虹彩異色症
虹彩異色症
目次
第一章 ーリアチャンノコトー
第二章 ー事件のコトー
第三章 ーシュウヘイクンノコト-
第四章 ーキョウカサンノコトー
第五章 ー事件ノコトー
第六章 ーオヤコノコトー
ーエピローグー
-ボクのキモチ-
僕は愛されている
僕だけを愛しているんだよね
そうでなくなってしまう前に
取ってしまおう
二人の宝物は
ヒトリだけの
僕だけなんだ
何があっても変わらないはずだよ
……でも僕は見えてしまったんだ
-リアチャンノコト-
十二月。街中がイルミネーションで彩られている。寒さも本格的になってきた。汗をかくような季節でもないのに、じっとりと汗をかいている。何年間こんな朝を迎えているのだろう。気温など関係ない。毎日、寝汗が気持ち悪くて、目が覚める。しばらくすると、必ず腹痛にも襲われる。今日もしっかり痛い。それに加えてキッチンでの物音がうるさい。
桜木理愛は、眠い目を擦り、お腹を押さえながら、急ぎ足でキッチンを通り過ぎた。今日は、朝食の準備が出来る程ご機嫌らしい。
気分の浮き沈みが激しいママは、些細な事で突然不機嫌になる。いつも沸点が分からなくて、接し方に悩んでしまう。
名前を呼ばれたが、返事もせずに、大きな音をたてて、ドアを閉めた。すると、わざわざトイレの前に立ち小言を言っている。
「毎日騒々しいわね。もっと静かに閉められないわけ?それに、お腹を押さえながらトイレに行ったりして、大袈裟なのよ。心配してもらいたいの?やめてほしいわ」
うるさい。私だってこんな朝を、迎えたくない。『やめてほしいわ』なんてひどい。わざと、こんな事をしてる訳がないのに。返事をする気にもならない。
「聞いてるの?絶対聞こえてるでしょ。無視してるのよね。性格の悪い娘を持つと、大変だわ」
どうやら、大きな音をたてて、ドアを閉めた事が気に入らなかったらしい。本当にめんどくさい。返事をするまで、小言を言っているのだろう。このままトイレに住んでしまおうかと思う。しばらく籠っていたが、さすがに飽きた。スマホがあれば、もう少し時間を稼げたのに。お腹が痛すぎて忘れた。
「ちょっと、長すぎない?早く出てきなさいよ」
「今、出るって」
「返事くらいしなさいよ」
「あ、はい。ごめんなさい」
ドアを閉めながら、ママの顔を見ずに謝った。絶対に私が悪くないと思っていても、すぐに謝ってしまう。幼い頃から『ごめんなさい』が口癖だ。ママはその場から離れようとしない。ウザイ。しつこい。私が何か言うまで、そこをどかないつもりらしい。この際、いい機会だから言っておこう。
「あのね、何年も前から、寝汗が気持ち悪くて、目が覚めるの。それから必ず、お腹が痛くなる」
「そうなの、大変ね。いつもお腹抱えちゃって、心配してアピールだと思ってたわよ。もういいわ。早く朝ご飯たべて」
「え、お腹が痛いの知ってたの?」
「毎朝、毎朝、お腹抱えてるんだもの。それぐらい分かるわよ。バカじゃないいんだから」
「それなのに、心配にならなかったの?」
「ならなかったわよ。心配してアピールだと思ってたから。別に生活に支障はないでしょ」
話の途中なのに、スタスタとキッチンに戻り、支度の続きをし始めた。
何回か言ってたけど、心配してアピールってなんなの。いちいちそんな事するわけない。ズル休みをしたい小学生でもあるまいし。毎朝、体調が悪そうな姿を見て、心配にならないなんて、とても母親の思考とは思えない。
「だからね、一度、病院で診てもらいたい」
「一体、何を診てもらうのよ。ご飯だって食べられてるし、遊びに行く元気だってあるじゃない。くだらない事を言ってないで、早く食べて。食べたくないなら、別に無理に食べなくてもいいわよ。ママがお腹空いて、困るわけではないし、食べないなら片付けます。とにかく急いでるの。話に付き合ってる時間はないのよ」
「聞いてよ……毎朝、目覚めも悪くて食欲もないし、病院に行きたいの!」
もう聞いていないらしい。もっと訴えたいが、しつこくしていると、手をつけられなくなるほど、機嫌が悪くなる。だからいつも、言いたいことを満足に言えないでいる。どんな時も一方的で、本当に自己中。
こんな理不尽な母親と、毎日を過ごし、中学一年生の夏休み明けから、不登校になった。理由を聞かれた事は、一度もない。『学校に行きなさい』と言われた事もない。二人の間で、学校の話しをする事はなく、中学校生活は終わった。仮に行かない理由を聞かれたとしても本当の事は言えない。
あの時、不登校問題に親子で向き合い、解決できていたら、今は高校二年生だ。不登校中は、一ヶ月近くボーっとしている日が続いた。そんな時、少しの時間であったが、店番を頼まれた。それからなんとなく、お店を手伝う生活が始まった。
そんな訳で、毎日一緒に居る時間が多くなったのだが、とにかくママは、私に興味がないらしい。金髪にした時も、口と鼻にピアスを開けた時でさえ、何も言わなかった。いつから私に興味がなくなったのだろう。何をしたら、関心を示すのか。もしかしたら、初めから興味など無く、自分のことしか考えられない、毒親なのかもしれない。
『毒親』で検索してみると、どうやら大きく四つに分類されるらしい。過保護型、高圧型、甘やかし型、無関心型。
いや、一つ足りない。私が思うに、分類は五つではないかと思う。依存型だ。残念ながら私のママは、無関心型と依存型である。
「今日はねお店が忙しいのよ。予約のお惣菜を、詰めないといけないの。だから、いつもより一時間早く来て」
やっぱり、自分の事しか考えられないらしい。お腹が痛いと言ってるのに、お構い無し。返事をするのもバカバカしくて、テーブルに置いてある雑誌に目を向けた。
今、若い子たちに大人気の『ヒビキ』がモデルをしている、カラコンのページが開かれていた。
『ずっと見たかったものが見えます』
この大胆な、キャッチフレーズに惹かれ、大流行してる。片目のみに装着する斬新さと、人気者のパフォーマンスが合わさり、目の色が片方ずつ違う『オッドアイ』が増殖中だ。
『ヒビキ』は妖艶な雰囲気がとても魅力的で、驚異的なファンもいるほどだ。
「一体、何が見えちゃうのよ。未来でも見えちゃうとか?まぁどうせ何も見えないのよね。ただオッドアイを、流行らせたいだけよ。変なの。……でもずっと見たかったものって、なんだろう……」
見たかった物を考えてみたけれど、全く思いつかない。自分の想像力のなさに落胆してしまう。
「……あ、そうか!見たかった物が何か知りたくて、付けたくなるのね」
活字嫌いなはずが、食い入るように雑誌を読んだ。
いつの間にか朝ごはんは、下げられていて、ママの姿もなかった。その後もスマホで検索し、着けてみたくなっている……。そんな自分に思わず笑った。
一足先にお店へ行ったママが、何回も大声で私を呼んでいる。
「理愛、理愛!早くお店に来てよ。聞こえてるの?返事して!また無視してるのね。理愛!」
そんなに呼ぶなら、二階に上がって来た方が早いに。下から大声で言われても、何を言っているのか分からない。私が同じ事をした時は、激怒したくせに。『聞こえないわよ!話しがあるなら、しっかり顔を見て話しなさい!』とヒステッリクになっていた。いつも自分には甘い。重い腰を上げ、階段の方に向かって大声で、返事をした。
「わかってるって」
「それと、朝ごはん全部、食べてきて」
え。まじ?私の話し聞いてた?食欲ないし、お腹痛いって話したばかりなのに。それに、早く来いと言ってるのに、ご飯を食べて来い?言ってることが無茶苦茶。
「新作のお惣菜があるの。自分が食べていないのに、おすすめなんて出来ないでしょ!」
「……はぁい」
低い声で返事をした。もう、本当に嫌だ。全部食べられるわけがない。冷蔵庫を開け、とりあえず、新作のお惣菜だけを食べていくことにした。
とても悔しいが、料理は天才的に上手だ。『美味しい』ではなく、『うまい』と表現したくなる。今回の新作もやっぱりうまい。
お店の名前は『アイディール』営業時間は十一時から十八時。メニューは、ポテトサラダ、わかめと豆腐のサラダ、切り干し大根、ナムルなど、脇役おかずをメインとしたお惣菜屋さんだ。お洒落な言い方をすればキッチンデリ。
仕事帰りの主婦層が多く、有難いことに繁盛している。毎日忙しいが、特に今日は、お店に早く来てと催促がうるさい。店舗件住居になっている為、階段を降りるだけでお店に行ける。
そういえば、人の事を騒々しいと言っていたけれど、よっぽどママの方が騒がしい。少しのことで、すぐパニックになる。昨日だって、一華と遊んでる時に電話をかけてきた。
スマホが振動したので、曲選びの手を止めた。
「まじかよ」
一華が熱唱中だったので、部屋を出た。しばらく画面を見つめ、通話ボタンを押すか迷った。ママからの着信はいい事がない。でも、無視をすると、後々面倒になる。
「なんで、すぐに電話に出ないのよ!ママが困ってるのに」
スマホを耳から離しても、聞こえる声量だ。つい眉間に皺を寄せてしまう。ママが困っているかなんて、私は知らない。
「一体どうしたの?」
なるべく声のトーンを上げて、嫌そうにしている事を、悟られない様にした。
「丸焦げなのよ、丸焦げ。もう無理よ⋯無理!どうしたらいいのよ」
「とりあえず落ち着いて。それでどうしたの?」
「ろーすとびーふがね、焦げちゃったの。だから、明日は営業出来ないかもしれない。予約もあるし、お休みなんてできないの。本当にどうしたらいいのよ。看板商品がないなんて、お客さんに申し訳ないわ」
あぁ……。またパニックが始まった。泥棒に入られたくらいの勢いで、大騒ぎしてるけど、ろーすとびーふが焦げただけらしい。
「だいぶ焦げちゃったの?中まで火が通っちゃった?」
「そうよ!そうじゃなければ、どうにかできるわよ。これじゃただの焼いた肉よ」
ろーすとびーふの調理法は、とても簡単だ。塩胡椒、スパイスなどを表面につける。中まで火を通さずに、表面を強火で焼く。保存袋に入れ、しっかりと口を閉める。炊飯器に入れ、浮いてこない様に重しをし、熱湯を釜いっぱいに注ぐ。炊飯ではなく、保温にして三十分放置する。
つまり、中まで火が通ってしまうと、赤身がなくなり、ママの言う通り、ただの焼けた牛肉になってしまう。
失敗した理由は、焼いてる途中で来客があり、焦がしてしまったらしい。看板商品を販売できないとなれば、パニックになるのも分からなくない。クリスマス当日や、イブではなくてよかった。
「火を消していかなかったの?」
「消したつもりだったの。そんな事聞かないで。火を消してないから、焦げたに決まってるでしょ」
自分が悪いくせに、そんな言い方しなくてもいいのに。強く言い返したいが我慢しよう。
「大丈夫だよ。『今日はろーすとびーふ、お休みです』って張り紙をすればいいと思う。売り切れちゃう日だってあるわけだし。それに、他にもたくさんお惣菜があるんだもの、営業に差し支えはないと思うよ」
「でも、私が失敗してしまった事、お客さんに、バレたりしないかしら?」
プライドが高い。気にするポイントがズレている。お客さんに申し訳ないと言いながら、自分の体裁が気になるらしい。バラしてやろうかと意地悪な気持ちになる。
「そんな事、言わなければ分からないよ。だから安心して」
「そうよね。そうよ。そうだわ。ありがとう!って事で、これから代わりになる物を、作らないといけないわね。それに、まだ仕込みがたくさんあるの。早く帰ってきて。今すぐ帰ってきて」
返事をする間もなく切れた通話。少し考えれば、小学生でも分かる事なのに、パニックになると大騒ぎをする。帰りたくない。頭を掻きむしった。
電話を切り、部屋に戻ると静かな空間で、一華は退屈そうにスマホをいじっていた。
「あ、ごめんね。待たせちゃって。歌っててくれてよかったのに」
「また、ママ?」
「あ、うん。ごめんね」
「理愛のママってさ、相変わらず電話してくるよね。よく学校にも電話をしてきて、放送で何度も、職員室に呼び出されたし。『桜木さん。お母様からお電話です。至急、職員室に来てください』実は、またかよ。って思ってた」
肩をすくめながら顔の前で、ごめんねのポーズをしている。
「うん……。もう毎回、恥ずかしくてたまらなかった。クラスの男子にも笑われるし。日に日に電話の回数も増えて、流石に先生に注意されたよ」
「しかも、急用じゃないんだよね?」
「そう。いつも大体同じ。『ママを一人にしないで!早く帰ってきて!』って、今にも泣きそうな声でさ。いや、泣いてた時もあった。緊急性がないのに、電話をかけてくる事が、まともじゃない。ママは頭がおかしいのよ。しかもね、家に帰ってから電話の事を話すと、超絶不機嫌になるし。まじやってらんない。先生に注意され、同級生には笑われる。一華に会えないのは、すごく寂しかったけど、学校に行かない方が平和なの」
「すぐに帰ってきてって、電話してくるんだもんね。それは行かなくなるよ。家に居れば、そんな思いする事ないからね」
「あぁ。情けない。嫌だって言いながらさ、結局いつも、ママの言いなりになってる。あれから私は、何も変わってない。いつもごめんね。時間作ってくれてるのに、途中でバイバイしちゃって」
「謝ってほしくて言ってるんじゃないの。理愛の事が心配なの。さっきの電話も、帰って来いって言われたんでしょ?娘が、誰と何をしているのか、興味がない。でも、自分が困ると、毎回そうじゃん。人の親を悪く言うのは、申し訳ないと思うけど、振り回しすぎだよ。理愛は、もっと自分の気持ちを優先しないと……。そのうち爆発する。自分の人生なんだし、いつか断ち切らないと。……ごめん。偉そうに……そうは言っても、親と簡単に縁が切れるわけないよね」
一華は小学生の頃から、支えてくれている唯一の友達。私の事を思って厳しい事も、遠慮なく言ってくれる。
「謝ったりしないで。私もそうしたいって、ずっと思ってるの。それに、ママのせいで一華にも迷惑をかけてる」
「やめて、そんな言い方。迷惑だなんて思ってない。自分の事をもっと、大事にしてほしいだけなの」
「だって、お泊まり会の時だってそうだった。一華と夜中まで話したり、一緒に寝られる事が楽しみだった。なのにママは、夜中、迎えに来た。『ママを一人にしないで』って。一華のママが宥めてくれたのに、ヒステリックに騒いで迷惑をかけた。一華のママにも申し訳ないって思ったよ。その時だけじゃない。遊んでる度に何度も呼び戻されて……」
思い出すだけで、怒りが蘇ってくる。騒いでるママの姿も情けなく、涙が出そうになり、声がつまる。
「そんな、小学生の頃の事、まだ言ってるの?二人とも気にしてないよ。まぁ、私も楽しみにしてたし、帰っちゃって、寂しかったけど。だからといって、理愛の事を嫌いだと思った事なんてないし、ずっと友達だよ。正直な気持ちを言えば、邪魔をされずに、遊びたいかなって思うけど……ってやば。何か彼氏みたいな事言って、私キモイかも」
一華の素直な気持ちが嬉しくて、思わずニヤついてしまった。一華も私の顔を見た。久しぶりに二人でお腹を抱えて笑った。一華と居る時だけが、本当の自分でいられる。ママに邪魔されたくない。壊されたくない。嫌われたくない。
「まだフリータイム残ってるけど、理愛ママのパニックが始まると大変だし、今日も帰ろうか」
「うん……本当にごめんね。必ず埋め合わせさせて」
「理愛は、いつも謝りすぎ!もう謝らないの」
明るい廊下に出て、一華の顔に違和感を感じた。
「あれ?一華、オッドアイにしてるの?」
「そう。何が見えるのか気になって、買ってみたの」
「何が見えた?」
「今のところ、何も変わった事ないかなぁ。でもね、ママが気味が悪いって言ってるの。もう笑っちゃう。言ってる事が、おばさんよね。若い子のファッションについていけないのよ」
「そうなの?でもすごく似合ってるよ」
「ほんと?美人さんに言われると嬉しいわ。理愛も、オッドアイにしてみたら?何か見えちゃうかもよ」
「一華の真似しちゃおうかな。……私も、気持ち悪いって言われるかな。言われたらめんどくさいんだけど、関心を持たれないのも、何か切なくて」
「そうなのかもしれないね。私のママは結構、過保護だからさ、干渉がすごくて、うるさいって思う時もあるよ」
「どっちも嫌ね。早く大人になって自由になりたい。じゃあ、帰るね。今日も本当にごめんね」
「だから、謝らないでって。いつでも待ってるから、また連絡して」
「ありがとう」
どんな時も優しい表情で安心させてくれる。一華の存在が、私自身を、保っていられている。
吐く息が、白くなるほど寒いはずなのに、走ったお陰で、寒さを感じなかった。急いで帰ってきたのに、お店の電気がついていない。外階段で二階に上がり、玄関を開けた。リビングの方からテレビの音が聞こえる。
「ママ?仕込みはどうしたの?」
「やめた」
「どうして?急いで帰ってきた意味、ないじゃん」
「じゃあ、一人でやればいいじゃない」
まじで意味わかんない。怒りを抑える為に、とりあえず深呼吸をした。
「ママが居てくれないと、色々わからないし、一人じゃ無理だよ」
「疲れたから、やめたの。早く帰ってきた意味がない。とか言うから、一人でやればって言ったのよ。間違った事言ってる?」
「言ってないよ。ごめんね。……おやすみなさい」
ママの情緒不安定が始まった。放っておけば、きっと大丈夫。私に害が及ばないはず。もう二度とあんな思いはしたくない。
小学生一年生の運動会の夜、忘れられない出来事が起こった。私にはパパがいない。小学生になるまで、自分自身に『パパ』がいないということを不思議に思ったことなどなかった。
