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異世界旅行記

作者: さば缶

 アルドナ平原を越えてしばらく歩き続けたころ、柔らかな霧が晴れた先にモーレ集落という小さな村が現れた。

連日の雨でぬかるんだ道は、ところどころ水溜りができているものの、朝陽が差し込むとその水面がさざめくように光を放つ。

村の入り口には、粗末な木の門があり、その上には「モーレ集落」と刻まれた彫りかけの看板が吊り下げられていた。

何度も修繕を重ねたのか、文字の輪郭が削れて曖昧な形をしている。

それでも、見知らぬ旅人を迎え入れるかのように、古びた木肌がどこか温かく感じられた。


 門をくぐると、わずかな人影が行き交うのが見える。

まだ朝が早いためか、活気というほどのものは感じられないが、遠くから牛車が軋む音がかすかに聞こえた。

どこかで家畜を飼っているのだろうか、草を噛むような低い鳴き声が風に乗ってくる。

石畳が途切れた場所からは、畑へ通じる土の道が広がっており、そこには紫色の葉をつけたクリスビーという根菜がずらりと植えられていた。

この世界特有の野菜らしいが、しゃきしゃきとした歯応えと甘みが特徴だと、以前どこかで聞いたことがある。


 そんな畑を何となく眺めながら進んでいると、路地の奥で小さな子どもの泣き声がした。

近づいてみると、茶色い髪をひとつに束ねた少女が地面に座り込んでいる。

名前を訊ねると、リーゼと名乗った。

「どうしたんだい、こんなところで」

少女は涙をこらえるような表情で顔を上げる。

「大事なペンダントを落としちゃったんです。母が残してくれた形見なのに…」

そう言うと、もう一度肩を落としてうなだれる。

「このあたりを探したの?」

「探しました。でも、どこにもなくて…村の外れの倉庫や井戸のそばも見て回ったけど、見つからないんです」


 何とも心細そうにしているリーゼの姿を見ていると、放っておけない気持ちになった。

「探すのを手伝おうか。どこから一緒に探す?」

そう提案すると、リーゼはこくりと頷く。

「ありがとう。あなたは旅の人なんですよね。どうしてこんな小さな集落に?」

「アルドナ平原で行商人に会ってね。この先に古くから住む魔術師がいると聞いたんだ。好奇心で足を伸ばしてみただけさ」

そう笑うと、リーゼも少しだけ元気を取り戻したようだった。


 まずは井戸のあたりを探そうと、二人で歩いていく。

村の中心部には石造りの古井戸があり、そこでは年配の女性が桶を傾けて水を汲んでいた。

耳を澄ますと、水面からは小さな翅を持つ精霊の声が聞こえてくる。

井戸の底には、水音妖精と呼ばれる小さな生き物が住み着いているらしい。

彼らは人の目を嫌うが、たまにきらりとした水しぶきを飛ばして、悪戯好きな姿を見せることもあるという。

しかし、今日は特に姿を現すことなく、ただ微かな揺らめきを残すだけだった。

水桶の周りを探してみても、リーゼのペンダントは見当たらない。


 次に向かったのは、村の外れにある使われなくなった倉庫だった。

扉は半分外れかけていて、隙間からは埃の匂いと冷たい風が吹き込む。

リーゼが戸惑いがちに中を覗き込むと、散乱した木箱の奥で何かが動いたように見えた。

身を乗り出して確かめようとすると、灰色リスに似た姿をした小精霊──いわゆる「コロル」という妖精が、驚いたように飛び出していくのが視界の端をかすめた。

コロルは古い建物や木の洞など、人気のない場所に住み着き、小さな宝石や光るものを集める習性を持っていると聞く。

もしやペンダントを拾って巣に持ち込んでしまったのではないかという不安がよぎる。


