序章
上下左右の基準すら無い。ガスと放射線にまみれた暗闇を幾億年かけ旅してきた光が照らす。
無人探査機コヨイ六号は太陽系の遥か先、空漠とした世界を漂っていた。敷き詰められた配線と無数のコイルインダクタの奥、複雑に組まれた基盤の中に今回の計画の核を担うコンピュータが内蔵されている。その精密機械たちを守るのは滑らかな曲線を描く美しい外殻と翼を模した光電池パドル。孤独を感じぬその一機は無限とも言えるほどの広がりの中で淡々と任務をこなしていた。一九九四年に提唱された『アルクビエレ・ドライブ』――機体前方の空間を圧縮し後方の空間を拡張する。相対性理論に基づいた超光速移動を可能にし、物理法則に反さないとされるワープ航法――は科学の進歩にともない、徐々に現実味を帯びていった。しかし実際にそのワープを実施した機体の半球型の電気水素防壁は拡張空間の歪みに耐えきれず三分の二が吹き飛ばされ、六角形状の伝導鉄線から引き?がされた水分がワープバブル内で浮かんでいた。破損した防壁が本体の一部を削り、バブルの厚さを維持するためのネオジウム磁石が割れ、予定していた移動距離の半分で運航停止し、長距離ワープ航法の運用実験は失敗に終わった。襲い掛かる質量の増減で機体は空間に沈み込み、収縮と膨張が繰り返される中、正常に働いていることを示す青い点滅と通信中に作動するランプが赤く光った。時間と光が遠ざかり、そこには宇宙の誕生の時と同じよう何もない暗闇だけとなった。
宇宙航空研究開発機構管制室。二十四時間体制で動向を見守る運用管制官の高橋は特売で買い溜めた増量カップラーメンと倉庫から漁ってきた宇宙食のティラミスを食べ終え、うたた寝をしていた。突如入ったコヨイ六号からの通信に驚き、箸を床に落とした。椅子から下りずに手を精一杯伸ばして拾おうとしていると後ろに気配を感じ、左手でよだれを拭きながら姿勢を正した。
「距離は」丁度横を通り、報告を聞いたのは愛娘から貰った十二年愛用しているマグカップ片手に管制室を徘徊していた井上であった。
「九百光年離れた位置にいます」
「お釈迦にはなっていないだろうな。近くてよかった。銀河から出られたら敵わん。だいたいワープなんて机上の空論を実用化しろってのが無理難題だ。ここだけの話、あっちの宇宙局にこのこと――極秘らしい」
近年の宇宙航空技術の開発争いでは、冷戦から続いた合衆国のが終わりを告げた。きっかけは十五年前に遡る。環境破壊阻止を掲げた合衆国側の民間団体が他国に対し環境監査を仕掛け、止めた製鉄所の鉄を丸々自国に持ち込む算段が発覚した。もちろんその団体の背後には政治が絡んでおり欧州から激しい非難を浴びる騒動となった。危うく戦争になりかけたこの騒動は当時の女性大統領辞任と上院議員の総入れ替えにより早期鎮火した。
「アイアン・キッド事件からうちは右肩上がりですから」
小さな島国の宇宙事業はこの一件と一人の学者の功績により独自の開発が進み、世界でも群を抜く実績を残していた。
「不備はないだろうな。週末は地球が滅びても家に帰らなければならん」
「記念日ですか?」
井上は端末の画面に映る、当時五歳の娘を抱きかかえる妻の画像を見た。
「十八年になる。プロポーズした海岸沿いのレストランで結婚記念を……この観測データはなんだ?」
珈琲片手に戻ってきた高橋に画面を指さし聞いた。
「それ、また〇と一の数列でしょう。ボイジャーと同じなのがなんとも」
立ったままマウスをいじる井上を横目に顔に当たる湯気を優しく吹き、温度調節を間違えた眠気覚ましの一杯を丁寧に啜りながら答えた。
「……いいや。これは――光の観測、逆行運動」
「そんなこと……観測誤認ですよ。あり得ません」
高橋は眉をひそめ雑にコップを置き、マウスを奪い画面を覗く。
管制室全体から鳴る電子音とキーボードを叩く音。そしていびき。二人のあわただしい様子は徐々に広がってゆく。井上はマグカップを机に優しく置き、妻に記念日は帰れないと連絡すると端末の電源を落とした。
「今週のビーチはキャンセルだ」
――二〇二六年に誕生したスーパーコンピュータ『飛越』はのちに人類の限界と謳われ、二〇四五年に到来するとされた人類と科学における技術的特異点を人類の予想よりも早くもたらした。その後、約九年の歳月をかけた計画は無事に最終段階へ進み、飛越自体とその人工知能を搭載した無人探査機『コヨイ 六号』が開発された。打ち上げ成功から二十年後、送信された観測データは新しく宇宙の常識に追加されることとなる。しかしこれは加速する時代の第一歩にすぎなかった。
そして、二〇五五年現在。
「そちら側の主張はもちろん尊重しています。ですがその前にこのデータの正確性が争点では?」
「あり得ません。飛越は壊れていない。状態は毎秒監視しているのですから」
煙草の灰が溜まりに溜まり、頭を抱える学者の一人が十数杯目の珈琲を淹れてきた職員に机の上の灰皿を全て取り替えるよう指示する。乱暴に口元に持ってきた珈琲が資料の端に少しこぼれシミが滲み、広がって乾いた。特殊な重力場で観測された光の逆行現象は、沸き立つ学者陣を差し置き観測誤認を疑う職員と事実確認を急せす上層部とで三つ巴が起きてしまい、話し合いは平行線を辿り、すでに一週間が過ぎていた。
「少し、早いですが休憩にしましょうか」
職員達は足早に会議室をあとにする。
