掴めぬ月
中央に向かって歩みながら、マイロはそっと両手を広げる。そうすると、手が花に当たるのだ。その感触を楽しみながら進み、後ろは一切振り返らなかった。ついてきていると、信じているかのように。
「今日みたいな晴れた日に、日向ぼっこや花摘みを楽しむも良し。たまの雨の日に、傘に当たる雨粒の音を楽しみ、雨露を垂らす花びらを眺めるも良し。冬の雪の日に、白く染め変えられていく花達を眺めるも良し。ここは、ここはそう、本当に──」
素晴らしい所なんだよ。
そう、マイロは言うつもりで、振り返った。シルヴェストロは傍にいなかった。
離れた場所で足を止め、花畑を眺めている。
少し距離はあれど、人狼ほどでなくとも、マイロの目にはシルヴェストロが今、どんな顔を浮かべているのか見えていた。
「……どうしたんだい、シルヴェストロ」
マイロは花が散るのも構わずにシルヴェストロの元に駆け寄った。彼はマイロの言葉に僅かに首を傾げる。その仕草が、何となくマイロには子供っぽく見えた。
「どうしたって、何が」
当のシルヴェストロは、自分の変化に気付いていないようだ。
マイロはそっと、指を持ち上げていき、そして、
「──泣いているんだ。その、綺麗な青い目から、絶え間なく涙が溢れているよ」
シルヴェストロの目の辺りに指の先を向けながら、マイロは静かに告げる。
言われた言葉をゆっくりと咀嚼していっているのか、しばらくシルヴェストロは微塵も動かなかった。やがて、彼の手は動き出し、自身の頬に手を添える。
「……ああ、本当だ」
信じられない、そう言いたげな声音と目をしていた。
手の甲で何度も目を拭うシルヴェストロ。それでも涙は止まらない。マイロはポケットからハンカチを取り出して、シルヴェストロに差し出した。
「使いたまえよ」
「いや、平気だ」
「そんなことをしていたら目を痛める。これで優しく押さえるなり、拭うなりしてくれ」
「……」
何度か、マイロと彼のハンカチを見比べた後で、おずおずとシルヴェストロはハンカチを受け取り、目元を優しく押さえた。
「すまない……」
「気にしないでよ、君は僕のお客様なんだから。それにさ、僕のお気に入りの場所に来て、泣くほど感動してくれたお礼に、何かしたくなったんだ」
「……そうか」
マイロは辺りを見渡すと少し歩き、花が潰れるのも構わずに地面に寝転ぶ。
「寝転んだらどうだい? 人狼なら良い鼻を持っているだろう? 花の香りを嗅げば落ち着くはずさ」
「……」
「ほらほら」
それだけ言うと、マイロは目蓋を閉じ、静かに身体全体で花畑を楽しむ。
吹く風に肌を撫でられ、花の香りに心が安らぎ、背中から伝わる花の柔らかな感触に眠気を誘う。遠くから聴こえる鳥の鳴き声は耳心地の良い子守唄だ。
しばらくマイロが一人で楽しんでいると、シルヴェストロがいた辺りから足音がし、ゆっくりと近付いてきて、一際大きく花や草が踏まれる音を耳が拾った。きっと彼が寝転んだのだろう。
マイロは話し掛けなかった。日向ぼっこは静かにするもの。彼はいつもそうしている。こちらから話し掛けない限り、シルヴェストロの方が声を発することはないはず。
そう、思っていた。
「──妹が見たら、喜びそうだ」
シルヴェストロの低い声が、マイロの鼓膜を揺らす。
「花なら何でも好きだったんだ。実物も、絵や本に描かれたものも、紙で作ったものも、関係なく」
「わお、可愛らしい」
「村の傍にもこんな、花畑があった。一面青い花畑で、父さんや他の兄弟と一緒に山菜取りに行くたびにそこを通り掛かるから、あの子は後ろからついてきて、俺達を待っている間、そこで花冠を作っていた。俺達が戻るとそれを俺や兄弟にプレゼントしてくれたんだ。不器用な子だったから、歪な形の冠だったよ。プレゼントって元気に言いながら渡してくれたんだが、幼いからかその声は舌足らずでな。……可愛かったよ」
「年が離れていたのかい?」
「そうだな、十歳くらい」
「それは、目に入れても可愛いだろうね」
「母さんが早めに亡くなって、女は妹だけだった。だから余計に、守らないといけないって、そう……思って……」
「……」
それからはもう、シルヴェストロは何も言わなかった。マイロからも何かを言うことはない。ただただ静かに寝転んで、この時間を満喫していく。
空が橙色になるまで、ずっとそうしていた。
遠くから聴こえていた鳥の声は聴こえなくなり、肌を撫でる風が少し冷たくなってきた。マイロは上半身を起こしながら二の腕の辺りを擦る。そうして、空を見上げ──口を開いた。
「シルヴェストロ、月が出ているよ」
「……月が」
横に目を向ければ、シルヴェストロも身体を起こしている所だった。じっと、空を見つめている。
徐々に暗くなっていく空。月は悠然とそこにある。
シルヴェストロの手が持ち上がり、その手は月に向かって伸びていく。到底掴める距離ではないが、諦めきれないとばかりに、手は揺れる。口は徐々に開いていき、青い目は月から一切目を逸らさない。
彼の横顔を眺めながら、マイロは無意識に、こんな言葉をもらしていた。
「──狼になった姿を見せてくれないかな」