 懐中のランプを灯して中を探すと、いくつかの古びた布袋や焼き物のかけらが見つかった。

しかし、ペンダントはどこにもない。

リーゼがため息交じりに壁に寄りかかったとき、板の隙間から青白い光がこぼれ出た。

思わず身を乗り出すと、その光は細い筋となって床に垂れ、やがて人影のような形を作り出す。

それは倉庫の精霊と呼ばれる存在か、あるいは過去の魔法の名残なのか。

ぼんやりとした人型の光が、壁際の木箱を指し示すように揺れる。


 その示す先を探してみると、埃まみれの隙間から、銀色の鎖の一部が垂れ下がっているのが見えた。

それをそっと引き出すと、リーゼは息を飲む。

「これ……わたしのペンダント!」

鎖の先についた小さな宝石はまったく汚れもなく、まるで見守られていたかのように輝いている。

リーゼは目に涙を浮かべながら、ペンダントを大切そうに抱きしめた。

「ありがとう。ほんとうに助かりました…」


 精霊の光は薄れていき、倉庫の闇に溶け込むように消えてしまう。

まるで役目を終えたとでも言うかのようだった。

「母さんが言っていたんです。この村には人知れず精霊や妖精がたくさんいて、善意のある人間をそっと手助けしてくれることがあるって」

そう言うと、リーゼはペンダントの宝石を見つめた。

淡い緑色の光が宝石の内部でくるりと回り込み、まるで心の奥底を揺り動かすような温かさを醸し出している。


 その後、村の中心部に戻るころには、すっかり日が高くなっていた。

朝市が終わりかけた広場では、露店が店じまいをしながら、まだ野菜や果物を売りたそうに並べている。

そのひとつに、地元の名産だという赤カボチャやセイル豆、そしてクリスビーの根菜が山積みになっていた。

リーゼはペンダントを握ったまま、「お礼がしたいけど、お金はあまり持っていないんです」と申し訳なさそうに言う。

「気にしないよ。お腹が空いてきたから、何か食べられる場所を教えてもらえると嬉しい」

そう声をかけると、リーゼは少し笑顔を見せて、「じゃあ、あっちに食堂があるんです」と指をさした。


 彼女に教えてもらった食堂は「コロナ亭」という看板がかかった小さな店だった。

扉を押して中に入ると、木のテーブルが並び、薄暗い店内には野菜を煮込む香りがほんのり漂っている。

カウンターの奥から年配の女性が顔を出し、「いらっしゃい。旅人さんかい?」と低い声で問いかける。

「はい。何か温かい料理があるなら、いただきたいのですが」

そう頼むと、女性は「じゃあ、うちの定番のスープと干し肉の煮込みでいいかい?」と尋ねてきた。

もちろんそれで構わない。


 少ししてテーブルに運ばれてきたのは、クリスビーの根菜や赤カボチャ、そしてセイル豆をたっぷり入れたとろみのあるスープだった。

クリスビーのほくほくとした食感と、赤カボチャの優しい甘み、セイル豆のほろ苦さが重なり合い、しみじみとした味わいが舌に広がる。

添えられた干し肉の煮込みは、狼牛ロウギュウと呼ばれる大型の家畜の肉を干して保存したものらしく、噛むほどに出てくる旨味と独特の香りが食欲をそそる。

それを薬草とともに煮込んでいるので、硬すぎず、心地よい噛み応えが残っている。

店内で漂うスパイスの香りも手伝って、疲れた身体が内側から温まっていくようだった。


 リーゼも同じスープをすすりながら、ペンダントをなくしたときの不安そうな様子が嘘のように、ほっとした顔をしている。

「この村には、ほかにも不思議なことがいっぱいあるって、母さんがよく言ってたんです。古い魔術師さんも、村の西の丘でずっと暮らしてるって…」

「その魔術師を探していたんだ。話を聞いてみたいと思ってね」

リーゼにそう答えると、「なら、村はずれの丘にある大きな屋敷がそうですよ」と教えてくれた。