あの日は、九月の終わりだというのに、何故か湿気が多く、じっとりと暑かった。熱中症で、倒れてしまった子が、何人かいたほどだ。赤白帽子のせいで頭が蒸れて痒い。帽子の中に、指を入れながら掻いていた。
「理愛ちゃんのパパは来ないの?」
痒いところに手が届き、ホッとしているところ突然、話しかけられて驚いた。
「え?理愛は、パパいないよ。ママしかいない」
「どうして?いないの?」
「わからないよ。ずっとママしかいないから。パパってママと何が違うの?」
「全然ちがうよ!パパってね、すごく大きくて、優しいんだよ。お仕事も頑張ってくれるし、ママと私を、怖いものから守ってくれるの」
その子の表情はまるで、王子様でも見るかのように、目をキラキラさせていた。私はそんな事を言われても、想像ができなかった。怖いものから守ってくれる?意味が理解できず、頭の中が混乱した。
「パパがいないなんて、理愛ちゃんのお家は、変なの」
そう言って、走り出した。いつのまにか自分の順番になり、周りはとっくにスタートしていた。慌てて走りだしだか、だいぶ距離が離れていた。順番など気にならない。そんな事より、自分の家が変だと言われたことに、心を占領されていた。
この日夜から、私はママの機嫌を気にする人生が始まった。それと同時に、目覚めの悪い朝を、迎えるようになった気がする。
夕飯を楽しく食べながら、運動会の話しをしていた。この日のメニューは確か、ハンバーグだった記憶がある。
「運動会頑張ったわね。少し目立ちすぎたけど、赤色のハイソックスを、履いて行ってよかったわ。理愛ちゃんがどこに居るのか、すぐに見つけることが出来たもの」
「ハイソックス?」
「長い靴下を履いていったでしょ?『ハイソックス』って名前なのよ」
「そうなんだ。長い靴下を履いてる子が居なかったから、少し恥ずかしかったけれど、ママがの顔を見たら、そんな気持ちどこかに飛んでいったよ」
「理愛ちゃんが、頑張ってる姿を見られて、嬉しかったわ。一生懸命走ってる姿がとても可愛くて、大きな声で、応援しちゃったもの」
ママの笑った顔が、すごく綺麗で好きだった。いつもこの笑顔を見たくて、頑張っていた自分を思い出す。
「一番ではなかったけれど、最後まで頑張って走った事に、感動してウルウルしちゃった」
「でもね、練習しているときは、いつも一番だったんだ。先生も褒めてくれてたんだよ。それなのに、今日は一番になれなかった」
「体調でも悪かったの?理愛ちゃんは足が速いでしょう。だから心配してたの」
「運動会が始まる前にね、クラスの子に聞かれた事が、気になって上手に走れなかった」
「何を聞かれたの?傷つくようなこと?」
頑張ったご褒美に、ケーキの準備をしているママの背中を、見ながら、言おうか迷っていた。一瞬の間を変に感じたママは、振り返った。
「……理、理愛にもパパっているの?」
ガシャン!手から滑り落たお皿が、大きな音を立てて割れた。ママの凍りついた表情と、私を見る目が一瞬で変わった事を、今でも鮮明に覚えている。
「いないわよ!理愛に、パパなんていない!あいつは捨てたのよ。私と、理愛を捨てたの!捨てた!捨てた!捨てたのよ!理愛もママを捨てるの?あいつの血が、半分入っているものね。そうよ。きっとママの事を、捨てるのよ!いつかママの事が、邪魔になって捨てるのよ」
「ママ?どうしたの?ママ?捨てるって何?理愛は、ママの事大好きだよ?」
「うるさい!うるさい!もう捨てられるなんて、耐えられない」
ケーキを切ろうと持っていた包丁を、握ったまま近づいてくる。恐怖で体が動かない。
「理愛ちゃん。死んで。ママが殺してあげる」
耳元でママが甘い声で囁いた。
「ママの事捨てるくらいなら……一緒に死んで。理愛ちゃんが先に死んでね」
「ママ、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!絶対に捨てたりしない。ママのそばから離れたりしない!捨てない。捨てない。捨てたりしない!だから許してママ。お願いママ!」
幼かった私は、大泣きしながら、必死にお願いする事しか出来なかった。普通のママに戻って欲しくて、理解していない言葉を言い続けた。過呼吸になり、そのまま気を失ってしまったらしい。その後ママは、どう落ち着いたのか記憶にない。とりあえず、殺されずに済んだ。ソファの上で目が覚め、ママは私の手を握ったまま、寝ていた。その顔には涙の跡が残っていた。
恐ろしい言葉を、甘い声で囁かれたことが蘇る。思い出すだけで冷や汗をかく。そして、『理愛ちゃん』とママに、呼ばれるのが怖い。しつこくしていると、また、包丁を持ち出してくるかもしれない。あの時は私が幼くて、怯える事しかできなっかた。今はもう違う。私がママに刃を向けてしまうかもしれない。だから、争いを起こさないようにと意識をしている。
お店の事も、放っておこうと思ったけれど、看板商品の欠品代わりに、何か作ってあるのか気になった。物音を立てず、暗い階段を静かに降りた。誰も居ないはずなのに、人の気配を感じる。レジのところに絶対誰かいる。
「ママ?」
小声で呼んでみた。返事はない。暗闇に目が慣れてきて、輪郭が見えてきた。やっぱりママだ。安堵して胸を撫で下ろした。
「……ごめんね。……理愛ちゃん」
その場から動けなくなった。お願い。もう、『理愛ちゃん』って呼ばないで。硬直した体を無理やり動かし、足音を立てず、その場を素早く立ち去った。ママは泣いていた。
昨日の夜は、全く眠れなかった。ママは何事もなかったように、早速、厨房から大きな声で言いつけをしてくる。
「ドアに『ろーすとびーふは、お休みです』の張り紙したの?」
「貼ったよ」
ありがとうくらい言ってくれてもいいのに。そろそろ開店時間になるし、機嫌を損ねたら、大変だ。言わないでおこう。
「こんにちは。あれ?今日は、絶品ろーすとびーふがお休みなのね。残念だわ」
大袈裟な身振りをしながらやって来たのは、常連の川島さんだ。思った事をはっきりと言う性格が、少々難ありだが、近所でも慕われているムードメーカー的な存在だ。川島さんのおかげで、張り紙の意味はなくなるだろう。
ネットワークが恐ろしいほど広く、いつも誰かと立ち話をしている。悪い噂から、おめでたい話しまで、幅広い内容の話しがあっという間に広がる。お店を経営している側からすると、かなりの要注意人物でもある。少しでも変な噂を立てられたりしたら、死活問題だ。実際、噂話しに尾ひれがつき、閉店に追い込まれたお店もあった。余談だが、川島さんの息子さんは、かなりのイケメンである。
「こんにちは。いらっしゃいませ。あ、そうなんです……ごめんなさい。どうやら、質のいいお肉がなかったみたいなんです。看板商品ですから、やっぱり素材が良いものを使いたいですし、妥協したくなかったので、思いっきてお休みにさせてもらいました。すみません」
本当の理由を言うと、ママが怒りそうなので、適当な作り話しをした。我ながら出来た娘だな、と自分に酔いそうだ。
「いいのよ。今日は、久しぶりに啓介が帰ってくるの。楽しみにしてたけれど、仕方ないわね。理愛ちゃんにも会いたがってたし、明日また、買いに来るわ」
「あ、ありがとうございます。お待ちしております」
川島さんが帰ろうとした所、裏からママが、お惣菜を持ち、出てきた。
「あら、川島さん!こんにちは。今日も寄って頂いて、ありがとうございます」
「こんにちは。京香さん。今日も、美味しそうなお惣菜がたくさんね。でも、ろーすとびーふがお休みで残念だったわ」
もう!なんてタイミングが悪いんだろう。その会話は、難なく終わったのに。
「そうなんです。ごめんなさい。お恥ずかしい話しなんですが、実は昨日私が……」
嫌な予感がした。咄嗟に大量の割り箸を床に落とした。話しを遮らなければ、余計な事を喋る。直感的にそう思った。
川島さんとママが驚いた顔をして私を見た。
「ご、ごめんなさい!手が滑っちゃって」
大成功。二人の会話は途切れた。
「ちょっと!何してるのよ。鈍臭いわね。早く拾いなさいよ。全く困った子」
川島さんに聞こえないように、小声で言ってくる。自分が故意にしたことだが、やはり言われると腹が立つ。
「理愛ちゃん大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です。驚かせてしまって、すみませんでした」
川島さんの方を向いて頭を下げた。
「そろそろ、啓介を駅までお迎えにいかないと。また明日、寄らせてもらうわね」
「お待ちしています!」
ママが大きな声で、川島さんを見送った。そして、鋭い目を私に向けている。
「どういうつもり?お箸をわざとお落としたでしょ」
「そうだよ。川島さんとの会話を遮る為に落とした」
「よりによって川島さんの前で、何でそんなことをしたのよ」
「ママが、ろーすとびーふは自分の失敗で、お休みになってしまった事を、話そうとしてたから」
眉間に皺を寄せ、私の話を聞いている表情を見ると、わかっていない。やっぱり遮って良かったと、心から思う。
「はい?何がいけないのよ。本当の事じゃないの」
「川島さんにね、『ろーすとびーふがお休みで残念だわ』と言われたの。それで、何となく理由を言わなくちゃと思って、適当に作り話をしたの。本当の理由を、お客さんに知られたくないって、言っていたから」
「そんな理由でわざわざ、作り話までして、嘘をついたのね。嫌な子ね。嘘つきなのね」
「ひどい!そんな言い方しないでよ!ママの気持ちを考えて、した事なのに。それに、川島さんが変な風に話したりしたら、お店の評判が悪くなるかもしれないでしょ。私なりに考えたの!」
感情を抑えることが出来なかった。しまった……。またやってしまった。何回繰り返しているんだろう。
「あそう。ママが悪いのよね。そうよ。ママが悪い……」
このままだとまた始まる……謝らなきゃ……。早く謝らないと。
お店の手伝いを、始めたばかりの頃、言い争いをした。原因は、看板メニューの『ろーすとびーふ』が、平仮名表記になっている事だった。
ママは鼻歌を歌いながら、出来上がったお惣菜を、デリケースの中に並べていた。
「前から気になってたんだけどね、どうして『ろーすとびーふ』ってカタカナじゃないの?」
「小さな子供でも読めるようによ」
「そうなんだ。なんか平仮名だと読みにくいし、変だよ」
「変ってなによ。カタカナじゃないとダメだなんて、誰が決めたのよ」
顔色が変わり、調理器具の扱い方も荒々しくなってきた。いつもならこの辺で引き下がるが、この時は何故か、負けたくなかった。
「決めたとかじゃなくて、もしかしたら、お客さんも不思議に思って聞いてくるかもしれないでしょ。その時に、答えられた方がいいかなって思って」
「別に、どっちでも味は変わらないんだから、いいでしょ。いちいちケチつけないで。何にも分かってないくせに」
だめだ。やっぱり機嫌が悪くなった。 小さい子供でも、読める様にしている事が、理由ならば『変でもいいのよ。小さな子供のためなんだから』でいいのに、わざわざ引っかかる言い方をしてくる。
「どうしてママは、いつもそんな言い方をするの?それに、良い悪いの話なんてしてない。不思議に思った事を、聞いているだけ。しっかりとした理由があるなら、私に変だって言われても、聞き流せばいいのに。大人げないよ」
「そうね。ママが悪いのよね。大人げないママが悪い。全部悪いのはママなの」
「そんなこと言ってない」
「言ってるわよ!ママの事、責めてるじゃない」
「どうしてそんな話しになるの。気になる事を、質問したらいけないの?本当にいつも一方的。聞いた私が悪かった。もう何も聞かない」
デリケースを勢いよく開け、お惣菜を床に落とし始めた。
「いやいや、何してるの?ちょっと、ママ!」
「全部捨てるのよ。捨てられた人間が作った物なんて、誰も食べたくないわよ。全部、全部ママが悪いのよ。いつも一方的で、子供の話しも聞けない最低な人間なのよ」
「もうやめて。美味しいお惣菜を、楽しみにしてくれてる人がたくさんいるよ」
穏やかな声で、背中をさすりながら力ずくで止めた。精神的に問題があるとしか思えない。 私のパパである人に捨てられた事が、ママの心をずっと蝕んでいる。
「ごめんね。ママの言う通り、カタカナでも平仮名であろうと、味は変わらないんだから、気にするような事じゃないよね」
この時もそうだった。結局、謝ってしまう。おかしくなるママを見たくないのか、防衛本能なのか……。とにかく謝れ!と、脳が命令する。些細なことでパニックになり、私を巻き込んでいく。振り回される生活から、抜け出したい。自由になりたい。そうだ、川島さんの事も謝らないと。
「ママ、生意気な事言って、作り話までしてしまってごめんね」
聞いているのか、聞いていないのか……。もう、どちらでもよかった。顔もみたくない。私の事は無関心で、愛していない。自分が困った時だけ必要としてくる。きっと私が居なくなったら、大パニックになるだろう。しかしそれは、私の事が心配だからではなく、自分が捨てられた事に、耐えらないから。一華に会いたい。そして計画を立てるんだ。もう限界だ。
十二月下旬。クリスマスが過ぎ、学生達は冬休みに入り、各家庭では新年の準備をしている頃だ。
「理愛、お待たせ。思ったより荷物が多くなっちゃった。一体、何泊分よって感じよね。お!お揃いにしたのね。二人でオッドアイじゃん。やっぱり美人は違うねぇ。超絶かわいい」
二週間ほど前に旅行の計画をした。一華のママに協力してもらい、ホテルの予約もスムーズにできた。年末年始の為、少し割高になってしまったが、こんな時期を選んだのだから仕方ない。
「超絶って……。恥ずかしいからやめて。そんな事より、昨日は全く眠れなかった。小学校の遠足を思い出しちゃったよ。楽しみすぎて頭が冴えちゃって」
「笑える。私も同じ。服選びに、すごく時間かかったし。とりあえず、ホテルはママが予約してくれた。帰省する人も多い時期なのに、空いていてよかった」
「まじ、感謝。ありがとう。友達同士で旅行なんて、一気に大人になったみたいだね」
この歳になって一度も、外泊をした事がない。言うまでもなく電話で呼び戻されるからだ。私自身にも、原因があるのは分かっている。放って置けばいいのに、嫌と思いながらも帰宅するのが悪い。相手は大人なのだから私がいなくても困る事はないはず……。
そう……。『困ることはない!』と断言できないのが一番の原因だ。それに最近思う。依存しているのは、私の方なのかもしれないと。このままでは、お互いに良いことはない。親離れ、子離れをするべきだ。たかが外泊で大袈裟すぎるが……。
「理愛ママに、旅行のこと言ってきた?」
「一応、言ってきたよ。『あ、そう』しか言われなくて驚いた。嫌味言われるかなって思ったんだけどね。まぁ、機嫌は良くなさそうだったけど、いつも不機嫌だから、よく分かんない。そう言えば、オッドアイにしてもやっぱり、何も言ってこなかったよ。気づいてすらいないのかもしれないけどね。所詮、カラコンだし、口と鼻にピアスを開けるより、インパクトも弱いし」
つい、暗い表情になってしまった。旅行に行くのだから、もっと楽しまないと。私は心に誓った。何があっても絶対電話に出ない。
記念すべき初旅行は、遊園地とアウトレットが併設されているテーマパークだ。近隣のホテルを予約した為、チェックインをし、荷物を預ける事ができる。 電車で最寄りの駅で降り、シャトルバスを使いホテルに到着した。
「あっという間についた気がする」
「一華さんは、途中で寝ていましたからね」
目を合わせ笑った。
「それは、どうすみませんでした。昨日、楽しみすぎて眠れなかったって言ったでしょ。でも、当日寝ちゃってるなんて、アホよね」
「さっきまで普通に話してたのに、秒で寝るんだもん。思わず笑っちゃったけどね。睡眠も取った事だし、今日はとことん遊ぼう」
「そうしようぜ!ところでさ、寒くない?」
「そりゃ寒いでしょ。だって、スケートするんだよ?寒くなかったら氷が、溶けますね」
「私、忘れてたんだけど、寒いの嫌いだったわ」
「嘘でしょ?これ以上笑わせないで。忘れちゃうことじゃないでしょ!笑いすぎてお腹痛い。滑ってればそのうち、体が温まるよ」
「そうね。とりあえず、荷物預けてこよう」
スマホが振動する度に、ドキッとするのが嫌で、全ての通知をオフにした。
-ボクのキモチ-②
どんな僕でも愛しるって言ったのに
嘘つきだね パパとママは
歪んだ形はもう元に戻らないんだ
だから壊れちゃう前に取っちゃったよ
ビックリしたよね
痛かったよね
-事件のコト-
殺人の通報を受け、急いで現場に向かった。十月下旬だというのに、昼間は太陽の日差しが強く汗をかく。新人の朝比奈は、先に到着していた。
「哲さん。ご苦労さまです」
「おう。ご苦労さん」
「被害者は?」
「この家に住む両親と思われます。犯人は抵抗する様子もなく、既に逮捕され署に連行されました。あれ?哲さん暑いんですか?汗かいてますよ」
「そうなんだよ、ジジイになると体温調節が下手くそになるらしい。老化には逆らえん。ところで、また、親殺しなのか?」
「はい。そのようです」
「これで何件目になる?と言っても、実際この事件が、今までの事件と関連性が有るのか分からないがな……」
「全国合わせて六件目です」
「たった三ヶ月の間に六件。そろそろマスコミが騒ぎそうだな。それで、現場は?」
「二階にある両親の寝室です。先ほど、鑑識の方から入室許可を頂きました」
