやり取りも、随分と繰り返した。卓についたアントニオは、籠に盛った果物を二つ取り上げた。二人とも、朝は大抵こういうもので済ませている。
卓に座ったヨンムが、ふと手にしたままの木の小鳥を掲げ持った。
『な、なにを……しているのですか。ヨンム様』
不可解な行動にアントニオが眉根を寄せると、ヨンムは首を傾げた。
「こう聞くと、あまり似てないな。次に造るならどこを改善すべきかな」
「思いついたのは、その装置の改善方法ですか? 〝次の装置〟ではないのですか」
アントニオがぼんやりと果物にかじりつきながら訊く。研究室で共に過ごす内にヨンムは理解していた。アントニオの朝は早いが、決して得意ではないことを。
「いや、次の装置。でも、暇を見つけてこういうものも改良していきたい」
木の小鳥は、切れ切れにアントニオの声を真似して喋る。
アントニオは、じとり、と木の小鳥を見やった。
「それは良いですが……あまり私の声を、しかも寝起きのよく考えずに発した言葉を真似されるのは不快なのですが」
ヨンムは一度木の小鳥を見つめ、アントニオに向けてその手を伸ばした。
「じゃあ、何か考えて喋りなよ」
「何故、私が──」
顔を顰めるアントニオに構わず力を流し込んだヨンムの手のひらの上で、小鳥に組み込まれた精霊石が破裂して崩れた。
手元に引き寄せ、じっくりと小鳥を観察する。
「流石に精霊石が持たなかったか。小ぶりの石を使ったからな。これは他の装置でも応用出来るよな。待てよ、ということは──」
考え込み始めたヨンムを見つめていたアントニオが、はぁと溜め息を吐く。
「また貴方は。お取込み中申し訳ないですが、まずは朝餉を。これなら時間も掛かりませんから。早いところ食べてしまって下さい」
そう言って、果実をヨンムの前に差し出した。呆れたような、しかし何処かで面白がっているような、そんな瞳を向けている。
「……そうだね。何をするにも原動力は必要だからね」
ヨンムは、果実にかじりつきながら、内心で小さく笑った。
──あの瞳は。あれは、僕にだけ向けられるものだ。例え、熱が無かろうとも、僕だけの。
もうひとつ食べますか、と訊くアントニオに首を振り、ヨンムは立ち上がって崩れた荷物を直しに向かったアントニオを目で追った。
肩に垂れる髪を、アントニオはひとつに束ねた。
──あれに触れることは、もう、出来る。
研究とは、発明とは、地道な一歩を刻むもの。
──僕は、決して諦めない。