月下を駆ける狼
揺れていたシルヴェストロの手が止まる。そして彼の青い目が、月からマイロへと、ゆっくり向いていった。
澄んだ青い目には、何の感情も宿っていない。静かに見つめられ、マイロもその目から視線を逸らさずに、シルヴェストロの名を呼んだ。
──狼の姿。
シルヴェストロの狼らしい姿など、出会った時に、酔い潰れて獣耳と尻尾を生やしている所を見ただけだ。完全なる狼の姿をどこかのタイミングで見てみたいと思っていたが、今、この時、この場所が何よりいいのではないかとマイロは思ったのだ。
「月下の花畑にいる狼。そんな光景を目にしたら、何か、書けそうなんだよ」
「……俺をモデルにしない、という取り決めは覚えているか」
「もちろん、それが条件だからね。ここは花畑だし……そうだ、女の子の人狼を主人公にするのもいいかもしれない」
マイロがそう口にすると、シルヴェストロはその青い目を大きく見開いた。何かまずいことを口にしてしまったかとマイロは思ったが、それを訊ねる前に、シルヴェストロの視線は逸らされ、彼は瞼を閉じてしまった。
「……うんと、美人の人狼にしてくれ」
どこか淋しげな懇願だった。その横顔には微かに、後悔のようなものも滲んでいる。
出会って間もないマイロとシルヴェストロ。お互いのことなどまだまだ何も分からない。それでも、そんな彼の姿を目にし、マイロは返事も忘れて、シルヴェストロに手を伸ばしていた。
肩に触れようとも、手を握ってやろうとも、特に何をしてやりたいとも決めずに、ただ、手を伸ばしたが──その手がシルヴェストロの身体に触れることはなかった。
「……っ」
もう少しで触れられそうな距離で、シルヴェストロは身体を丸めていきみだす。すると、彼の身体の表面が激しく波打ち始め、顔や手足など、皮膚が見える場所が毛深くなっていった。
服が消えるのと同時に毛が全身に生えてきた。獣耳と尻尾も現れ、手足や口周りが、人のものから獣の──狼のものへと変化していく。
やがて、マイロの目の前には、一匹の狼が立っていた。
「……シルヴェストロ」
「何だ」
どうやら、会話はできるらしい。
マイロは急いで手帳と万年筆を取り出して、その事実を書き留めた。そして、じっと狼の姿を目に焼き付ける。
黒い毛並みに、青い瞳。
シルヴェストロが人の姿だった時と同じ特徴。その顔にも何となく、人の時の名残を感じられた。マイロの気のせいかもしれないが。
「ありがとう、シルヴェストロ。こんなに間近で狼の姿を目にするのは初めてだろうね」
「そうか」
「……もう一つ、お願いを聞いてもらってもいいかい?」
「できることなら」
「できることだよ。この花畑を駆け回ってほしいんだ」
両手を広げて願いを口にすれば、狼は辺りを見渡し始め、そして、ゆっくりと動き出した。マイロは見逃さないよう、その動きを目で追っていく。
静かに花を踏みながら、前へ前へと進んでいく狼。下を向くふさふさの尾は左右に揺れていた。やがて、速度が増していき──駆けた。
夜の色に染まった宙に、花びらが次々と散っていく。マイロの目に見えるように、という配慮か、マイロの周りをぐるぐると、円を描くように狼は駆けていた。
マイロは息も忘れて狼を見つめる。月下の花畑で駆ける狼を──自分が書くべき物語を、頭の中で組み立てていく。
ぐるぐると、ぐるぐると、駆ける狼と回る作家。──終了の合図は、マイロの尻餅だった。
狼を追って回っている際に、マイロの足はもつれてしまい、そのまま花の上に落下したのだ。
尻餅をついたついでに、マイロはそのまま寝転んだ。
鼻に届く花の香りと、顔に当たる月光。天高く存在する月を眺めていたら、狼がマイロの顔を覗き込んできた。
「平気か」
「大丈夫さ」
口を弧の字に歪めて、手を伸ばす。今度は、狼の顔に触れられた。人間で言えば、頬の辺りか。
その毛触りは存外気持ち良かった。
「シルヴェストロ」
狼を撫でながら、マイロは告げた。
「書けそうだ」
「……それは、良かったな」
「ああ、本当にね」
拒まれないのをいいことに、いつまでも、いつまでも、マイロは狼を撫で続けた。