今はほとんど人が寄りつかないらしく、理由を聞いても誰もはっきりとは答えないのだという。


 食事を終えて店を出るころには、外の陽射しが少し強まり、村の人々も家の前や通りであれこれと作業を始めていた。

土を篩にかける者や、柵を修理する若者、行商人と話し込む村長らしき人影も見える。

そのなかを縫うように小さな灯火の妖精が飛んでいるのが見えた。

手のひらほどの大きさで、揺らめく橙色の光をまとい、ふわりふわりと空を漂っている。

目を凝らすと、顔のようなものがあるが、細部は曖昧で、けれどもこちらを興味深そうに眺めているかのように感じられた。


 丘へ続く道は、畑の脇を横切りながらゆるやかに上っている。

アスピナ川という小さな川が近くを流れており、水辺には白い小花が風に揺れていた。

その川面を覗くと、水音妖精の仲間が水草の陰からこちらを見上げ、すぐに隠れてしまう。

どうやら、このモーレ集落周辺は妖精たちの住処が多いのだろう。

そんな光景を楽しみながら歩いていると、やがて古びた屋敷が見えてきた。

玄関ドアには鉄の装飾が施され、錆びた色合いが時の流れを感じさせる。


 ドアをノックすると、しばらくしてから中から白髪混じりの老人が顔を出した。

杖を手にしたその姿は、いかにも長い歳月を生きてきたかのような風格を漂わせている。

「お前は何者だ。モルダーに何の用だ」

老人はそう名乗りながら、鋭い眼光でこちらを値踏みするように見る。

「通りすがりの旅人です。モーレ集落に古い魔術師がいると聞いて、話を伺いに来ました」

「話だと? わしが何を語るというんだ」

軽く鼻で笑うモルダーの態度に戸惑いつつも、何とか屋敷の中に通してもらうことに成功した。


 薄暗い玄関を抜けると、意外にも奥行きのある広間が広がっている。

壁には古代文字が描かれたタペストリーや、奇妙な模様が浮かぶ地図らしきものがいくつも掛けられていた。

棚の上には大小さまざまな瓶や水晶玉が並び、一つひとつから微かな魔力の揺らめきが感じられる。

暖炉には弱々しい火が燃えていて、ぱちぱちと薪がはぜる音が、屋敷の静寂をかき乱すように響く。

「見世物を期待してるなら、帰った方がいい。わしは退屈しのぎに村を助けてやることはあるが、別に慈悲深いわけじゃない」

モルダーはそう言うと、壁際の椅子に腰かけ、杖を床に立てて短く息をついた。


 それでも何かを聞き出したいと、アルドナ平原を渡ってきたことや、この集落の精霊たちを見て興味を抱いたことを話してみる。

モルダーは最初こそぶっきらぼうだったが、ぽつりぽつりと昔の出来事について語り始めた。

かつて、この辺りは豊かな森林地帯だったこと。

人間と妖精たちは今よりも密接に関わり合い、互いの力を借りながら暮らしていたこと。

しかし、大きな戦乱があった際に多くの森が焼かれ、妖精たちは住処を失い散り散りになった。

それでもモーレ集落の近辺には今でもいくつもの精霊や妖精が残っているのだという。


 モルダーの声は低く、どこか憂いを帯びているようにも聞こえる。

「わしはただ、そうした力を絶やさないように見守っているだけだ。老人の道楽だと思うがいい」

そう言ったあと、彼は棚の奥から小さな布袋を取り出し、中に入っている虹色に揺らめく石片を取り出した。

「こんなものが役に立つかはわからんが、まあ旅のお供にでもするがいい」

言われるがままに手に取ると、その石片は静かな鼓動を持つかのように指先を震わせ、どこか懐かしいような匂いを放っていた。

「ありがとう。これをどう使えばいいかは、きっと旅を続けるうちにわかるのかもしれない」

そう口にすると、モルダーはわずかに微笑んだようにも見えた。