「わかった。ありがとう」
「ご苦労様です」
鑑識の人達に挨拶をし、部屋に入った。まだ生々しい血の匂いが部屋に充満している。セミダブルのベットが二つあり、個々に寝ていたようだ。
父親の遺体は、心臓を何度も刺され、頸動脈も切られている。ベッドの上で寝ている所を襲われたらしく、防御層はない。母親のベッドは、掛け布団が乱れている。異変に気づき、逃げようとした所を襲われたようだ。
ドアまで後、数歩の所で息絶えていた。目立った外傷はなく、索条痕がある為、絞殺により殺害されたと思われる。
二人を殺害した後、執拗に顔を傷つけ、目玉もえぐりとられている。強い殺意を感じるが、動機は未だ不明だ。
新堂家は、一戸建てで車を二台所有。一台は高級車。生活に不自由しているようには見えない。分類されるとしたら、裕福な層だ。
殺害された父親は新堂拓海。大手不動産会社に勤務。母親は、美穂。専業主婦。長男、正信。自称アーティスト。両親を殺害した次男は、私学の高校に通う秀平である。傍から見れば、恵まれた環境であり、親殺しとは無縁のように感じるが、問題を抱えている家庭は珍しくない。
その理由も様々である。両親の不仲、過保護、過度な期待のプレッシャー、無関心など目に見えない物だからこそ厄介である。
「事情聴取の様子は聞いているか?」
「はい。しかし、何を質問しても、同じことしか言わない様です」
「何と言ってるんだ?」
「はい。『見たいものが見えた』と言ってます。その答えしか返ってこないそうです。表情にも変化がないので、AIと会話しているようで、気が変になりそうだ。と言っていました」
「そうか。参ったなぁ。確か秀平くんは、高校一年生だったな?」
「はい。歳は十六です」
「難しい年頃だ。その年代の子は、何に怒りを感じるのか、分からないからな。それに驚くほど頑固だったりする。大人を相手にするより、大変なことも珍しくない」
犯人は逮捕出来ているが、動機を語らない。一筋縄では解明出来そうもない。この先の事を考えると、眉間に皺がよってしまう。
刑事になって二十年経つが、頻繁に親殺しが起きるのは、今までに経験したことがない。昔から親殺し、子殺しの事件は何件も発生しているが、この六件は異常だ。
なぜなら全ての事件、顔を執拗に攻撃しているからだ。ただの偶然とは思えない。なぜ、顔に拘る必要があるのか。
「朝比奈、自分の親の顔をどう思う?」
顔を刻まれた遺体を見ながら質問した。
「なんですか突然。どう思うかと聞かれましても、生まれた時から見てる顔ですし、特に感じることはないです……」
「例えば、『自分の顔は母親に似て、鼻が変だな。父親の目に似れば、もっといい顔だったのに』そんな風に思った事ないか?」
「いやぁ、多少はありますけど、そんな事を思ったのは、思春期の時くらいですかね。それに僕は男ですし、あまり外見に執着がないですかね。今の若い子達は、違うのかもしれませんけど。男の子でも化粧をする時代ですから」
「そうなのか。それは、驚きだ。自分の時代で、物事を考えてたらいけないな。だとすると、俺の推理も外してはいないかもしれない。それに思春期となると余計にだ」
この親殺し事件、全て犯人は、実子であり未成年である。
「自分の顔が気に入らないのは、親の顔のせいだ。そんな事で、親を殺してしまうだろうか。動機にしては、弱すぎる様に感じる。しかし、多感な時期だ。今大人になって、振り返ってみると、何ともくだらない事に、怒りを感じていたかと思うんだ。そうなると、弱い動機とも思えなくなってくる。あぁ、ダメだ。主観的になってはいけない」
思春期というものは、実に不思議なものである。何にイラついているのか自分でも分からず、心と体を無理やり、引きちぎらたかのようにバランスを保つのが難しい。
「それに全ての事件、犯人は十五歳から十八歳の実子なんだ。年齢幅が狭い少ないことに、何の関係性もないとは思えないんだ」
「そうですね。当たり前ですけど、親子は何歳になっても、親と子に変わりはないですから。例え親を殺した子供が三十代でも、親殺しに変わりはないですよね」
「後、共通点が多い。他の犯人達も、秀平君と同じ事を言っている。それに顔を必要以上に傷つけているんだ」
「同じ事とは『見たいものが見えた』ですか?」
「そうだ。何が見えたって言うんだ」
「親の顔に、何か憑いているように、見えたとか?見えないはずのものが見えてしまった?」
「いや、全くわからん。そんなオカルト的な事があるか?そもそも、見えないものが分からん」
「しかし、エグい事しますよね。仮にすごく親のことを、憎んでたとしても、目をくり抜くなんてとても出来ませんよ。精神的異常を感じます」
新堂家の事件が発覚したのは、長男の正信が通報した。朝方帰宅し、いつもキッチンに居るはずの母親が居なかった為、寝室に行ったところ遺体を発見した。
その時、秀平は兄の存在に気づく事なく、両親の目玉を大事そうに持っていたと言う。その表情はまるで、天使のように穏やかだったそうだ。兄の正信は、両親の死を受け入れる事が出来ずに、精神を病んでいる。
「遺族に話しを聞きたいところだが、とてもそんな状況では、なさそうだな。」
「はい。残念ながら、ショックが大きいようで、会話が出来る状況ではありません」
惨殺死体を、発見しただけでも気が狂いそうなのに、弟の異常な行動を目の当たりにし、精神の限界を超えたのだ。
この一連の事件には、何か大きな共通点がある。犯人たちが見えてしっまたものは、一体なんなのか。それを解明しない限り親殺しの連鎖は終わらないだろう。
「秀平くんの部屋は捜査済みなのか?」
「いえ、まだです。こちらも先ほど、鑑識の方達から、入室許可をいだだきましたので、入って頂いて大丈夫です」
「おう。ありがとう。何か動機に結びつく手がかりが、見つかるといいんだが」
両親の部屋を出て、右側へ数メートル歩くと、秀平君の部屋がある。静かにドアを開けると、爽やかな水色のカーテンが、隙間なく閉められている。本棚、ベッド、勉強机、無駄な物が一切なく整理整頓されている。本棚には参考書、小説が多く陳列されており、秀才さが窺える。
部屋の汚さは、心の精神状態を表すと言われてるが、この部屋を見る限り、秀平君の心が乱れていた様には、感じられない。いや、逆に神経質な性格が手に取るかのように分かる。
「余計に分からなくなった。まるで、興味があるものは、勉強以外にないように感じる。無駄な物が一切ない。これじゃあ、調べる物もないな」
一般論かもしれなが、この歳の子達は、何かしら好きな物をがあるのではないかと思う。いわゆる『推し』というやつだ。全くない子もいるのかもしれないが、無機質な部屋に違和感しか感じない。
朝比奈も不思議そうに部屋を見回している。
「僕の高校生時代なんて、酷い部屋でしたよ。よく母親に叱られてました。『ゴミをゴミ箱に捨てられない。そんな事も出来ない人間は、何も出来ない』その当時は、細かいことを言う母が鬱陶しかったですが、今はその通りだなと思います」
「……確かにな。俺はこの歳になっても、未だに酷いあり様だがな。食べた物を片付けられない、脱いだ服だってそのままだ。自分のことすら、何も管理出来ない人間になっちまってる。だから俺は時々思うんだよ。そんなやつが、刑事なんてやっていていいのか、何も出来ない奴に何が分かるんだって。結局、俺はダメな人間なんだよ。そんな自分が嫌で仕方ないんだ!」
頭を掻きむしり大声を上げ、乱暴な態度をする。朝比奈の表情は幽霊でも見たかのように、目を見開き驚いている。
朝比奈は、なんでもまともに受け止めてしまう所がある。長所でもあるが、刑事としてはもう少し柔軟な思考を、もった方がよさそうだ。
「なんてな。驚いたか?」
「あ、いや、その、はい。すみません。突然どうしてしまったのかと思いまして……」
「冗談だよ。冗談。すまんな。ちょっとからかってみたんだ。朝比奈は真面目で素直だ。人として素晴らしい事だと思う。しかし、刑事として必要な事は、人を疑う事だ。何とも悲しいが、意地悪で捻くれた考えを、持たないといかんな。そうでないと犯人に、心をもってかれてしまう。子供であろうと、人を殺している。しかも、自分の親をだ。常識では考えらない行動を、いつ起こしても不思議ではない。『子供』という言葉に惑わされてはいけない。殺意を持ち、自分の意思で殺している殺人者なのだ」
「はい。すみません。哲さんが突然、おかしな行動をした時、気が動転してしまい、何も出来ませでした。刑事である人が、そんな行動をするなんて微塵も思っていなかったんです。ありがとうございます。哲さんのお言葉、肝に銘じておきます。自分だけの常識で、物事を考えるべきではないですね」
朝比奈は俺に頭を下げ、真剣に受け止めてくれた。
「ありがとう。こんなじじいの話を真剣に聞いてくれて」
「そんな言い方しないでください。直々にご指導いただき、光栄です」
刑事とは誰であろうと、人を疑わなければならない職業だ。なんとも矛盾した考えではあるが、朝比奈が持っている素直さも、大事にしてほしいと思う。
「秀平くんの部屋は何もなさそうだな。何かがひっかかるんだが勘でしかない」
「哲さん、正信さんの部屋も、捜査してみましょう」
「そうしよう。自称アーティストとか言ってたな。うーん……自称かぁ……」
「哲さん?どうかしました?」
「いや、なんでもない」
四メートル程廊下まっすぐを歩くと、正信の部屋だ。その途中に両親の寝室がある。
両親の遺体が運び出された。これから警察署で検死が行われ、詳しい死因が調べられるだろう。
部屋に近づいていくにつれて匂いが強くなってくる。ドアを開けた途端、思わず息を止めてしまった。
「何だこの匂いは」
「目まで痛くなってきそうですね。とりあえず、窓を開けましょう」
「目眩がしてきた」
「ダメです。冊子の汚れが酷くて、開きません。窓もベトベトです」
朝比奈は両指を広げたまま、嫌そうな顔で突っ立っている。
「もう、早く手を洗いたいですよ。病気になっちゃいそうですし、虫も湧いてそうです」
「何年間窓を、開けていなかったのだろうな。こんな部屋にいたら頭がおかしくなりそうだ。兄の方がよっぽど、乱れた心の持ち主のように感じるがな」
正信の部屋は、まるでゴミ屋敷だった。使ったお皿を何枚も灰皿にし、食べかけのスナック菓子、カビの生えたペットボトルなどが、部屋全体を占めていた。物が溢れていて、一体何があるのかわからない。正信が犯人であったら、この部屋全部を、捜査しなくてはならなかった。刑事として思ってはいけない事だが、正信が犯人でなくてよっかったと思ってしまう。
「哲さん!もう限界です!手を洗ってきてもよろしいですか?気持ち悪くてたまりません」
「お、おう……」
階段をすごい勢いで下りっていった。あの凄惨な現場では、動揺する事なく仕事をこなしていたのに、ゴミ屋敷はダメなのか……。
「捜査中にすみませんでした。虫が苦手でして、湧いているかもしれないと思ったら、我慢できませんでした」
「今回は虫に遭遇しなかったが、遺体に蛆が湧いている現場だってあるぞ」
「や、やめてくださいよ。考えただけで鳥肌が立ちます。あ、すみません。そんな事を言っていたら、刑事なんて務まらないですよね。僕には試練がまだまだたくさんあります」
「別に謝ることではない。人には苦手なものがある。少しずつ克服していけばいい」
言葉を発せずに、敬礼をした朝比奈を見て思わず笑った。
「一応、正信が使用していたパソコンは押収しよう。しかし、ここまで部屋が汚くなるまで、親は、何も言わなかったのか」
「言わなかったのでなく、言えなかったのかもしれませんね。先ほど洗面所を、お借りした時、ちょうど拳ほどの大きさの穴が、壁にいくつかありました。兄の仕業であるのかは、定かではないのですが、日常的に誰かが家庭内で、暴れていたのではないかと」
「それは父親かもしれないしな。今となっては、本人に確認することは不可能だな。せめて、正信に話が聞ければいいのだがな」
結局、新堂家の捜査で、動機に繋がりそうなものは、見つける事が出来なかった。
「そろそろ署に戻るとしよう」
「はい。僕が運転します」
「本当か?それは嬉しい。ありがとう。俺の大切な自転車を傷つけるなよ!」
「え?え?哲さん、また自転車ですか?だから汗かいてたんですね。老化が原因じゃ無いですよ」
「そうかもしれん。朝比奈、自転車を馬鹿にしてるだろ?自慢のママチャリだぞ!」
「い、いえ、馬鹿にしているだなんて、とんでもないです!」
朝比奈の慌てっぷりが、気を張っていた心を、ほぐしてくれた。素直で面白いやつだ。
「冗談だよ。俺の大事なママチャリだ。俺が乗って帰るさ」
そう言いながら玄関のドアを開け、外に出た。新堂家の方を見つめている人がいる。近所の人なのだろうか。
「朝比奈、俺は少し遅くなりそうだ。また後で!」
「自転車だから遅いのはわかってますよ」
確かにそうなのだが、そういう意味で言ったのではなかった。立っている人間に気づかなかったのか。
「汲み取ってくれよ、朝比奈くん。まだまだ一端の刑事になるには、長い道のりが待っていそうだな」心の中でひとりごちた。
-ボクのキモチ-③
キモチワルイ物を見るような目で見るからだよ。
心が痛かったなぁ。
僕は悪魔の子なんかじゃないよ。
みんなと少し違うだけだなのに。
僕だってこんなことしたくなかった。
-シュウヘイクンノコト-
すごく穏やかな気持ちだ。パパとママが最後に見たのは、僕の笑顔。幸せだね。あ、最後ではなかった。これからは、僕しか見えないんだった。色々な僕をずっとそばで見ていてね……ラジオ体操の曲が聞こえるなぁ。あぁ……この時間に、出来損ないのお兄ちゃんは、帰ってくるんだった。階段を上りながら、大きな声でうるさい。そして勢いよくドアを開けた。ガサツなんだよ。お兄ちゃんは。
「母さん、母さん?もうとっくに八時を過ぎ……」
一気に部屋の空気が外に出ていく。熱気がこもっていて、暑かった。なんて情けない顔を、してやがる。腰まで抜かしやがって。笑ってしまう。ざまぁみろ。散々僕を、馬鹿にしやがって。僕はお兄ちゃんに、勝ったんだ。僕だけの物になったのさ。
「秀平!秀平!大丈夫か?誰がこんな酷い事を、したんだよ!犯人を見たか?」
まさか僕が殺したとは、思ってないみたいだ。そうだよね。僕は成績優秀で、口答えもしないいい子だからね。二人もまさか、僕に殺されてしまうなんて、思ってもいなかっただろうな。もし、お兄ちゃんに殺されるとなったら、こんなに、驚かなかったかもしれないね。お兄ちゃんは、自分の思い通りにならないと『殺すぞ』と言ってパパとママを困らせてばかりいたから。
二十歳を過ぎているに、職にも就かず、日払いのバイトを転々としている。自称アーティストとして、朝方まで路上ライブをしている。夢を追いかけるのは素敵だけれど、親に甘えすぎだ。お兄ちゃんの存在は邪魔だ。
僕は毎朝、目覚まし時計が鳴る五分前に、目を覚ます。完璧な腹時計だ。七時に目覚めし時計が、鳴るのと同時に止める。
そして、カーテンを右から、きっちりと開けるんだ。着替える前に顔を洗い、歯磨きを済ませる。
ちょうどこの頃ママが、二階の部屋から降りてくる。長い髪の毛を縛りながら、キッチンに向かう途中で僕に話しかけてくれるんだ。
「秀ちゃん、おはよう。毎日決まった時間に起きて、エラいわね。今日は寒くて、中々お布団から、出られなかったわ」
両腕を擦り、寒そうな表情を大袈裟にしている。
「おはよう。そんなに寒かった?まだ十月半ばだよ。確かに朝は、風が少し冷たく感じるけど、昼間は日差しが強いから、少し暑い時もあるよ」
ママは相当な寒がりだ。細い体のせいでもあるかもしれないが、暑すぎる夏でさえ、長袖を着ている。体温調節が、上手く機能してないのではないかと心配になる程だ。
「今からこんなに寒がっていたら、冬を越えられる自信がないわ。人間だって動物なんだもの、冬眠したらいいのにね。私だけ冬眠しちゃおうかしら」
「またそんな事言って、毎年同じ事言ってるね。大丈夫だよ。今年も春を迎えられたじゃん。それに、ママが冬眠しちゃったら困るな」
毎朝、他愛もない会話をするのが幸せな時間だ。
「さて、朝ご飯の支度をしなくちゃ。今日のお味噌汁は、秀ちゃんが好きなジャガイモにしようかしら」
ママはすごく僕の事を、愛してくれている。そしていつも褒めてくれるんだ。
心地よい気持ちになっているのも束の間、そろそろ帰ってくる。だいたい近くの工場で、就業前のラジオ体操が始まった頃に、帰ってくる。駅前で路上ライブをしているのだが、朝の通勤時間くらいに引き上げてくるらしい。
「あー肌寒い。母さん!母さん!」
ただいまも言わずに、大きな声でママを呼ぶ。帰ってきたらまず、手ぐらい洗って欲しい。キッチンで朝ご飯の支度をしているママに、乱暴な言葉使いをして自分の用事を言いつけている。
「だから、この汚れをきれいにしとけって言ってるんだよ!何回同じことを言わせるんだ。もし、汚れが落ちなかったら、新品を買ってもらうからな。ちなみにプレミア物だぜ」
「わかったわ。出来るだけきれいになるように、頑張ってみる」
「頑張るんじゃなくて、きれいにしろ」
捨て台詞を吐き、洗面所に向かってくる。早く二階に行こう。
「あら、我が家の天才くん、そこにいたのかよ。人の話を立ち聴きなんかしやがって、いやらしいやつだな。そんな奴は、ぶん殴ってやる!」
そう言いながら壁を何回も殴ってくる。僕は反抗することなく、何も言わずに急いで階段を駆け上った。