「いやはや仕事は仕事ですが、趣味同然の変態達を相手にすると休日返上が正当化されて困りますね。アインシュタインを墓から引っ張り出せればいいのですが」
「学者のバックに技術者共がいるのが面倒ですね」
化粧室から出て、ベランダに設置してある灰皿を目指す。
空間圧縮と拡張を利用したワープ航法はワープバブルと呼ばれる歪む空間から本体を守る防壁の完成で存外、簡単に出来ることがシミュレーションにより判明した。本体前方の空間を圧縮すればドミノ倒しのように連続的に推進していくが、問題は超光速の移動を目的の位置で停止させることであった。今回の失敗はその解決策であるブレーキ機構にあると考えられ、想定では途中で不具合が生じても圧縮された空間が膨張する際に影響がある力場の外へ弾き出されるとされていたが、実際は前後の歪みの間に取り残されその場に留まってしまった。その失敗による想定外の空間の歪みこそが光の逆行現象を観測出来た最大の理由である。そしてなぜ、飛越のデータの正確性が争点になっているかというと受信時刻から算出した送信時刻と、データに記載されていた時刻に差異があったからである。
「このズレが飛越の不調の最たる証拠ではありませんか。私としても技術チームの方々を疑う訳ではないですが、やはりワープが停止した際の破損が原因であると考えて――」
勇み足で会議室に入ってきた他の職員が発言を遮り告げ口すると、その職員は顔を強張らせた。
学者陣は職員達が光の逆行現象を公式に認めることによって世界に露呈するワープの実験内容の後始末を懸念していることを理解していた。そのため、観測誤認と結論付けられては二度と検証出来ない可能性があった。だからこそ現象の原因究明を急ぎワープと光の逆行の関連性を調べる少しの猶予が欲しかった。そして上層部は時間が掛かることをよしとしない。コヨイの計画書が出来上がってから今日まで約三十年、失敗でも新発見でもコヨイの今後の運用や新規事業を組み込んだ来年度の予算をもう一度策定しなければ、宇宙産業は明日をも知れぬほどひっ迫しているのがその実情であった。それぞれの思惑や思案が会議をより長引かせていた。
「でしたらコヨイの運航データを全て提出します。分からないことがあればいつでも呼び出してもらって構いません」
この日の会議は十五時を過ぎた頃、臨時の役員会議が入ったため中断となり、後日は首相訪問により延期となった。その間、技術チームはコヨイと飛越のデータを見直し正確性の証拠を集め、学者達はあらゆる観点から原因の究明に努めた。一日半で彼らはある可能性を導き出す。
「では、我々の見立てよりもかなり前にコヨイは九百光年先の位置にいたと。そのウラシマ効果であろう概算はまた後で見せていただきます。ここにある空間狭という単語。これは?」
十日が過ぎ泊まり込み組の体臭が気になってきた頃、新説を提唱した杉内班が流れを変える。
「はい。これは重力の発生源を立証する重要なものです。そこでこちらから提唱するのものが宇宙カーテン状仮説になります」数十枚の分厚いレポート用紙を学者の一人が右手で押し出すように掲げた。
「まだまだ研究の余地があるようですが……」職員達は互いに目くばせをしながらその用紙をめくる。
その新説は、空間は宇宙の様々な力と作用により常に風に吹かれるカーテンのようになっていてその歪みを空間狭と呼び、それを観測出来ないのは宇宙の膨張が全ての物体を引っ張っているからであるとする仮説であった。
「つまり、コヨイが挟まってしまったであろう空間狭という谷底のような狭間はどこにでもあって、どこにもないと……」
張り詰めた空気が少しばかりなごみ、「なぞなぞですか?」クスクスと笑い声が聞こえる。
学者陣の熱意と執着とが職員達の商業化に埋もれた探求心を刺激し、形勢を傾けた。
そこで今日の会議で初めて口を開いた武山教授はワープ技術の開発に携わる権威であり、この国の宇宙事業を大いに飛躍させた第一人者である。
「取り敢えずこれからすべきことは、この仮説を立証しつつワープバブルが崩壊していなかったことでコヨイが空間狭に沈む最中に時間に逆行するように遠ざかる光を観測出来たデータを発表し、他国とも連携し数列ではなくその光景を撮影することじゃないのか? 権力や圧力に屈していては人工知能に先を越されてばかりだ」
自らを取り巻くこの世界が大宇宙の一部に過ぎないと理解してから五千年余り。未知への研究は数少ない知識に支えられ、全ての起源を推測するまでに至った。しかしながら二十一世紀半ば、豊かな水の惑星では大地が燃えていた。己の利益のみを追求した結果による戦争、僅かな資源を共有しないことによる飢餓、暗闇の渦に手を伸ばした憎悪。この血の円環は世界に三度目の過ちを呼び込もうとしていた。連続する流れの中で人類は平和を求め歩み続け、ついに一筋の光を掴み取る。
時間を観測するためには重力と光の決定的な観測データが必要であった。相対性理論と量子力学の融合を目指し世界各国はついに手を取り合い、ブラックホール内部の撮影を試みる。技術進歩を銘打つ覇権争いの宇宙開発は事実上の終わりを告げた。爆発的に増加した公開データと新規観測データから世界中から仮説新論が唱えられ、定説が乱立したこの時代は大世紀時代(Eruption of Discovery)と呼ばれた。
科学を震撼させ人類の足並みを揃えさせたその希望の光は――二〇六〇年発表『タイムマシン理論』の構築である。