 屋敷を出ると、日はすでに西へ傾き始め、空は淡いオレンジ色に染まっている。

モーレ集落を見下ろすと、屋根の上からは煙が立ち上り、夕餉の支度をする気配がどこからともなく漂ってきた。

子どもの笑い声や、家畜の鳴き声、そして時折聞こえる妖精の羽音が重なり合い、この場所独特の静かな活気を生み出している。

ここには確かに、不思議な力と人々の営みが共存していた。


 村の広場へ戻ると、行商人が荷車をまとめている姿が目に入る。

早朝に会った男で、アルドナ平原を通ってやってきたと言っていた。

「おや、まだこの集落にいたのかい。どうだった、魔術師には会えたのか?」

「ええ、いろいろと面白い話が聞けました。あなたはもう次の街へ?」

「そうさ、ライレンの大市が近いからね。ここで油を売っている暇はないのさ」

行商人はそう言ってにこりと笑った。


 やがて、村のはずれの宿屋へ足を運んでみると、木造の二階建ての古い屋敷が改装されたものらしく、門には白い花がからみついている。

呼び鈴を鳴らすと、小柄な女性──マイトラという宿の女将が出迎えてくれた。

「泊まりたいって? 空いている部屋があるから使っておくれ。お風呂は井戸水を魔法の火で沸かしてるから、冷めにくいよ」

そう案内された部屋は、木の温もりが残った古風な造りで、窓からは畑や集落の屋根が見下ろせる。

ベッドらしきものはなく、床にふかふかした敷布が敷かれている。

「夜になったら冷えるから、毛布を何枚か置いておくよ。ゆっくり休むといい」

その気遣いが、旅の疲れを優しく包み込んでくれるように思えた。


 部屋の明かりを落とし、窓の外を眺めると、遠くの山稜が暮色に溶け込み、村の家々に灯りがともり始めている。

中庭からは小さな羽ばたき音が聞こえ、よく見ると灯火の妖精がふわりと宙を舞っていた。

彼らは穏やかな心を持つ人の近くを通り、その温もりを火種にして体を光らせるといわれている。

今宵はきっと、村の各所でこうした灯火の妖精たちが夜を彩り、集落をそっと守るのだろう。


 静かな夜のとばりが下りるにつれ、疲れがどっと押し寄せてくる。

今日の出来事を思い返すと、リーゼの涙やモルダーの憂いを帯びた声、それに倉庫で出会った精霊の姿が脳裏をよぎった。

この世界には、確かに目には見えない力が宿り、人と自然が不思議な形で共存している。

そんな風景に思いを馳せながら、毛布を肩まで引き寄せると、瞼がゆっくりと重くなっていく。

あの虹色の石片を手にしたときの微かな鼓動が、まだ手のひらに残っている気がした。


 明日になれば、また新たな一歩を踏み出すことになる。

モーレ集落を出て、より大きな街へ向かうのか、それとももう少しここに留まり、妖精たちが暮らす風景を見守るのか。

旅というものは、そうした些細な選択の積み重ねで形作られている。

遠いどこかで、モルダーは静かに杖をつき、窓から集落の灯りを眺めているかもしれない。

リーゼは見つけたペンダントを胸に、母を思い出しながら眠りについていることだろう。


 そうした光景をゆるやかに思い浮かべながら、まどろみの波が深く身体を沈ませていく。

ひっそりとした夜気の中で、小さな精霊や妖精たちが美しい調べを奏で、暗闇とともに踊っているような気さえした。

旅路の果てがどこへ続こうとも、この世界のどこかで人と不思議な存在は出会い、別れ、そしてまた巡り会うのだろう。

そうした柔らかな予感を胸に抱きつつ、アルドナ平原の風を思い出しては、静かに瞼を閉じる。

夜の奥深くで、灯火の妖精たちの小さな翅が、さざなみのように揺れている気がした。

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