「本当つまんねえ弟だぜ。あんな奴、まじでいらねえ」
滑り込むようにして部屋に入った。息が上がって苦しい。ママのことを思うと、さらに胸が苦しくなる。笑顔で平気な顔をしているけれど、心の中はきっとボロボロなはずだ。でも、大丈夫だよ。僕がそばにいるからね。ママは言ってくれたんだ。『秀ちゃんを一番愛しているの。どんな秀ちゃんになっても、愛しているのよ』って。お兄ちゃんなんかより、僕のことを愛してくれているんだから。
着替えを済ませ、キッチンに向かった。この日もパパは、平然としていた。絶対にお兄ちゃんの声が、聞こえていたはずなのに。
「パパ、おはよう」
「おはよう。秀平。学校の成績の方はどうだ?」
「特に変わりはないよ」
「秀ちゃんは、何の心配もいらないわよね。自発的にお勉強もしているし、困るようなことは、一つもないのよ」
「そうか。たまには息抜きも必要だぞ」
パパは、手でご馳走様のポーズをし、鞄を持ち席を立った。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ママと僕の声に見送られ、仕事へ出かけた。
「大丈夫?」
「何のこと?」
「今朝、またお兄ちゃんに強く言われてたから……」
「その事ね。大丈夫に決まってるでしょ。あんなの、へっちゃらよ。秀ちゃんは優しいわね。あっ!そんなことより、ジャガイモのお味噌汁おいしい?」
「もちろん、とっても美味しいよ。ありがとう」
ママの嬉しそうな表情が見られて、安心した。
「僕もそろそろ学校に、行ってくるね」
「もうそんな時間なのね。気をつけて行ってらっしゃい」
玄関のドアを開けようとした時、階段を荒々しく降りてくる足音が聞こえた。またママを困らせるつもりだ。あんな奴、死んでしまえばいいのに。
自転車を漕いでる時も、お兄ちゃんの事が頭から離れなかったが、名前を大声で呼ばれ我に返った。
「おーい!秀平!やっと気づいたか。何回も大きい声で呼んでるのに、全然気づかないんだもんな。信号が青なのに、ボーッとして大丈夫かよ?まあ、信号に気づかなっかったお陰で、追いついたから俺はよかったけどな」
「ごめんよ。颯太、おはよう」
「本当に大丈夫かよ。顔色悪いぞ?熱でもあるのか?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
牧村颯太は、高校のクラスメイトだ。少しお節介な所があるが、明るくて一緒にいると楽しい。流行りにも敏感で、色々な情報を教えてくれる。颯太のお陰で、炎上しているユーチューバー、トレンド入りの話題などを、知ることができる。自分で動画を見たりしなくとも、情報が得られることにとても感謝している。なぜなら、勉強時間が減らなくて済むからだ。それに他人のしていることに、それほど興味もない。しかし、何も知らないというのも、それはそれで恥ずかしい。なので、颯太の情報を聞くことは、とても大切なことである。颯太も話を聞いてもらいたいのだから、win-winの関係だ。
「何で、真っ直ぐ止めないんだよ。この、曲がった一台のせいで、決められた台数が入らなくなるんだよ」
学校の駐輪場は狭いため、一台でも曲がっていると、後から来た人が大変な思いをする。
「自分のことしか考えられない奴が、多すぎるんだよ。腹がたつ」
「おいおい、今日の秀平は、やっぱりおかしいぞ。何をそんなにイラついてるんだよ」
「ごめん、ごめん。大丈夫だよ。少し寝不足のせいかも」
適当に言い訳をしたが、お兄ちゃんのことで心が、乱されているのだ。
二人とも自転車を止めて、教室に向かって行く。そろそろ颯太が話し始める。今日の話題は、何だろう。
「オッドアイって知ってるか?」
「知ってるよ。瞳の色が片方ずつ違うんでしょ?猫に多いよね。ちなみに、日本語では『虹彩異色症』と言うんだよ。聞きなれない言葉だよね」
「さすが!秀平くん。話が早いぜ。日本語バージョンも知ってる事には、驚いたけど」
「で、そのオッドアイがどうしたの?」
「じゃぁ『ヒビキ』ってモデルは知ってるか?」
「知らない」
「だよな。俺の情報で、流行りについていけてるんだもんなぁ。秀平くんは」
意地悪な笑顔でからかってくる。まぁ事実なので仕方がない。
「そうだよ。頼りにしてます」
「で、その『ヒビキ』ってモデルがさ、片方だけカラコンをつけてるわけよ。それが今、すごく流行ってるらしいんだ」
「意図的にオッドアイにしているわけだね。僕には、その魅力が分からないな」
「まあ、最後まで聞いてくれよ。その流行ってる理由が、オカルト的なんだよ」
「オカルト的?つまり、どういうことなんだよ」
「オッドアイにすると、『見えないもの』が見えるらしんだ」
颯太は、怪談話しでもするようなトーンで、話している。僕が、眉間に皺を寄せたまま聞いている顔を見ると、呆れたような表情を向けてくる。悪い癖が出てしまっている。
「あーごめん、ごめん。真面目に聞きすぎた。僕の悪い癖だ。もっと気楽に楽しまないと」
「考えすぎ。まぁとにかく、見えないものを見てみたい心理と、人気モデルが合わさって、かなり流行っているらしい」
教室に入ると、何人かのクラスメイトが、颯太に駆け寄ってくる。僕の存在は、颯太のくっつき虫のような扱いだ。ついでに挨拶をされている。
やはりクラスでもオッドアイの話しになり、よく観察してみると二、三人オッドアイにしている子もいた。
一人のクラスメイトが、『ヒビキ』のインタビュー雑誌を持ってきた。『ヒビキ』を見た瞬間、僕は射をつかれたように、思考が停止した。神秘的で、妖艶な眼差しが、たまらなく魅力的だ。一瞬にして虜になってしまった。十六年間生きてきて、感じたことのない感情に自分自身でも驚きを、隠せなかった。『ヒビキ』が見えたものを僕もみてみたい。心の底からそう思った。
「ねえ、颯太、カラコンって校則的に、問題ないのかな?」
「コンタクト自体は、違反じゃないよな。視力が悪ければ、つけなければ見えないし。でも、カラコンとなると微妙かもな。まぁ、実際に、つけてる奴もいるから、大丈夫そうだけど。先生たちも生徒の顔を、そんなじっくりと見つめることもないし、気づいてないのかもな。ってか真面目だな。……もしかして秀平、興味あるのかよ」
「まさか、そんなわけないだろ」
「いや、嘘だね。俺にはわかる。興味があるなんてもんじゃないな。秀平は、一瞬で恋に落ちてしまったんだな。この『ヒビキ』に」
颯太は勘が鋭い。隠すのは無理だと思った。
「うーん……。恋に落ちたなんて、大袈裟だけどさ、今までに感じたことない気持ちになった」
「ほら、やっぱりな!俺様をなめるなよ。俺って結構、秀平のこと分かってるんだぜ」
真っ直ぐな気持ちを言われて、照れ臭くなった。
「秀平くん、顔が赤いですよ」
「やめろよ、ふざけすぎだって!」
正直、颯太の気持ちが嬉しかった。誰にも言った事がない、家のことを、話してみたくなった。
学校帰りにも『ヒビキ』の話しをした。翔太は興味がないらしく、上の空だったが、僕は楽しくて仕方なっかた。
「じゃ、また明日な。秀平、あまり夢中になりすぎるなよ」
「そんな、夢中になってないって!」
颯太にはそう言ったが、やっぱり『ヒビキ』が見たものを、僕も見たい。少しでも近づきたい。よし。買って帰ろう。
「ただいま」
すぐにでもカラコンをしたくて、リビングを急足で通り過ぎようとしたが、ママの姿が見当たらない。いつもなら、玄関が開く音で僕に気づき『おかえりなさい』と言ってくれるのに。キッチンの方をのぞいてみた。
「……ママ?ママ!どうしたの?大丈夫?」
「あら、おかえりなさい。秀ちゃん。もうそんな時間なのね」
「血が出てる!どうしたの?も、もしかしてお兄ちゃんにやられたの?」
ママは、流しのところに座り込んでいた。髪が乱れ、鼻血も出たのだろう。鼻の下に血液が固まっている。
「違うわよ。自分で転んでしまったの。ダメね。慌てん坊さんで。もっと気をつけなくちゃ。ごめんなさいね。まだ、お夕飯も作っていなくて。急いでお片付けして、ご飯作るわね」
「嘘を言わないで。僕が学校に行く前、お兄ちゃんが下に降りてきたのを見たんだ。お兄ちゃんがまた暴れたんでしょ」
「秀ちゃん!」
小さい声で僕の名前を呼び、顔の前で『しっ!』と指を立てた。
「違うと言ってるでしょ。本当に自分で転んだのよ」
ママの目が怯えていたから、僕はこれ以上追求するのをやめた。絶対に、お兄ちゃんの仕業だ。お味噌汁が床に、ぶちまけられているのが証拠だ。確か、お兄ちゃんはジャガイモのお味噌汁が、嫌いだった。碌に働きもせず、わがまま放題で、思い通りにならないときは暴力。クズなお兄ちゃんは死ねばいい。死ね。
「一緒にお掃除してくれて、ありがとう。さて、お夕飯の支度するわね」
「急がないで大丈夫だから」
「あ、秀ちゃん、転んだ事は、パパに言わないでね。心配かけたくないの」
「うん。わかってる」
いつもお兄ちゃんが、暴れたことを、絶対パパに言わない。一度だけ約束を破って、パパに言った事がある。『あぁ、そうなのか』僕の前でそう言っただけだった。次の日のママは、明らかに元気がなく目も腫れていた。辛い思いをするのなら僕は絶対に、パパに言わないと決めた。お兄ちゃんが暴れるのは、パパがいない時だけだ。目の当たりにした事がないからなのか、パパは見て見ぬふりをしている。ママを守ってあげられるのは僕だけで、ママは僕だけを愛してるんだ。
自分の部屋に戻り、カラコンを付けてみる事にした。一体何が見えるのだろう。『ヒビキ』と同じ物が見えるのかと思うだけで、ワクワクする。きっと明日颯太にからかわれるだろうな。そんな、想像をしていたら、ドアがノックされた。
「はい?」
「秀ちゃん、ご飯出来たわよ」
「ありがとう。今行くね」
わざわざ部屋の前に来て僕を呼ぶのは、寝る時間、起きる時間が不規則なお兄ちゃんを、起こさないようにだ。寝起きが悪く、万が一起こしてしまったらまた暴れる。何であんな奴に、気を使わなければならないんだ。
「いただきます」
「今日は、時間がなくて簡単なものしか、作れなくてごめんなさい」
「謝らないで。ママは何も悪いことしてないよ。僕にまで気を使わないで」
「秀ちゃんはやっぱりす、ごく優しいのね。ありがとう」
……気のせいかもしれないが、一瞬だけママが眉間に、皺を寄せたように見えた。
お兄ちゃんが乱暴に椅子を引いた。
「おい。飯は?」
「あ、正信起きたの。ご飯、食べるなら用意するわね」
自分が食事中にもかかわらず、お兄ちゃんのご飯を用意しはじめた。当たり前のように、椅子に座り膝を立てながら、スマホをいじっている。
「やっぱり飯はいらねぇ。連れに誘われたから、外で食う。金くれよ。金」
「また、お金?」
「なんだよ。悪いのかよ。俺に友達が居なくなったら、ばばぁのせいだからな。そしたらもっと、暴れてやるからな。早くしろよ!……おい!小学生の小遣いじゃねぇんだからよ、そんなんで足りると思ってんの?もたもたしてんなよ」
財布を奪い取り、お札を全部を抜いた。僕は視線を逸らした。
「目を逸らしてんじゃねぇよ!お前の顔を見てると、殴りたくなるんだよなぁ。『僕はいい子ちゃんです』みたいな顔しやがってよ。……あれ?お前なんか変だぞ。元々変な顔がさらに変だぞ。まぁ、お前のことなんてどうでもいいけどな」
椅子を蹴飛ばし、お兄ちゃんは出かけていった。車にでも轢かれて、死んでしまえばいいのに。轢いた人が気の毒だが。
「パパには内緒にしておくから」
ママの後ろ姿に向かって、それだけ言って自室に戻った。もう限界かもしれない。なんで、あんなクズの言いなりになっているんだ。考えていると頭がおかしくなりそうだ。
無意識にパソコンを開き『ヒビキ』と検索をした。
翌朝、いつもと同じ時間に目が覚めた。目が重い。昨夜、遅くまでパソコンを見ていたからだ。自分が思ってる以上に『ヒビキ』に夢中なってしまっている。勉強時間を、優先しなかったのは初めてだ。いつも通り、カーテンをきっちり開けて、洗面所に向かった。いつもより少し早い時間から、ママは朝食の支度をしていた。
「ママおはよう」
「秀ちゃん、おはよう。……やっぱり何か変よ」
「僕が?いつもと何も変わらないよ」
「そう。私、疲れてるのかしら」
話してる途中なのに、ママに背を向け、階段を登り始めた。悪い事をしている訳ではない。でもなぜか、カラコンの事を知られたくなかった。朝ごはんを急いで食べて、逃げるように家を出た。何をこんなに怯えているのだろう。
「秀平!おはよっ!」
「あ、うん。おはよう」
「元気ないなぁ。どうしたんだよ。って、カラコンつけてるじゃん。まじか!真面目な秀平くんがまさかねぇ」
「そんな大きな声、出さないでくれよ。恥ずかしいだろ」
「あ、ごめん。ごめん。つい興奮しちゃってさ。あーでも何か、安心したぜ。秀平はさ、真面目すぎて人生損してる気がしてさ。もっと世の中には、楽しい事たくさんあるんだよ。同級生の俺が言いうのも変な話しだけど」
「損をしてると思った事はないけど、もう少し、視野を広げてみようかなって思ったよ。ところでさ、カラコン変じゃないかな?ママが『何か変』って言うんだよ」
「変じゃないさ。親の世代は見慣れてないからだよ。俺たちだって親の若い頃のファッションを見て、ダサイと思うだろ?それに似たような感じだろ」
「よかった。颯太にそう言ってもらえると安心する」
「当たり前だろ。流行りに敏感な俺様だからな」
結局、先生に注意されることもなく、無事に一日が終わった。
『ヒビキ』も僕と同じように、こんな風に日常を、送っていたのだろうか。想像するだけで、気持ちが昂っていく。もうカラコンを外したくない。
家に帰るとママが、洗濯物を取り込んでいた。もう怯えるのはやめた。変だと思われても、僕がしたい事なんだから関係ない。
「秀ちゃん、おかえりなさい。帰ったきてたのね。ただいまも言わないで、お部屋に居るから、びっくりしちゃったわ」
「ママ、忙しそうだったからさ」
「やっぱり変よ。秀ちゃん、こっち向いて。ママにお顔を見せて」
「何も変じゃないよ!」
つい、大きな声を出してしまった。ママは体を、ビクッとさせて驚いた。別に僕は悪い事なんてしていない。だから謝る必要なんてないんだ。
「どうしたの?大きな声を出したりして。見せてって言っただけよ。目が片方変なのかしら?病気だったりしたら大変よ」
「だから、何も変じゃないって。片方に、カラコンをつけているだけだよ。うるさいな」
自分の発した言葉に驚いた。沈黙が続き、ママは静かにドアを閉め、何も言わずに部屋を、出て行った。
その夜は、ご飯を食べず自室に引きこもり、ひたすら『ヒビキ』を見ていた。勉強もしなかった。
目覚まし時計の音で、目が覚めた。やばい。十分も過ぎている。急いで支度をし、朝ご飯を食べようと席についた。昨日の夕食がテーブルの上にそのまま置いてある。
「何でそのままなんだよ。せめて冷蔵庫に入れてくれてもいいのに。朝からイライラする。目覚まし時計が鳴る前に、起きられなかったし。何でママは、キッチンにいないんだ」
冷めた食べ物を見ていたら、食欲がなくなってきた。ご飯なんていらない。席を立とうとした時、後ろから声をかけられた。
「昨日も食べないで、また食べないの?」
「いらない。食欲がないんだ。別に、体調が悪い訳ではないから、心配しないで」
「秀ちゃん、やっぱり最近変よ。ママにも冷たい態度だし、お兄ちゃんみたいにならないで。秀ちゃんは、優しくていい子でしょ」
「お兄ちゃんと比べたりしないでよ。別に僕は変でもなんでもない。ただ、食欲がないだけだよ」
「そんな事ないわ。目が変よ。片方だけ目の色が違うのは、気持ちが悪いわ。そのコンタクト外してくれない?」
「うるさい!嫌だ!外さないよ!」
衝動的に机を叩いて、大声を出してしまった。
「言う事を聞いてくれるいい子でしょ?どうしてよ。ママ悲しいわ」
「いい子、いい子ってうるさい!別に僕はいい子なんかじゃないよ!」
「いい子だから……」
ママは泣きながら、何か話していたけど、僕は最後まで聞かずに、家を飛び出した。ただ、片方にコンタクトをつけているだけなのに、何でそんな事を、言われないといけないんだ。気持ち悪い?そんな事言われたくない。お兄ちゃんみたいに、ならないで?比べられてたまるか。だったらお兄ちゃんは、悪い子じゃないか。それなのに、何故あんな奴の、言う事を聞いているんだ。いい子の僕がしている事には、口を出すくせに。
怒りが収まらず、ひたすら自転車を漕いでいたらしい。ふと周りを見渡すと、葉の色が変わりつつあるイチョウ並木に囲まれ、見慣れない景色が広がっていた。十月も下旬になり、これから紅葉シーズンが始まる。
「完全に遅刻だ。どこまで走ってきてしまったんだろう」
特にスマホに連絡も、来ていない。家に直接、電話をされたかもしれない。泣きながら電話に出ているママの姿を、想像してしまった。
あの時は苛立ちが収まらず、自分の感情を、コントロールする事が出来なかった。大きな声を出し、反抗してしまった事に後悔している。もっと柔らかく伝える事が出来たはずなのに。
帰ったら謝ろう。そしてママに『ヒビキ』の話しも聞いてもらおう。僕がカラコンをつけている理由を聞いたら、きっと笑って『そんな理由があったのね』と言ってくれるだろう。どんな僕でも愛してくれてるんだから。
とりあえず、スマホで現在地を確認し、学校に向かった。二限目が始まっていたが、迷わず教室に入った。一斉にみんなの視線が、僕に集まる。自分の顔が、真っ赤になっているのが分かる。ニヤニヤしている颯太と目が合った。僕も思わずニヤけてしまった。
