「じゃあね」もなく、観覧車を降りる前に。
チケットが一枚。握り締めた手を辿って腕時計の針を眺める。午後四時十七分。予定のバスにはもう間に合わない。
「あれ、一番星?」
溜息が零れ落ちかけて、対面から聴こえた気がした言葉に反射で顔を上げた。
ゆっくりと回り昇る観覧車の窓から見えた山の向こう側。ゆらりくらりと傾いた夕陽は、丸々とした姿の半分以上を隠している。仄暗い夜空に沈められそうな光は何年か前に見たはずの、焼け落ちる間際の花火を何故だか思い起こさせた。
そんな太陽のすぐ斜め上に、ぽつんと浮かぶ惑星が確かにある。
「綺麗だねえ一番星。何だっけ、宵の明星?」
「……そうだったと思う」
「思うって、知ってるくせに」
くすくすと掠れる吐息交じりの笑い方は、随分と覚えのある彼女の笑い方だった。見なくともどんな表情をしているのかが手に取るように分かるくらいに見慣れた、見慣れていた笑い方だ。
景色から視線を外し、息苦しさから堪らず息を吸い込む。あり得ないことなのに、肺が凍るような寒さだと錯覚を起こしかけた。もう笑うしかない。
「ちょっと大丈夫?寝不足?ひっどい顔してるよ」
「何それ、どんな顔してる?」
「うーん。砂を噛んだ時みたいな顔」
ある意味では正しいと言える表現だ。諦観が滲む笑うような声とともに眼を閉じる。そうしてから、ああ失敗だとすぐに後悔した。
さっきでも視えなかったのに。きっとこの瞼を持ち上げてしまえば、何も残らない。
「……そろそろ頂上だよ?ここからの夜景、綺麗だって評判なのに見なくていいの?」
「…………別にいいかな」
「じゃあ、どうして乗ったの?」
どうして。理由を求めた声は寂しそうだった。
ゆっくりと記憶を掘り起こす。テーブルに広げた、何枚もプリントアウトしたページ。その何枚かに赤丸をつけていた彼女が振り返って。
そうだ。そうだった。
「乗りたいって言っていたのを、忘れられなかったから」
そう言い切った瞬間。ぶつんと糸が切れるような音がした。眼を見開く。大分暗くなったゴンドラの中、真正面には誰もいない。
十秒ほど固まってから、顔を横に逸らして金星をぼんやりと見つめる。きらきらと光る惑星は、当然の如く何の反応も返すことなどない。
「 」
乗り籠の中にひとりきり。知らず口から零れ落ちた言葉とともに、手の中のチケットを握りつぶした。
彼女の声は、もう聴こえない。