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第42話 コロッケの数

 駅の改札を出て、踏切を背にして商店街を歩く。背中のリュックが重い。

「ママ、そんなに急がなくてもいいんじゃない?」

 私は知らないうちにルドルフの手を引っ張っていたようだ。

「コロッケは逃げないよ、ママ」

「ルドルフ、ママの食欲を邪魔したら後が怖いぞ」

「修二くん、ひどい!」


 4月のおわり、早めのゴールデンウィーク休みをもらった私達一家は東京の修二くんの実家を訪れるところだ。冬のうちに予約していた上高地に行くのだが、バスは夜遅くに新宿から出る。バスは明日の深夜で、今日は義両親のおうちに一泊させてもらうのだ。いつもだったら車で行って近くのコインパーキングを利用する。だけど今回はバスで上高地にいくから、車を何日もコインパーキングに入れておくわけにもいかない。東海村から電車を乗り継いで、漸くここまで来た。リュックの荷物も大きいし、ルドルフは好奇心でフラフラするしで乗り換えは大変だった。

「杏、乗り換え大変だったね。よくがまんしたね」

「あ、人混み? うん、大丈夫だよ」

「いや、買食い」

「ん? ここのコロッケのため我慢した」

「なるほど」

 私は修二くんの実家の近くにあるお惣菜屋さんでコロッケを買うのを心から楽しみにしていた。

「何度も言うけれど、普通のコロッケだからね」

「わかってる。わかっているけど食べたいの!」

「はいはい」


 このコロッケの存在を知ったのは2年半近く前のことだ。修二くんとお付き合いを始めたとき二人で東京へ来たのだが、それぞれの実家へと別行動になったとき修二くんが食べかけのコロッケの写真を送ってきたのだ。何回かこちらには来ているが、毎回車で来てしまっていたため商店街へ行く機会がなかった。2年半前とは言ってもあっちの世界での生活もあったから、体感的には十年を超える。理性では普通のコロッケだとわかっているけれど、おあずけ期間が長過ぎた。


 午後の商店街は自動車の通行が禁止されている。自然ルドルフは道の真ん中を歩きたがる。道の両側には昔ながらの中華料理屋、カメラ店、クリーニング店などが並んでいる。古いお店、新しいお店が混在していてこの商店街が生き生きと活動しているのがわかる。川崎の私の育ったエリアは新興住宅地だったから、下町風情が漂うこの場所は新鮮に感じられる。

「この道真っ直ぐ行くと、大学あったよね」

 修二くんに聞いてみると、

「うん、私立の工業大だね」

との答え。

「修二くん、もしもだよ、もしもこの大学にポストがあったらさ、毎日この商店街で買い物できるんだね」

「そうだけど、ポストあるかなぁ」

「いやいや、理学部の先生だって工学博士の人ってけっこういるじゃん」

「そうだけどね、理論の杏はいいとして、実験の僕は結局いつも東海村にいることになるんじゃないかな」

「そっか、そうなるか」


 これは説明が必要だろう。まず、物理の研究者でも工学博士は結構いる。物理学を研究していたとしても、博士号取得時に工学系の大学院に在籍していれば自然そうなるのだ。工学部出身者でも、いつの間にか研究分野が物理学そのものになることも普通によくある。そもそも工学部には工学の研究者だけがいるわけではない。教養科目としての物理もあるのだから、物理の専門家もかなりいる。物理の出身者でも本人の興味が工学寄りになっていけば、工学部で研究していてもなんの不思議もないのだ。ただし修二くんの場合はちょっと事情が異なる。

 修二くんは広い括りで言えば、低温(マイナス270度くらい)領域での実験である。札幌の榊原研はまさしくそういう研究室で、比熱・電気抵抗・帯磁率・熱膨張などを測定していた。液体ヘリウムさえちゃんと供給されていれば、狭いスペースでもけっこう実験できる。修二くんも札幌の榊原研ではそういう研究をしていた。ところが榊原先生が東海村で中性子散乱実験の責任者になることになり、修二くんも中性子を専門にやっていくことになった。確かに中性子の専門家は全国に散らばっているけれど、実験のたびに東海村の施設に集まることになる。中性子散乱実験ができる大規模施設は、日本では東海村の加速器と原子炉しかないからだ。


 私の場合は、たとえば教養課程の物理の教員として就職する手はある。超電導の研究者は工学系にも多いから議論の相手には事欠かないだろうが、低次元磁性体のような実用とは程遠いことについては仲間が少なく寂しいだろう。


「ママ、いくつ買うの?」

 ルドルフの言葉で現実に戻された。眼の前には夢にまで見たお惣菜屋さんがある。瞬時に私の思考はコロッケに切り替えられた。ビーフコロッケ、カレーコロッケ、ポテトコロッケ、コーンクリームコロッケがある。

「ルドルフ、味、どうする?」

「ママ、全部食べるんでしょ。だから何個ずつ買うの?」

 さらにはメンチカツも捨てがたい。我が家3人に義両親お二人だから各5個ずつだろうか。そう考えていたら、修二くんがさっさと注文してしまった。

「全部5個ずつください。あ、ビーフコロッケだけ8個にしてください」

 修二くんの考えはわかる。全員1種類ずつは確保し、ここから実家まで歩いていく間に私達3人でビーフコロッケ一つずつは食べてしまおうということだろう。

「修二くん、こんなに買って食べ切れるかな? お義父さんお義母さん、そんなに食べれる?」

「何言ってんだよ。余ったらルドルフが全部食べるって」

「そっか」

 しかしルドルフは微妙な視線を私に送ってきた。その目は「ママも余ったら食べるんでしょ」と言っていた。

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