休み時間になり、颯太が真っ先に僕の席にやってきた。「どうしたんだよ。学校に連絡もせずに遅刻なんて。体調が悪い訳ではなそうだし」
「うーん……。朝、少しママと揉めちゃって。怒りに任せて自転車を漕いでたら、隣町まで行っちゃってさ」
「わかる。俺も時々、自分の感情を、コントロールするのが難しくてさ、衝動的に物を壊したくなる時があるよ。ギリ理性が勝ってるけど、いつ負けてもおかしくないと思ってる」
「共感してくれてありがとう。冷静になると、自分の行動を反省してさ、自己嫌悪に陥るんだよ」
「もしかして、揉めた理由って、こないだ話してくれたお兄さんの事なのか?」
「まぁ、関係なくはないかな。発端はさ、ママがカラコンを外せって言うんだよ。気持ちが悪いって。それに最近、僕の様子がおかしいとも言ってた。『お兄ちゃんみたいにならないで』だってさ。その言葉を聞いて、頭にきちゃって、大声を出してしまったよ」
「俺はさ一人っ子だから、兄弟と比べられる事はない。でもさ、どんな関係性でも、人と比べられるのは、いい気分ではないよな」
話しの途中だったが、休み時間が終わってしまう。
「また、後でな」
怒りの感情をコントロール出来ないのは、自分だけではないと分かって心がすごく楽になった。颯太に話してよかった。
三時限目は数学で、担任の授業だった。教室に入ってくるなり僕の方に向かってきた。何事かと思ったが、遅刻の事を言われるのだと思った。
「新堂くん、登校したのなら、職員室に連絡してくださいね。固定電話も、お母様の携帯電話も、繋がらないので、心配していたんですよ」
「はい。ご心配をおかけしてすみませんでした。母の携帯も、繋がらなかったのですか?」
「はい。何度か、お電話したのですがね」
「そうですか……。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「遅刻する時は、次回から連絡を忘れずにお願いしますね」
「わかりました」
ママと連絡がつかない……。僕が家を飛び出してしまったから?いや、それなら逆に携帯を、肌身離さず持っているはずだ。今気づいたが、僕のことを心配しているなら、僕の携帯に連絡をしてくるはずだ。何の連絡も無いと言うことは、別に僕の事なんか、心配ではないのかもしれない。ありえない。僕はママに愛されているんだ。どんな僕でも愛してくれているんだ。授業中だというのに、教室を飛び出した。今日は、家を飛び出し、教室も飛び出した。僕は一体どうしてしまったんだろう。
「新堂くん!新堂くん!」
担任の声が聞こえたが、もうどうでもよかった。
学校の近くのコンビニに寄り、駐輪場でママに電話をしてみた。すぐに電話に出て『秀ちゃん!よかったわ。心配したのよ』と言ってくれるはずだ。
しかし、何度かけてもママは出ない。焦燥感に襲われる。ふと、鼻血が出ているママの姿を思い出した。もしかしたら、またお兄ちゃんに、何かされたのかもしれない。急いで帰らなくちゃ。
息が上がったまま、玄関を開けてみると、家の中は静まりかえっていた。平日の昼間なのに、パパの革靴がある。いつもと違った風景に違和感を感じ、静かにキッチンの方に歩いて行った。フライパンや鍋などが散乱し、血のついた包丁まで落ちている。やっぱり、お兄ちゃんが暴れたんだ。誰が怪我をしたのだろう。ママだったらどうしよう。震えが止まらない。
状況が分からぬまま、とりあえず静かに階段に向かった。微かに寝室から二人の話し声が聞こえる。じっと息を潜め、ドアに耳をあてた。
「あいつと一緒に住むのは、もう無理だ。俺が偶然、家に寄ったから、殺されずに済んだんだぞ。このままだと、いつか本当に殺される。実の子でも、警察に突き出すべきだ!いつまでも甘やかしているから、こんな事が起きるんだ」
「正信はそんな子じゃないわ。かまってほしいだけよ。確かにあなたの言う通り、甘えてると思うわ。でも、私たちはあの子の親でしょ。甘やかせて何がいけないのよ。警察に言うなんて考えられない。あなた本当に親なの?」
「小さな子供のいたずらじゃないんだぞ。殺そうとして包丁で刺したじゃないか。親子であろうと、殺人未遂に変わりはないだろう。それに他人を傷つけたらどうするんだ。このまま、野放しにしては置けない。」
「あなたは、今までだって何もしてくれないじゃない。親ではなく、ただの傍観者よ。そんな人に指示されたくないわ。正信は可愛い息子なの。あの子が、私なしで生きていける訳がないじゃない」
「それは、美穂の方だろ」
耳を疑った。ママはお兄ちゃんがいないと、生きていけない?そんなバカな。心臓の鼓動が大きくなり、胸が苦しい。
「そうよ。生きていけないわよ。どんな事をしても、私はあの子の事が一番大事なのよ。仮に殺されたとしても構わないわ」
「無責任なことを言うなよ。秀平だって大事な息子だ。殺されてもいいなんて言うな。酷いぞ」
「あなたがいるじゃない。あの子は別に大丈夫よ。最近、様子がおかしいけど、特に問題はないわ。もちろん、秀平も大事な息子よ。でも、聞き分けがよくて、頭のいい子だからかわいいの」
叫びそうになり、自分の口を両手で必死に押さえた。『ガタン』……しまった。スマホを落とした。ポケットに入れておけばよかった。急いでドアから離れ、廊下を早歩きした。
「正信か?何しに戻ってきた?秀、秀平か?何で家にいるんだ?学校はどうした?」
「少し熱があったから、早退させてもらった」
「大丈夫なのか?声が震えるほど、熱が高いのか?」
「大丈夫」
自室のドアを強く閉めた。危なかった。声が震えているのが、伝わってしまっていた。大丈夫な訳がない。この震えは怒りなのか、それとも、恐怖なのか分からない。とにかく動揺している。ママは、僕ではなくお兄ちゃんの事を、愛していたなんて信じたくない。僕は、いい子だから可愛い?頭のいい子だから愛している?知りたくなかった。なんでこんな事になってしまったんだ!
学校を飛び出して、帰って来てしまったから?家を飛び出したから?、違う。……あ。これだ!僕は『ヒビキ』と同じものが見えたんだ!
『ずっと見たかったものが見えます』
頭が良くて、聞き分けがいい。反抗する事もない。優しい子。だから僕は愛されていたんだ。どんな僕でも愛してくれるなんて、嘘だったんだ!初めから僕のことなんて、どうでもよかったんだ。お兄ちゃんは、ママを殺そうとしたのに愛されているなんて、おかしいだろ!
拳を強く握っていたせいで、爪が食い込み流血していた。血を見ていたら、冷静さを取り戻してきた。このままでは、ママの愛情が減ってしまう。だって、今の僕はもう、いい子ではないのだから……。どうしたらいいか考えた。答えはすぐ出た。想像しただけで、高揚感に包まれる。『ヒビキ』の笑顔が僕の頭の中を占領した。ずっと見たかったママの愛情が見えてしまったよ。ママの愛情がこれ以上減る前に急がなくちゃ。やっぱり『ヒビキ』に出会えてよかった。もっと好きになった。
「秀ちゃん。パパから聞いたわ。お熱大丈夫なの?ドア開けていい?」
「ごめん。今パジャマに着替えている所だから、開けないで。熱はそんなに高くないし、寝れば大丈夫だと思う」
「そう。食欲はどう?お粥でも作る?」
「寝るからいらないよ。ありがとう」
「ゆっくり休んでね」
朝、言い合いになった話しには触れてこない。お兄ちゃんが暴れたから、僕との事は忘れられたんだ。そんなことはもうどうでもいいや。とにかくこれ以上減ったら、ダメなんだ。ダメなんだよ!早くしないと。早く、早く……。僕だけのものにするんだ。
静かに部屋のドアを閉め廊下に出た。ゆっくりと歩き寝室の前で足を止め、そっとドアを開けた。運も僕の味方だ。パパは仰向けで寝ている。素早く馬乗りになり、胸に包丁を振り下ろしたが、思ったより深く刺さらず、焦った。声が出せないように喉を切った。とりあえずパパは動けないだろう。隣で寝ていたママが大声を出し、ドアの方に向かった。
「お願い!僕から逃げないで。何もしないから。ほら、見て。何も持ってないよ」
「嫌よ!何をしているのよ!パパに何をしたのよ!正信はどこ?」
「お兄ちゃんの心配をしているの?僕がいるよ。どんな僕でも愛してるでしょ?僕が一番大切で、一番愛してるって言ってくれてた」
ドアまで、あと一歩の所で足首を捕まえた。
「離して!離して!秀ちゃん!やめて!」
「これ以上、減ったら嫌なんだ。ずっと一緒にいる為には、こうするしかないんだよ。分かってくれるよね」
また馬乗りになり、首を絞めた。ママの首は、驚くほど細かった。力の加減が分からず、強く締めすぎた。骨の折れる音がした。最後に僕の顔をしっかり見つめてくれていた。感じたことのない幸福感が全身を包んだ。
「あ、そうだ。パパはどうなったかな」
しっかりと僕の物になるように念の為、何度も胸を刺し続けた。
「よし。大丈夫。やっと僕だけの物になった。まだやる事が残っているんだ」
ナイフ、ハサミ、フォーク、スプーン……様々な道具を使ってやっと取り出せた。手元が血で滑るから、顔が傷だらけになってしまった。
「二人ともごめんね。顔にたくさん傷をつけてしまって」
突然、脱力感に襲われた。ちょっとこのまま休もう。床に座り、壁に頭を預けたまま眠ってしまった……。
ラジオ体操の曲が聞こえ、目が覚めた。こんな穏やかな気持ちは初めてだ。それなのに、お兄ちゃんの声が聞こえる……。あっという間に台無しにされた。
やっぱり、お兄ちゃんは邪魔者だよ。警察に電話しているみたいだけれど、手が震えているよ。あんなに威張っていたのに、弱虫だね。
「はい。こちら警察です。事故ですか?事件ですか?」
「死、死んでる。親父と母さんが……血まみれなんです!」
「落ち着いてください。他に誰かいますか?お怪我はされてないですか?」
「弟が……」
「弟さんがどうされましたか?」
「親父と母さんの……目を……目玉を……」
「はい?目玉……ですか?」
「…………」
「大丈夫ですか?もしもし?もしもし?」
通話したまま、お兄ちゃんは倒れた。もうすぐ、お家に警察が来ちゃうんだね。寝ている場合じゃなかった……。『ヒビキ』と同じになるためには、まだやらなくちゃいけない事があったのに!僕だけの物が取られてしまう!
くそ!くそ!本当に最後の最後まで、あいつは邪魔な奴だよ。死ねよ。どうせこれから一人で、生きていかなくちゃいけないんだよ。お前に、そんな事ができるのか?甘えん坊で弱虫な奴。早く死ね。
-ボクのキモチ-④
僕は悪魔の子になってしまったのかな
でもそれは僕のせいではないよ
そんな目で見られる事に耐えられなくなったんだ
勝手に目の色が片方変わっただけなのに
僕は何も変わってない
辛い僕の気持ちを
ノートに書いておいたよ
-キョウカサンノコト-
母はとっくの昔に、私の知らない男と死んだ。母の訃報を聞いたのは十二月が始まったばかりの頃だった。今年も思い出す季節がやってきた。
私の妊娠が発覚してすぐに男は逃げた。まぁ、よくある話なわけで、落ち込みもしなかった。なぜ生きることに執着してしまったのだろう。死を選択しなかったせいで、母と男に捨てられた人間がしっかりと、子孫を残してしまった。そんな人間にも母性は備わっていたらしく、例えどんな子になっても守ることを誓った。とにかく、可愛くてたまらなかった。
母も私を産んだ時、そう思ったのだろうか。……まさかそんなバカなことはない。もし、同じ気持ちになったのなら、子供を捨てられるわけがない。私は母と違うんだと理愛を産んだ時、はっきりと分かった。
「この子と一秒も離れたくない!」
分娩台の上で叫んだ。助産婦さんも驚いていた。
「素敵なお母さんですね。娘さんが大きくなったら伝えてあげてください。あなたを産んだ時、分娩台の上で、『一秒も離れたくない!って叫んだのよ』って。娘さん喜ぶと思いますよ。あ!証拠を残しておきましょう。母子手帳に書いておきますね」
恥ずかしかったが本心であった。まだ理愛に見せた事はない。昔のように、仲睦まじく過ごせる日は来るのだろうか。二人の間がぎこちなくなったのは私が全て悪い。痛いほどわかっている。
小学一年生だった理愛は覚えているのだろうか。あの日夜を思い出させてしまう気がして、その日以来、ハンバーグを作れなくなった。理愛にまで捨てられてしまったら生きていけない。
ついこないだも、不安に耐えられず電話をしてしまった……。口実が欲しくて、わざと牛肉を丸焦げにした。
あの子はすぐに帰ってきてくれた。対処法まで考えてくれた。一華ちゃんと楽しい時間を過ごしていたはずなのに。このままではいけない。私のせいであの子は幸せになれない。
「ママ?まだ起きてる?」
「何か用?」
「来週の話しなんだけど、一華と一泊旅行に行ってくる。だからお店のお手伝いを、お休みさせて欲しい」
「あ、そう。分かった」
心臓がギュっと締め付けられた。動揺を隠すことに必死で、何も聞けなかった。旅行?場所は?どこに泊まるの?交通手段は?二人だけなの?様々な疑問が頭を駆け巡っている。深呼吸をし、胸に手を当てる。
「大丈夫……。大丈夫だから……。ただ泊まりに行くだけよ。次の日には帰ってくるじゃない」
鼓動が早くなっていく。息苦しい。パニックになる前兆だ。
「大丈夫だから」
自分の腕を両手でさすりながら、小声で何度も呪文の様に繰り返した。
昨夜は一睡も出来なかった。私は絶対に心が病んでいる。感情のコントロールが日に日に、出来なくなってきているのだ。病院に行き、専門的な治療を受けるべきなのだろう。しかし、自分が思ってるより深刻な状況で、入院をする事にでもなったら……。と思うと怖くて行けない。あの子が一人になってしまう。
頭の中では常に理愛を優先的に考えているのに、本人の前だと素直になれず、嫌味、強い言葉、素っ気ない態度になってしまう。
「買い出しのメモがないけど今日は行かなくていいの?」
「行かなくていい。ママが行く」
「わかった。それなら、他に出来ることある?」
「何もない」
「どうしたの?何か怒ってるの?」
「別に怒ってないわよ」
「買い出しは私の仕事だし、いつも一緒に準備だってしてるのに、一人でやろうとしてない?」
「元々は一人で切り盛りしてたんだから出来るのよ」
「どう言うこと?もしかして旅行の事で何か不満なの?」
「そんな訳ないでしょ。別にママには関係のないもの。たまには一人でもいいかなって思っただけよ。買い出しに行ってくる」
なるべく一緒にいる時間を減らした方がいい。あの子の楽しみを奪ってしまいそうになるから……。
「あら、京香さんじゃないの。お買い物?」
「こんにちは。はい。そうなんです。川島さんもですか?」
「そうなの。あ、そう言えば最近、近くで殺人事件があったの知ってる?」
「そうなんですか?知りませんでした。犯人は捕まったんですか?」
「現行犯逮捕されたらしいわよ。犯人は子供らしいの。両親を殺害したんですって。詳しい動機はわからないんだけど、聞いた話だとその子の目、片方だけ色が違ったんですって。今、若い子の間で流行っているらしいのよ。なんて言ったかしら……オッド……」
「オッドアイ……ですか?」
「そうだわ!京香さんも知ってたのね」
「あ、はい。たまたま雑誌で見かけただけですけど」
理愛がオッドアイにしていることを、何故か言いたくなかった。
「それでね、そのオッドアイにすると、『見たかったものが見える』って言うのよ。どう言う事なのかしらね。理解に苦しむわ」
「そうですね。若い子が考える事に、ついていけないですよ」
「でね、似た事件があったみたいなのよ。それがね、偶然なのかもしれないんだけど、その犯人の子もオッドアイだったらしいの。まぁ、噂話しだから信憑性がないけど、火のない所に煙は立たないじゃない」
話が長くなりそうだ。どうにかこの場を切り抜けたい。
「啓介から聞いたんだけどね、ネットでも話題になってるらしくて、どうやら半年以内に何件か親殺しの事件が、起きているらしいのよ。聞いて驚くわよ。その親殺しの犯人は、みんなオッドアイにしてたんですって。関係ないのかもしれないけど、こんな話し聞いちゃうと、我が子がオッドアイにしたら全力で止めるわよね。変なものが見えて殺されたりしたらたまらないもの」
私が買い出しに来てよかった。理愛と川島さんが会っていたらと思うと背中がゾクっとした。
「京香さん、大丈夫?顔色が悪いわよ」
「だ、大丈夫です。すみません。昨日から少し風邪気味で……」
「やだ、そうだったの。ごめんなさいね。私一人でペラペラとお喋りしてしまって」
「いえいえ、そんな、私の方こそ気を使わせてしまって、すみませんでした。あまりニュースも見ないですし、お話しが聞けてよかったです。事件の進展があったら、また聞かせてください。子を持つ親として気になる事件ですし」
「確かにそうね……。またお店に寄らせてもらうわ。お大事になさってね」
「はい。ありがとうございます。川島さんも、気をつけてください」
ようやく解放された。オッドアイにすると、親を殺すだって?ホラー映画でもあるまいし、ただの偶然よ。理愛だって別に変わった事などない。
……ないはず。違うわよ。違うわよね。今まで外泊もした事ないのに突然、旅行に行くと言い出した。オッドアイにしたからなの?何か見えたから、そんな事を言い出したの?やめて、やめて。
違うわよ。違う、違う。本当は旅行じゃなくて、家出?もう帰ってこないの?もしかして捨てられる?私、捨てられるの?
「すみません、大丈夫ですか?救急車呼びます?」
「私……」
「気がついたみたいでよかったです。下を向いて座り込んでいたので、体調が優れないのかと思いまして、お声を掛けさせてもらいました。意識があって安心しました。念の為、救急車呼びましょうか?」
「あ、いえ、大丈夫です。ご迷惑おかけしてすみませんでした」
「そうですか……。無理なさらないでくださいね」
「あ、はい。すみません。ありがとうございました」
重症だ。確実に悪化している。道端で意識をなくしてしまうなんて……。もう今日は帰ろう。
お店の電気がついている。何もすることは無いと言ったのに。
「ママ遅かったね。手ぶらだけど、何も買ってきてないの?」
「そうよ。ところで、何してるの?」
「掃除。明日から旅行に行くし、そろそろ大掃除もしないとでしょ。時間がある時に少しずつやっておこうと思って。ところで、材料は?」
「だから買ってこなかったの。明後日から、年末年始休暇になるし、お店にあるもので作ることにした。掃除もママがやるからいいわよ」
「わかった。明日、早いから寝るね。おやすみなさい」
母親の私は、お店のことを考え自発的に行動しているあの子に、どうして『ありがとう』と言えないんだろう。考えれば考える程、自己嫌悪に陥る。このままでは、何かしていないと気が変になりそうだ。
朝目覚めると理愛の姿はなかった。一人になるのが不安で中々寝付けなかったが、出掛けたことに気が付かなかった。一言声をかけてくれてもいいのに。
家の中が静まり返っている。いつもならお腹を抱えてトイレに駆け込む理愛の足音が、うるさくてイラっとするのに、あの足音が恋しい。絶対に返事が返ってこないとわかっているのに、大声で名前を呼んでしまう。完全に娘に依存している。このままではまずい。
よし!今日は今年最後の営業日だ。体を動かして気を紛らわそう。
お店にある材料で作った割には種類豊富に作れた。年末にも関わらず思ったよりもお客さんが多く、忙しかったお陰で余計なことを考えずに済んだ。閉店間際に川島さんがやってきた。
「川島さん!今年もご贔屓して頂き、ありがとうございました。来年もぜひよろしくお願いします」
「こちらこそ、いつも美味しいお惣菜をありがとう。すごく助かってますの。また来年もよろしくお願いしますね。理愛ちゃんにもご挨拶したいわ」
「あ、ごめんなさい。今日から一泊でお友達と旅行に出かけしまいまして……ご挨拶できなくてすみません」
「そんな謝ったりしないで。年明けに会えるのを楽しみにしているわ。そう言えば、こないだの親殺しの事件なんだけど、犯人の息子さんすごく真面目で成績優秀だったみたい。でもね、どうやら、オッドアイにしてから様子が変になったって話しなの。あの噂話しは本当だったのよ。恐ろしい世の中よね。若い子達の中でそんな事が流行ってしまうなんて」
「どうして、殺されるのが親なんでしょうか。仮に頭がおかしくなってしまい、殺人衝動に駆られたなら、無差別でも不思議ではないですよ。親を殺してしまいたくなる様な物が、見えてしまうのですかね」
「そうね。単なる偶然とは思えないわよね。それに雑誌で読んだけれど、見た目も気持ちが悪かったのよ。いくら可愛い我が子でも、毎日そんな顔を見ていたら、可愛いと思えなくなってしまうかもしれないわ」
それはない。絶対にない。子供に対する愛情が足りないのではないか。見た目で変わってしまうような愛は、本当の愛ではない。どんな風になっても自分の子への愛情は変わらない。
片目の色が違うから、気持ちが悪い?くだらない。外見が変化しただけで、その子の本質は変わらないのに。
理愛が髪を染め、口と鼻にピアスを開け、派手に変わっていく姿を見ても何も言わなかった。興味がないからではない。何度も言うが本質は変わらないからだ。もし、啓介君がオッドアイにしたら、愛さなくなるのだろうか。価値観が違う人と、いつまでも会話を続けたくない。
ダメだ……。余計なことを考えずに過ごせていたのに、理愛の事を考えてしまっている。落ち着け、落ち着け。私。
「事件のお話しを聞かせてくださり、ありがとうございました。わざわお店にまで来ていただいて、すみません」
「年末のご挨拶もしたっかたのよ。またペラペラとごめんなさいね。そろそろ冷え込んできたし帰るわね。また来年会いましょう。良いお年を」
「とんでもないです。また来年も色々なお話を聞ける事を、楽しみにしています。良いお年をお迎えください」
すごく疲れた。もう閉めよう。接客出来る精神状態じゃない。もっと健やかな気持ちで仕事納めをしたかったのに、予想外の展開になってしまった。理愛の事が頭から離れない。このまま帰ってこなかったらどうしよう。
「声を聞いたら落ち着ける気がする」
スマホの画面に番号を表示し、伸ばしている人差し指に、力が入る。穴が空いてしまいそうな程じっと画面を見つめていたが、指を折り拳を握った。何時間も一体何をしていたんだろう。気分を変えなくては……。そうだ、今日は徹底的に掃除をしよう。
閉店後に必ず、冷蔵庫、シンク、デリケースなどの掃除は欠かさない。しかし、細かい場所は毎日手が行き届かない為、汚れがついている。頑固な汚れとの戦いだ。
「え……。嘘でしょ。外が明るい」
自分の集中力に驚いたのと同時に、清々しい気持ちになった。
「心も綺麗に洗われた気がする。帰ってきたら旅行の事を聞いてみよう。川島さんから聞いた、事件の話しをしてみようかな」
前向きな考え方になれた事が、素直に嬉しかった。
いつも寝つきが悪く睡眠も浅いが、何十年ぶりの徹夜は流石に疲れたらしく、気を失ったかのように一瞬で眠りについた。
『ピーンポーン』
インターホンの音で目が覚めた。時計を見ると午後の二時を少し過ぎた所だった。
「滅多に訪ねてくる人なんていないのに誰?あ、荷物かしら。お店がお休みだから自宅に持ってきてくれたとか」
独り言を言いながらモニターの画面を覗いた。思い出せないが、絶対に会ったことのある青年だ。
「はい。どちら様でしょうか?」
「突然すみません。川島です」
「川島さん……。あ、啓介くん?」
「はい。お久しぶりです。お店がお休みだったので、直接ご自宅の方に伺わせてもらいました」
「待ってね。今、鍵開けるから」
何年かぶりに見る啓介くんは、体も大きくて、とても頼もしく見えた。川島さんにとって自慢の息子さんだ。
「お休みのところ、突然すみません」
「いいえ。こちらこそごめんなさいね。今日からお休みなの。それで、どうかなさったの?」
「あのぉ……理愛さんはいらっしゃいますか?」
「理、理愛ですか?えっと、昨日から旅行に行ってるの」
「いつ戻られますか?」
「確か、年明けまで戻らないって言ってたわ」
理愛を奪われる。直感的にそう思い、嘘をついた。また不穏な感情が蠢き出した。冷や汗が止まらない。
「そうですか……。今度また会えた時、連絡先の交換をしようと約束したんです。なので次の日、お店に行く予定でした。しかし、大学のイベントの準備で忙しくなってしまいまして……。直接、理愛さんにお渡ししたかったのですが、明日寮に戻るんです。すみませんが、お母様にお願いしてもよろしいでしょうか?」
返事をするまもなく、緑色の小さな封筒を渡された。こちらの様子を伺うこともなく、自分の話をどんどん進めていくのは、母親似なのだろうか。まさに親が親なら子も子である。
「わかりました。渡しておきますね」
「ありがとうございます!突然、ご自宅にまで押しかけてすみませんでした。とても冷えるので、風邪を引かないように気をつけてください」
「ありがとう。啓介くんもね。お母様にもよろしくお伝えください」
「はい。では、よろしくお願いします」
頭を下げる啓介くんを睨みながら、ゆっくりと玄関を閉めた。この男のせいで私は捨てられる。
誰だって人生で一度は恋をするだろう。そんな事は分かっている。こんな自分も経験したことがあるのだから。だからこそ断言できる。頭がおかしい母親より『愛している、大好きだ』と言ってくれる男と一緒に居たいと思うに決まっている。薄っぺらい言葉だとは気づかずに……。私の方が絶対に理愛の事を愛している。子供に依存している母親は、邪魔者になりあっさりと捨てられるのだ。嫌、絶対に嫌だ。緑の封筒を握りつぶしたくなる。ビリビリに破ってしまおうか。啓介くんが訪ねてきた事も内緒にしておこう。捨てられたくない。怖い、怖い……。
心が不安定になり、パニック症状が始まるかと思ったが、静かに涙が頬を伝った。
『プチン』
何かが切れる音がはっきりと聞こえた。
部屋中の引き出しを開け、理愛の写真や手紙、絵などをかき集めた。幼い頃の写真を見ていると、タイムスリップした感覚になる。小さな理愛が無邪気な笑顔で、今にも駆け寄ってくるような気がして、涙が溢れてくる。もう一度あの子を抱きしめたい。
分娩台の上で叫んだように、一秒も離れない事は無理なのだが、理愛と過ごす時間が多い生活を、送れていた。いつでもあの子を抱きしめることができたのに……優しく接していれば仲良く楽しい生活を送れたのに……全部、全部、私にせいだ。
このまま生きていても、理愛の幸せを奪ってしまう。啓介くんとの中を壊そうと必死になるだろう。そんな母親は居ない方がいい。お互いの為に、ここで終わりにしよう。もう疲れた。
あの子が生きていくには、お店があるから大丈夫。既存のメニューは一通り作れる。ここを売って自由に暮らしてもいい。縛られることなく自分の人生を生きてほしい。
手のひらに白い錠剤を、たくさん乗せてみた。私の体内に吸い込まれていく一錠、一錠が理愛の笑顔になる。あの子の笑顔がたくさん増えるように、たくさん飲もう。もっと、もっと……。
-ボクのキモチ-⑤
本当の僕を愛してくれていなかった
みんなと同じでなければ愛されない
僕は呪われてなんかいない
コンナ僕のことを見てパパとママの
愛がなくなってしまう前に目玉をくり抜こう
-事件のコト-
夕方になると肌寒くなり、秋風を感じる。長袖を着てくるべきだったと後悔した。道路の向こうに側立ち、先ほどから新堂家を見つめている青年に声をかけた。
「こんにちは。少しよろしいかな。勘違いだったら申し訳ないのだが、新堂さんに何か用かな?」
少年は警戒しているように見えたが、静かに頷いた。
「申し遅れました。警察の者でして、『村橋 哲』といいます。私も新堂さんに用事がありましてね。君はどうしたのかな?」
「秀平に、何かあったのですか?」
今にも泣き出しそうな程、声が震えている。
「お友達なのかい?」
「はい。僕は牧村颯太と言います。同じクラスなのですが、今日登校せず、連絡もつかないので家まで来てみたんです。そしたら、こんな状況になっていて……」
新堂家は黄色いテープで囲まれ、警察車両がたくさん停まっている。何かあったことは一目瞭然だ。
「それは驚いただろう。まだ、詳しくは話せないが、秀平くんに怪我は無い。大丈夫だ」
「よかった。会って話すことは出来ますか?」
「いや、それはしばらくの間、無理だと思う」
「え……。どういう事ですか?」
「少し時間があるかな?ちょっと近くの公園に移動しよう」
男子高校生と、五十代半ばのおじさん二人が、自転車を押して歩く姿は、年の離れた親子の様だ。哲は少し恥ずかしさを感じたが、もし自分の子供がこんな不安で悲しい表情をしていたら、全力で守ってあげたいと思うだろう。
刑事になると心に誓った日から子供は持たないと決めた。付き合った女性も何人かいたが、些細なことでも、疑問を感じると、問い詰めてしまう。『何を言っても信じてもらえない』そう言って、必ず振られた。子供は持たないとかっこいい言い方をしたが、結果として恵まれる機会などなかった。
途中、自動販売機で温かい飲み物を買い、公園のベンチに腰を下ろした。販売機の『あたたかい』の文字を見ると寒い季節になったなと毎年思う。
「どうして、秀平に会えないんですか。怪我もなく、無事なんですよね?」
こちらを攻めるような口調だ。
「颯太くんは、秀平くんと仲が良かったかい?」
「そうに決まってるじゃないですか。仲良くなければ、学校に来なくても、連絡が取れなくても関係ないですよ。刑事さんですよね?そんなことも分からないんですか?質問したのは僕の方です。まずは、僕の質問に答えてください!」
「ごめん、ごめん。怒らせるつもりではなかったんだ。本当は、規則違反だが、誰にも言わないと約束してくれるかな?秀平くんの事を大切に思う友人であるならば、先に知っておいた方が君のためでもあると思うんだ。それと、あと一つ約束してほしい。今から話すことに対して、決して自分を責めないでくれ」
「約束します。口外もしません」
「分かった。颯太くんを信じる。落ち着いて聞いてほしい。秀平くんは、両親を殺害し、現行犯逮捕された」
「……そ、そんな、本当に秀平なんですか?お兄さんの間違いではないですか?」
「残念ながら、秀平くんに間違いないんだ。ところで、どうしてお兄さんだと思ったんだい?」
「それは……。家でお兄さんが暴れて困るって、言っていたんです。働きもせず、お母さんに暴力を振るうんだって話してくれて、いつか本当にお母さんはお兄ちゃんに、殺されてしまうかもしれないと心配してたから……」
朝比奈が言ってたことは当たっていた。日常的に暴力を振るっていたのは、兄の正信だったのだ。これで、ゴミ屋敷部屋の謎が解けた。母親はきっと、触らぬ神に祟りなしの心境だったのだろう。
「なぜ……。なぜ殺してしまったのでしょうか。秀平は穏やかで頭も良いし、いつも自分の事なんか後回しにして、気の利く優しいやつなのに……」
「秀平くんは、動機を話してくれないんだ。颯太くんの話を聞いて余計に分からなくなってしまったよ。そんなに優しい子が、どうして親を、殺さなけらばならなくなったのか。殺してしまうなんて簡単に出来ることではないんだ。ここ最近、秀平くんに変わった様子はなかったかな?」
「特になかったと思います。でも今まで、一度も遅刻や無断欠席をしたことがなかったのに、昨日は遅刻をした上に授業の途中、無断で帰ってしまいました。これって変わった事の出来事になりますか?」
「十分なる。憶測でしかないが、秀平くんは真面目で几帳面な性格だと思う。キッチリとした時間の中で、生活をしている子が、自分から時間の乱れを作るとは思えないんだ。彼の中で何か起きたことは間違いない」
颯太くんはずっと下を向いたままだ。あまりにも衝撃的な出来事に、心が追いついていかないのだと思う。自分を責めないでくれと約束をしたが、高校生の青年が背負うには、やはり重すぎた。
俺はそれを分かっているうえで話をした。友人からの話を聞くことで、秀平くんの動機に繋がるものが、得られるかもしれないと思ったからだ。なんて非道な人間なのだろうと、自己嫌悪に陥る。颯太くんの為だと言っときながら、下心があるのだから……。子供であろうと容赦しないような人間は、子供を授からなくて良かったのだ。
「颯太くん、長い時間引き止めてしまって悪かったね。そろそろ親御さんも心配するといけないから帰るとしよう」
「僕は、大丈夫です。これから、秀平はどうなってしまうんですか?」
「それは、私にもまだ分からない。動機も話すことなく『見えたいものが見えた』しか言わない。このままでは、どうにもならないんだ」
「もしかしたら、『ヒビキ』が関係あるのかな……」
「ヒビキ?同級生かい?」
「いえ、モデルです。秀平はかなり『ヒビキ』に惹かれていました。刑事さんに言ったら、笑われてしまうかもしれませんが、恋をしていたと思います。今、片目にだけカラコンをつけるファッションが流行っているんです。秀平は基本的に、流行り物などに興味を示す方ではなかったのに、『ヒビキ』の話になると人が変わったようでした」
「その『ヒビキ』がどうして関係あると思うんだ?」
「片方の目の色を変えると、見たかったものが見えるらしいんです。秀平の場合は、『ヒビキ』の真似をしたかっただけなのかもしれませんが、見えたいものが見えたという言葉を聞いて、関係があるのかもしれないと思ったんです」
肌寒さを超えて寒くなってきた。まだ、颯太くんには聞きたいことがあるが、いつまでも引き留めておくわけには行かない。そう思っているのは建前であり、本当は早く署に帰り『ヒビキ』について調べたいからである。やはり俺は自己都合な大人で、腐った心の持ち主だ。
「話してくれてありがとう。気温も下がってきたし、風邪を引いたら大変だ。帰ろう。もし、秀平くんのことで何か思い出したりしたら携帯に連絡をお願いできるかな?」
「はい」
番号を交換したが、登録の仕方が分からず、颯太くんの手を煩わせてしまった。
「おじさんになると、すっかり機械に弱くなってしまってね。助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
「辛くなったら、いつでも電話してきてな。約束通り、自分を責める事だけはしないでほしい」
相変わらず、下を向いたままだが、力強く頷いてくれた。颯太くんの後ろ姿には、悲しさが滲み出ていた。眠れない夜を過ごすだろう。そんな彼の背中が見えなくなってから、自転車を漕ぎ、署に向かった。
先程まで寒かった事が嘘かのように、署に着く頃には汗をかき、息が上がっていた。猛スピードで自転車を漕いだのは、学生以来のような気がする。この時もまた、老化を感じて落ち込んだ。
「あ!哲さん!どこに行ってたんですか。自転車なので時間がかかるのは分かりますけど、遅すぎますよ。そしてまた、汗かいてません?大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だ。どこに行ってたのかって?秀平くんの友達に会って話を聞いてきたんだ」
「秀平くんの友達?ちょっと待ってください。どこでですか?捜査した中に友達の存在が分かる様な事などなかったはずですが……」
「新堂家を出た時、家の方を見つめていた青年がいたことに、気が付かなっかたか?」
「すみません、全く気がつきませんでした。も、もしかして……その子に話を聞くから、帰りが遅くなると言ったんですか?そういう意味だったんですね。鈍感ですみませんでした。なんかすごく落ち込みます……。現場の周辺にまで、目を配らせる事が出来ないなんて、刑事として情けないです」
やっぱり気づいていなっかたか。しかし、朝比奈は賢い。同じ失敗を繰り返すことはないだろう。
「落ち込むことはないさ。失敗を糧にすればいい。俺も自転車で、現場に行くのは辞めようかと思う。冬は寒い」
「え、そっちの失敗ですか?」
「なんか変な事、言ったか?失敗は失敗だろ」
「まぁそうですけど……。それで、お友達の話を聞いて、何か収穫はありましたか?」
「多分な。関連性があるのか分からんが、若い子に人気のある『ヒビキ』って知ってるか?」
「モデルのですか?知ってますよ。確か、元々はインフルエンサーだったと思います。性別を公表していないんですが、男女問わず人気者です。それがどうかしましたか?」
「そのモデルが、どうやら片目だけ色を変えると、『見たいものが見える』と言っているらしいんだ。しかも、秀平くんはこの『ヒビキ』に相当、夢中になっていたらしい」
「やっぱり、秀平くんにも、夢中になっていたものが、あったんですね。少し安心しちゃいました。あの部屋を見た限り、几帳面すぎて、人間味を感じなかったですから。あ!哲さん!その秀平くんが言っている唯一の動機と『ヒビキ』の言葉、繋がりを感じませんか?」
「朝比奈もそう思うのか。俺も聞いた時に思ったんだ。だからこの『ヒビキ』を調べてみたら、何か分かる気がするんだ。しかし、秀平くんと直接、関わっているわけではないから、本人には聞けない。そこで、若者の朝比奈くんにお願いしたいんだ。ネットを使って『ヒビキ』のことを調べてほしい」
「分かりました。確か、正信さんのパソコン押収しましたよね?もしかしたら、自分の携帯ではなく、パソコンで見ていた可能性もあるので、履歴を調べてみます」
「朝比奈くん、やけに冴えているではないか」
「経験からです。僕も、兄のパソコンを使って、色々検索してましたから。色々ですよ。色々」
いやらしい笑顔で得意そうに言っている。思わず俺もつられてニヤついた表情になってしまった。
久しぶりに大きな事件もなく、早い時間に退勤できた。ジャケットを羽織り、自転車に跨った。帰り道に、お気に入りの惣菜屋がある。そこの切り干し大根は絶品だ。初めて食べた時、お袋の味に似ていて驚いた。仕事柄、終わる時間が不規則のため、滅多に寄れないが、もしかしたらまだ、間に合うかもしれない。また全速力で漕いだ。
……残念。十八時で閉店だった。
「ちくしょう。間に合わなかったか。毎日神経をすり減らして頑張ってるのに、食べたい物も食べられないのかよ」
思わず腹が立ち、愚痴ってしまった。次は確実に食べられるようメモをしておこう。
『アイディール』営業時間 十一時から十八時。
定休日 日曜。
そういえば、ここのお店は、母と娘の親子で経営してるようだ。前回、寄った時常連さんらしき人が話していた。娘さんの方は、まだ未成年のように見えたが、家業を手伝うなんて偉いなと思った。二人とも仲が良さそうで、それに美人親子。惣菜目当てではない客もいるかもしれないと、下衆な考えをした自分に、腹が立った事を思い出した。
今回の事件のように、親を殺してしまう子供もいれば、親と一緒に働いている子供もいる。親子であろうと、人間対人間なわけで、他人との付き合いよりも、複雑なのかもしれない。親だからこそ、許せない。子供だからこそ受け入れられない。『親子』という言葉の呪縛に苦しんでしまうのかもしれない。そういえば、お袋は元気にしているのだろうか。
「はい。村橋です」
「まだ起きてたか。お袋元気かい?」
「どちら様ですか?」
「おい、哲だよ。息子の哲。久しぶりすぎて、声も忘れちまったか?」
「どちら様の哲さんでしょう?」
「あぁ、納豆嫌いの哲です」
「私の息子に間違いないわね。どうしたのよ急に。それより、最初に『納豆嫌いの哲です』って言いなさいよ。めんどくさいわね。二度もどちら様ですかって聞いちゃったじゃないの」
お袋は一人暮らしの為、詐欺に合わないよう合言葉を決めた事をすっかり忘れていた。
「その様子なら元気そうで安心したよ」
「元気に決まってるでしょ。私も忙しいのよ。何か用事でもあるの?電話なんかしてきて」
「いや、別に用事はないけどさ、しばらく連絡してなっかたし電話でもしてみようかと」
「あ、そう。どうせ今年の年末も帰って来られないでしょう。もうみんな、どうせ帰ってこないと思って、聞きもしないわよ」
「年末は無理だな。そのうち休暇をとって帰るようにするよ」
「無理しなくていいわよ。私はまだまだ元気だし、自分の心配をしなさい。それから今度電話してくる時は、手間を取らせないで、合言葉をすぐ言いなさい。時間を無駄にするのが一番嫌いなの知ってるでしょ。それじゃ忙しいから切るわね」
一方的に切れた。相変わらず早口で、俺の話しを聞かない。元気なのはいいが、少しだけ寂しい気持ちになった。
「感傷に浸るなんて俺も歳をとったな」
……なんだろう。この感じ。昔から変わらないお袋の態度に初めて苛立ちを感じた。まるで邪魔者扱いをされている気分だった。俺自身、特に親の事など考えずに過ごしてきた。仲が良くもなく、悪くもなく、お互いに干渉をしなかった。しかし今の時代、『友達親子』という言葉が存在する程、親子の仲は昔と随分と違うらしい。昔の自分を振り返ってみると、お袋との思い出など数える程しかない事に気がついた。
「お袋は俺のことをかわいいと思った事があるのかな」
言葉にしておきながら五十代半ばのおじさんが何を言っているんだと自分自身に引いた。起きていると余計なことを考えてしまいそうだから、今夜はもう寝よう。
眠りにつこうとした時、スマートフォンの大きな音で、目が覚めた。音量に驚いたが、この大きさでもたまに気付かない時がある。画面に表示されたのは、朝比奈の携帯だった。
「お疲れ様です。こんな時間にすみません。まだ、起きてましたか?」
「お疲れ。寝るところだったが、どうした?まさか、まだ署にいるんじゃないだろうな」
「あ、はい。まだ署にいます。タイミングが悪くてすみません。衝撃的な事実が判明しまして……。すぐにでも哲さんに報告したかったんです」
「仕事が早いな。それで、何がわかったんだ」
「モデルの『ヒビキ』は、本名、『九条 響』現在、二十六歳。今から十年前、十六歳の時に両親を亡くしています。原因は火事による焼死です。事故として処理されていますが、当時の調書を見ると一つ引っ掛かる内容が書いてあるんです。司法解剖の結果、両親の遺体の肺は綺麗だったそうです」
「死因は焼死だろ?それなら、肺に煤がついているはずだ。煙を吸い込むのと同時に煤も吸ってしまうわけだからな」
「そうなんです。しかし、目撃情報も皆無、現場も火事によってほとんど証拠も採取できなかったようです。消防の見解によると、火元は鍋の空焚きのようで、事件性か低いとの判断になったようです。そこで、唯一の生き残りで証言者でもある子供の『ヒビキ』なんです」
「謎が残っているのに事故として処理されているのか……」
「当時の担当刑事も、調べておきました。もう引退されていましたが、連絡が取れました」
「よくやった!直接、会って話を聞きたいな」
「ありがとうございます。僕もそう思ったので、お願いしてみたところ、明日の十四時に署まで来てくれるそうです。名前は、杉田さんです」
「驚いた。そんな段取りまで、できているのか。明日一緒に話を聞こう。だいぶ冷え込んできたから、体を冷やさないように気をつけてな。遅くまでお疲れ様」
「ありがとうございます。僕は自転車じゃないので、大丈夫ですよ」
「嫌味な奴だな。もう早く帰れ。明日寝坊するなよ」
「はい。暖かくして休んでください。では、失礼します。おやすみなさい」
「おやすみ。また明日」
完全に頭が冴えてしまった。一体『ヒビキ』は何者なんだ。最近起きている親殺しの犯人と同じ年齢の頃に、自分の両親も死んでいる。偶然なのか……。それとも、必然なのか……。少ない情報から考えても仕方がない。少しでも頭を休めるため無理矢理、目を閉じた。
電車で通勤しようかと思ったが、やっぱり自転車にした。人混みに揉まれるくらいなら、寒い自転車の方が何倍もマシだ。
「哲さん!おはようございます。あれ?また自転車ですか?」
「おはよう。いちいちうるさい。俺が何で通勤しようと関係ないだろ」
「関係ありますよ。風邪でもひかれたら困ります。心配してるんです」
「ご心配ありがとうございます。何年も自転車通勤ですが風邪を引いた事などありませので大丈夫です」
朝比奈は敬礼をし、自分の机に向かって行った。イラッとしたが何故か憎めないやつだ。
約束の時間までに雑務を済ませ、残った時間で『ヒビキ』の事を調べてみた。オッドアイの画像がたくさん表示された。真似をしている若者の画像もあり、ずっと見ていると不思議な感覚に陥る。
「哲さん、杉田さんがお見えになりました」
急いで応接室に向かった。
杉田さんは、初老で小柄な人だった。
「初めまして、村橋と申します。突然のご連絡、驚かれたと思いますが、わざわざ出向いて頂き、ありがとうございます」
「とんでもない。そちらの若い方が、電話をくれた朝比奈さんかな?」
「はい。ご挨拶が遅れてすみません。この度はご協力に感謝いたします」
二人で頭を下げた。
「そんなにかしこまらないでほしい。もう引退して、今はただの爺さんだよ」
「そんな、とんでもないです。引退なされても大先輩に変わりはないです」
「お気遣いありがとう。挨拶はこの辺にして本題に入ろう」
「はい。よろしくお願いいたします」
「十年前に起きた九条さん夫婦の事件は、今でも鮮明に覚えているよ。娘の名前は、響。彼女は火傷を負っていた。命に別状はなく両親の死を目の当たりにしても、すごく冷静だった。顔中、煤だらけでも驚くほどの美人だったんだ。刑事であろう人間が特別な感情を抱いてしまいそうな程だった。あの目に見つめられると彼女の言ってること全てが真実に聞こえてしまい、両親の死因にも疑問を感じたが、その後、捜査することなく事故として処理をした」
朝比奈と目が合った。とてもベテラン刑事がする行動だとは思えない。きっと朝比奈も同じことを思っているだろう。
「その、彼女が言っていたことは覚えてますか?」
「もちろん覚えている。どうやら九条夫婦は不仲だったらしく、事件が起きた夜も大きな喧嘩をしていたらしい。日常化していた為に、特に気をに止めていなかったようだ。 現場に着くと、彼女は救急車の中で話してくれたんだ。『夜中に焦げ臭い匂いで目が覚め、リビングに行くとガスコンロから火が上がっていた。消化を試みたが火の勢いが強く、命の危険を感じて外に飛び出した』勇気ある行動をしたなと思ったね」
「その時に響さんは、ご両親のことについて何も言わなかったのですか?」
「言わなかった。俺も不思議に思い、彼女に聞いたさ。『私がリビングに行った時、すでに二人とも死んでました。いつかこうなると思ってたんです。いつも、血を流すほどの喧嘩をしてましたから』無表情で淡々と言ったよ。十代の子が気丈に振舞っている姿がなんとも痛ましかったな」
「出火の原因は鍋の空焚きでしたよね?火が回り始めた時、既に両親は亡くなっていたのだから火をつけたまま何かが起こったと言うことになりますね」
朝比奈の見解に俺も頷く。
「それか、亡くなった後、誰かが鍋に火をかけた」
杉田さんと朝比奈が同時に俺の顔を見た。ためらわずに続けた。
「煙で目が覚め、リビングに降りて行った。そこで、すぐに両親の死亡を確認し、消火活動をした。そして、命の危険を感じ、飛び出してきた。人それぞれですが、少なくとも人が亡くなっている事を目の当たりにしたら動揺するのではないかと。無駄な動きがなく、初めからシナリオが出来ていたかのようです」
「彼女を疑っているのかね」
「疑ってるというか、その状況でよく全てを覚えていて冷静に話す事が出来たなと思うんです。仮に両親が死んでいたとしても、助けを求めるんではないかと。まるで、遺体が焼ける事を望んでいるかのように感じるんです」
「まさか、考えすぎじゃよ。捜査した結果、火元もはっきりとしているし、不審な部分はなかった。事故で間違いない。頭も良さそうだったし、パニックにならず冷静に対処できる子だったんだろう」
当時、実際に現場に居合わせたのは杉田さん本人であり、今更この事件に違和感を感じたところでどうにもならない。
「僕の考えすぎなのかもしれません。すみませんでした。わざわざ足を運んでいただ上に、お話まで聞かせてくださったのに否定するような言い方をしてしまいまして」
「謝ることではない。刑事として立派だど思う。人の話を鵜呑みにせず、常に疑うことは大事なことだ。しかし、今回は残念ながらこれが真実だ」
これ以上聞くことはない。仮に、今更違う情報があったとしても杉田さんにとっての真実が変わる事はないだろう。
「お忙しい中、貴重なお話をありがとうございました」
「忙しくなんかないさ。時間を持て余している老人じゃよ。現役の時は、もっと時間がほしいと思っていたが、実際時間があると持て余してしまう。人間というものは無い物ねだりで、実に身勝手な生き物だとつくづく感じるよ。ところで何故、急に十年も前の事件を調べているんだい?」
やっぱり聞かれたか。このまま終わらせたかったがさすがに元刑事に通用するはずもなかった。
「現在の響さんの事はご存知ですか?」
「もちろん知ってるとも。相変わらずの美人で一目見た時にあの、響ちゃんだと分かったよ。片方の目の色が違うところも変わっていないな」
「今、捜査している事件の容疑者が、響さんのファンでして、何か関連性があるのかを知りたかったんです。……杉田さん?今、片方の目の色が違うと言いましたか?」
「言ったが、それがどうかしたのかい?片方だけ珍しい目の色をしていたから『素敵な目だね』と、言ったんだ。そしたら悲しそうな表情で、『褒めてくれたのは、刑事さんが初めてです。そんな風に言ってくれる人もいるなんて、前向きに生きられそうです』と、わずかに微笑んでくれたよ」
目の色が違う?確か『ヒビキ』はコンタクトをし、片方の目の色をわざと変えるファションをしていると、颯太くんが言っていた」
「その、彼女の目の色が違うのはファッションでしたか?」
「ファション?いや、徐々に色が変わってきたと言っていたから、違うと思うな」
一体、どういうことなんだ。
「私の話は、お役に立てたかな?」
「はい。今日はお寒い中、貴重なお時間とお話をありがとうございました」
「またいつでも、私でよければ協力させていただくよ」
杉田さんは丁寧にお辞儀をして帰っていった。元刑事とは思えない穏やかな人だった。俺も退職したらあんなふうに穏やかな人間になれるのだろうか。
朝比奈は真剣な面持ちで頭を抱えていた。
「哲さん。僕も、話が出来すぎていると思います。まず、家が火事になっている時点でパニックです。その後、両親の遺体に遭遇する。もう大パニック確定ですね。僕ならその場で気を失ってしまいますよ。もしこの話が事実だとしたら、響は一体、何者なんですかね」
「そうなんだよな。仮に、仮にだぞ、この響がなんらかの方法で両親を殺害し、証拠隠滅のために家ごと燃やしたとしよう。でも何の為に?その動機が解明されることはない。もちろん、決定的証拠でもない限り逮捕だって出来ない。秀平くんが惹かれていた人間の過去を知り、影響されて自分も両親を殺害したとは思えない」
「単なる偶然ですかね。『ヒビキ』の本名は公にされていないですし、この事件を見つけた時は、よっしゃ!とおもんたんですが、どうやらハズレのようです」
「いや、そうでもないかもしれない」
「はい?哲さん、さっきまで『ヒビキ』の影響では、なさそうだと言ったばかりじゃないですか」
「そうなんだか、聞いてくれ。杉田さんが、響ちゃんの目の色が違うところも変わっていないって言っていただろ。秀平くんも片方だけ目の色を変えていたのさ」
「それがどうしたんですか?だって、『ヒビキ』はオッドアイの発信者ですよ?若者が真似をしているのは、何の不思議もありません」
「秀平くんが、唯一語っている動悸はなんだ?」
「えーっと、『見たいものが見えた』です」
「それで、オッドアイの宣伝に使われている、キャッチフレーズはなんだ?」
「確か、『ずっと、見たかったものが見えます』です。そこに関連性があるかもしれないと思い、『ヒビキ』の事を調べた訳ですけど……」
やっぱり繋がった。秀平くんは『ヒビキ』に影響されていた。
「も、もしかしてオッドアイにした事で、両親を殺害したんですか?そんな、バカな話あります?」
「俺もそう思うが、無関係だとは思えない。でも、何が見えたのかが分からないんだ。秀平くんの、動機解明まで後一歩の所まできているのだかな」
分からない。何が見えたんだ。九条響、君は一体、何がしたいんだ……。俺も目の色を変えたら、君の事が分かるのだろうか。
「哲さん。一つ質問があります。少し前から疑問に思っていたのですが、どうして秀平くんの動機解明に、ここまで拘っているのですか。犯人も逮捕されている訳ですし、事件としては収束に向かっています。動機を語るか、語らないかは、本人が決める事ですし、僕たちが動機に辿りつくのは難しい事だと思うんです。ごめんなさい。生意気な事を言って」
「謝らないでくれ。確かに、その通りだな。忠告してくれてありがとう。俺まで、『ヒビキ』に翻弄される手前だった。危ない、危ない」
笑顔で答えたが、冷や汗が止まらない。朝比奈の言う通りだ。俺は、秀平くんに拘っていたわけではない。冗談交じりに言ったが、「ヒビキ」に執着し始めていた。目の色を変えようと思ったのも事実だ。今が潮時だ。これ以上、深入りしない方がいい。自分の直感を信じよう。
「朝比奈、俺に付き合ってくれて本当にありがとう。秀平くんの事は、本人に任せよう」
颯太くんにも電話をしておこう。秀平くんに手紙を書く事は出来ると伝えるために。
-ボクノキモチ-⑥
トワに一緒に居られるように
僕は二人の目玉を
入れたキーホルダーを作ったんだ
僕にも宝物が出来たよ
心から愛しているよ
-オヤコノコト-
思ったよりも寒くなり、今にも雪が降ってきそうだ。十二月も終わりに近づき、最終セールのおかげで安い買い物が出来た。
「理愛、買いすぎじゃない?」
「いや、一華もたくさん買ったじゃん。帰りのバスと電車、大丈夫かなぁ。ちょっと調子にのりすぎた」
「だよね。重いけど頑張って帰ろう」
昨日からずっと、スマホの通知をオフにているのに何度も画面を確認してしまう。それならいっその事、解除すればいいのに、やっぱり通知が怖い。しかし、嬉しい事にママからの着信は一度もなかった。生まれて初めて、誰にも邪魔されずに思いっきり遊べた。来年は十八歳だ。成人になれば出来ることが増える。就職をし、家を出ようかと考えている。
「ねぇ、一華。高校卒業したらどうするの」
「管理栄養士になりたいんだ。『食』で人の力になれるってすごい事だと思うの。例えば、患者さんの病状に合わせた献立を考えて、サポートすることができるの。だから、専門学校に通わせてもらう。パパとママはさ、過保護気味だし、家から通える学校なら安心しだし。実際、私自身も実家を出て、一人暮らしなんて無理。甘やかされて育っちゃったから」
「甘やかされたんじゃなくて、愛情たっぷりに育ててもらったのよ。やりたい事があるのって素敵だよね。私なんて、ママから離れられれば何でもいいかなって、漠然としか考えられてないんだ」
「そんな事ないよ。まぁ、理愛がママと離れたい気持ちは、すごく分かるよ。ずっと傍で苦しんでる姿を見てきたから。でもね、怒らないで聞いて。理愛のママってすごいなって思う所もある。だってさ、一人で娘を育ててきて、自分のお店も切り盛りしてる。それに『食』でお客さんを笑顔にしてるんだよ。自分が大人になるにつれてさ、世間とか、社会とか少しずつ見えてきて、生きていくのって大変だなって思うから。理愛の事を否定してる訳でもないし、理愛ママの味方をしてる訳でもないよ。それだけは分かってね。でも、本当にすごいなって思う」
返す言葉がみつからなかった。頭のどこかで分かっていた事をストレートに言われたからだ。でもやっぱりあんな母親とは一緒にいたくない。
「確かに、一華の言う通り、一人で生きていくのは大変だと思う。でも、やっぱり私は、ママから離れて自分の人生を生きたい」
「何にも漠然とした考えなんかじゃないよ。自分の人生を生きたいなんてかっこいい。親に頼らず、責任を自分で持つって事だもん。結局、私なんてさ、学費だって親に出してもらう訳だし、甘ったれてるの」
「私達、自分の事になると、自虐的になっちやうね。まずお互いに必要なのは、自分に自信を持つことかも」
「そうね。ところでさ、理愛ママから連絡来た?」
「それがね、一回も来なかったの。実は、通知が怖くてさ、オフにしてたんだけど、鳴らなかった。お店も年末休暇だし、のんびりと過ごしてるのかも」
「そうだといいけど。さすがに、旅行先から帰ってこいとは言わないのかもね。理愛ママからの呼び出しもなかったし、これなら、毎年恒例で来られそうじゃない?」
「来られそうじゃなくて、来よう」
来年の旅行を約束し、駅で一華と別れた。楽しかった時間は、あっという間に過ぎてしまい、家に帰る足取りが、いつも以上に重く感じる。
「考えて買い物をするんだった。この紙袋、持ち手が細くて、腕に食い込むんだよね。痛いし、重いし、寒い」
帰ることが憂鬱で、小さなことにも腹が立ってしまい、口に出せずにはいられなかった。
「本当、使えない親。調理師免許をなんかより、車の免許のほうが大事でしょ。こんな田舎に住んでて、運転できないなんてありえない」
家についた頃には、寒かったはずのに、怒りで体が熱を持ち、汗ばんでいた。
「ただいま。なんで電気つけてないのよ。真っ暗で何も見えないんだけど」
この静けさからすると、ママは出かけているのかもしれない。それはそれで、顔を合わせずに済む。リビングの電気を付けた。
「うそ。何これ」
引き出しの中身がひっくり返され、リビングが荒らされている。
「ちょっと、ちょっと、どうしたらいいのよ。警察に電話した方がいいよね」
独り言が止まらない。
「あれ?でも、私、鍵を開けて家に入った。え、もしかして、まだ犯人が家の中にいる感じ?え、怖い。まじで、パニックだわ」
深呼吸をし、とりあえず、自分を落ち着かせた。冷静になり、部屋を見渡してみた。すると、ママの部屋から、微かに光が漏れている。
「もうやめてよ。見に行くの怖いんだけど」
すぐに、通報できるよう、スマホに110番を表示させたまま部屋に近づいた。
スマホの灯りで、足元を照らしながら進んだ。床に落ちている紙や、写真にも光があたる。どれも見覚えのあるものばかりだ。しかし、ドアの前に落ちているノートには見覚えがなかった。ママの部屋を見ることが最優先なのは、分かっていながらも何故か、ノートを開かずにはいられなかった。
「日記?」
そのキャンパスノートには、日記と呼べるほどの内容ではなく、乱雑にぎっしりと、ママの字で埋め尽くされていた。時系列もバラバラで読みにくい。パラパラとめくっていると、紙を貼り付けてあるページが目に留まった。
『ままのろーすとびーふはせかいいちおいしい』
雷に打たれたかのように動けなくなった。そして、自分の鼓動が聞こえる。息苦しさを覚えるほど、脈が早くなっていく。私が書いた物に間違いない。初めて、ろーすとびーふを食べた時に書いたんだ。手紙を渡した時、涙を流しながら喜んでくれて、ギュッと抱きしめてくれた。柔らかくて、いい匂いがしたママを思い出した。
「どうして。どうして、言ってくれなかったの。『小さな子でも読めるようによ』なんて、そんな嘘をついたの」
だめだ。涙が止まらない。本当のことを言ってくれてたら、私だって素直になれたかもしれないのに。
「そうだ。ママの部屋を見ないと」
涙を拭って、ドアを開けた。この状況で不自然に感じたが、ママは眠っているように見えた。
「寝てるの?」
手に何かを握っていて、ベッドの周りにも白い錠剤が散らばっている。背中がゾクっとした。何度も呼んだが、反応しない。
「やだ、やだ、嘘でしょ。何で?何でなの?」
頭の中が混乱し、手も震えて、うまくスマホを操作できない。
「救急車を呼ばないと……」
数分後に、到着した救急車の中で手を握った。ママに触れるのは何年振りだろう。こんなにも指は細かっただろうか。今にも折れてしまいそうな腕、小さな手。幼き頃のに握った手は、弾力があり、柔らかかった記憶がある。一体、どれだけのものを抱えたらこんなにも変わってしまうのだろうか。考えただけで、胸が締め付けられる。
救急隊員によると、薬の過剰摂取によって意識を失っているが、命に別状はないらしい。ただ、消化管内に残っている薬を排除するために、胃の洗浄などの処置が必要らしい。その為、数日の入院が余儀なくされる事となった。
「ごめんね。私、誤解してた。愛されていないって思ってた。早く元気になって。話がしたい」
病室のベッドで、意識の戻っていないママに謝った。
いつの間にか、眠ってしまったらしい。嗚咽が聞こえ、目が覚めた。急いでナースコールを押した。
「すみません!意識が戻りました!気持ち悪いみたいです」
「すぐに行きます」
慌ただしく病室に入ってきた看護師さんに、外に出てください、と大声で言われた。とても苦しそうな声が、静かな廊下に響いている。
「娘さんですよね?先程は、雑な扱いをしてしまい、すみませんでした」
「いえ、こちらこそすみませんでした。それで、母の様子はどうですか」
「意識は戻られました。しかし、体内から薬が抜けるまで、しばらくの間、苦しい思いをされると思います」
「そうですか。わかりました。意識が戻ったなら、ひとまず安心しました。なので、着替えなど取りに、一度自宅に戻ります」
看護師さんとナースセンターに向かい『入院案内』のパンフレットをもらった。母親が自殺未遂をした娘に気を使っているのか、余計な詮索をされずに救われた。看護師さんにお礼を言い病院を出た。
今にも雪が降ってきそうな、分厚い雲が空を覆っている。通勤時間帯だが、年末だからであろう。さすがに人が少ない。慌てて救急車に乗ったので、コートなど持っていない。絶対に寒いはずなのに、寒さを感じないほど、頭の中はママで占領されている。
「結局、歩いちゃった」
病院からバスに乗ろうと思っていたが、いつの間にか家にたどり着いていた。
「少し、休みたい。体力的にも、精神的にも疲れた。……でも、このままじゃ休まらない」
重い腰を上げ、片付けに専念した。幼い頃の写真、紙切れに書いてある絵まで残してある。
「こんなのまで残してあったら、キリがないし膨大な量になっちゃうよ」
批判しながらも、本当は泣いている。何度も涙を拭い、キャンパスノートを手に取った。情緒不安定な心を、映し出しているかの様に、支離滅裂な内容が多い。
『私は毒親なんだ。この子に毒を盛ってしまったんだ。解毒剤をあげなくちゃ。でも、解毒できるのは、毒を盛ってしまった私しかいないんだ。私が全部いけないんだ』
『最近、目の色が片方違う。この目をずっと見ていると気味が悪い。でも、この子の本質が変わったわけじゃない』
『ハンバーグが作れない。あの夜を思い出させてしまうから』
『口にピアス?鼻にも?何をしても可愛い私の娘』
生きていてくれてよかった。私のことなんて興味がないと思っていた。何よりも、誰よりも大切に思っていてくれていた。心の病が素直に気持ちを伝えることを邪魔していただけだったんだ。親は、子供の気持ちを理解するのが当たり前だと思っていた。自分を理解してもらいたいのなら、まず相手のことを同じ様に思わなくちゃだめなんだ。親だって人間なんだから……。そうは言っても、長い年月の間に出来てしまった溝はそう簡単には埋まらない。私を置いていこうとした事に対しては、許そうと思う。少しずつ、私から寄り添っていこう。
退院出来たのは、年が明けてから数日経った頃だった。ママは嫌味を言えるほど元気になった。意識が戻った日の夕方に病院を訪れた時、二人とも大泣きをした。お互いにひたすら謝り続け、何に対して謝罪しているのか分からなくなり、何故か笑い合った。それから、毎日、面会時間ギリギリまで病院で過ごし、色々な話をした。自分の父親の話を聞いた時は、吐き気がした。ママは、自分の母親に捨てられた事も知った。
「明日でおやすみが終わりね。仕込みしないと」
「もう大丈夫なの?」
「大丈夫よ。薬は全部、抜けたんだから」
「その返しやめて。返答に困る」
触れたくない部分なのに、自虐的にでも口に出せるという事は、向き合えている証拠だと思う。
「実はね、どこかに就職して、この家を出ようと思ってたの。でも、やめた」
「どうして?お店の事や、ママの事とか気にしてるなら、やめて。理愛は自分の人生を生きて欲しいのよ」
「やりたいことが出来たの」
ママの入院中、面会時間が終わってから、毎日のように一華に会った。私も一華のように『食』で人を元気にしたいと思ったからだ。高校を卒業していなくても、取れる資格があると知った。
「食生活アドバイザーになりたいの。お客さんの力になれるかなって。それに、『食生活アドバイザーがいるお店』なんてちょっと、カッコよくない?もちろん、調理師免許も取る」
自分には有難いことに環境が整っている。私は決めた。ママとお店を守っていく。
桜が散り始めた頃、食生活アドバイザーの試験に合格をした。
「理愛ちゃんおめでとう。今日のお夕飯は、ハンバーグにしましょうね」
「ありがとう。なんかさ、小さい子を相手にしてるみたいな言い方やめてよ。照れくさい」
「ママの素直な気持ちを言ったのよ。相変わらず、言い返してくるわね。あ、そうだ!新作のお惣菜を決めたの」
「何にしたの?」
「ハンバーグです」
「お祝いでハンバーグを作ってくれるんだよね?新作の試食も込みじゃない?」
二人で顔を見合わせて笑った。運動会の夜の出来事を乗り越えられた。
夕方になり、お惣菜の残りも少なくなってきた頃、自転車に乗ったおじさんが来店した。
「すみません。切り干し大根は終わってしまいましたか?」
「はい。ごめんなさい。今日の分は売り切れてしまいました」
「そうですか。残念です」
「切り干し大根は、定番メニューなので、また寄ってください」
肩を落としてしまう程、残念がっていた。もう少し、作る量を増やそうか悩むところだ。それより気になったことがある。
「さっきの男の人、オッドアイにしてなかった?」
「あの、おじさんが?」
「そう。絶対そうだよ。『ヒビキ』の人気って年齢層の幅が広くて驚き」
「ママもオッドアイにしてみようかしら」
「やめてよ。川島さんに笑われるよ。明日は、啓介くんとデートだから、よろしく」
ウインクしたママがとても綺麗だった。
-エピローグ-
久しぶりに帰ってきた我が家にはもう誰もいない。それでも俺は、生きていかなければならないのだ。弟がした事は決して許されない。しかし、たった二人きりの兄弟だ。秀平が罪を償うのをこの家で待とう。
自分の部屋もあの日のまま、時が止まっている。空気をいれかえようと思ったが、部屋の窓が開かない事を忘れていた。
散らかったテーブルの上に置いてある見覚えのない雑誌が、目に留まった。こんなに汚い部屋でも、自分の物ではない物くらいは、分かる。『ここを見ろ』と誘導されるかのように、開かれたままのページを覗いた。そのページは、オッドアイを流行らせた『ヒビキ』が映っていた。その雑誌の横に、何かを印刷した紙が置いてある。誰かの日記のようだ。日記といっても六ページしか書いていない。なぜだろう。一ページずつ、カタカナに丸をつけてある。
ヒ、ビ、キ、ノ、コ、ト。
「ヒビキノコト?」
秀平が唯一、語った動機を思い出した。
『僕はキーホルダーを作りたかった』
正信は奇声を上げ、その場に倒れた。『ヒビキ』は身につけていたのだ。目玉が二つ入ったキーホルダーを……。
-終-