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第39話 転倒

 私はガラス関係の教科書が読みたくて、居室を出て研究所本館にある図書館に自転車で向かっていた。消費カロリーを稼ぐためがんばって自転車をこぐ。学会誌のスピングラスの解説記事も読んでは見たものの、やはり教科書が欲しい。


 すこしここでSHELで学問をするメリット・デメリットを話しておこう。


 最大のメリットは、共同利用実験施設であるから新しい学問が勝手に向こうからやってくることである。自分たちの分光器を利用する人は、やっぱり自分たちの物理を知ってほしいという欲求があるから、いろいろと教えてくれる。

 意外なメリットは、図書館がしっかりしていて、しかも空いていることだ。規模は大学の図書館並だが、文学・社会学の蔵書は少なめだ。クラッシックなものが主体になる。ところが理工学系となるとものすごく充実しているし、ありとあらゆる分野の文献もそろっている。大学の蔵書の場合、その分野のものは学科がにぎっていることがある。たとえばヒガシさんたちの高分子の物質そのものを調べたいとする。そうすると、化学科の図書室に行って利用許可を取り、持ち出しにもひと手間かかってしまったりする。SHELだと研究室所有以外のすべての文献が共用だから図書館に行けばそれですむ。そして学生がいないので、人が少ない。私も含め全員自分のデスクがあるから、読む作業は自室にもどってすることになる。勉強している学生などいない。


 デメリットはまず、この人が少ないことによる。それなりに職員は在籍しているから正確には人口密度が少ないということなのだが、あんまり人と会わない。ほぼいつも同じメンバーと顔をあわせ仕事をしている。だから大学のように同期をつかまえて「なにやってんの」ということができない。まして新参者の私や修二くんは、そんなふうに話しかけられる人などいるわけがない。

 そして単調な生活になりがちになる。どうしても家とSHELの往復ばかりになってしまう。扶桑だったら家から大学まで電車でそれなりの時間がかかるし、電車の中にはいろんな人がいる。途中の大きい駅で降りればショッピングを楽しむこともできる。札幌も都会だから、歩いて通学していてもそれなりのものは目に入る。大学構内は観光地でもあるから、ちょっと華やいだ空気がある。東海村は車で移動し、帰りはいつも真っ暗だから本当に単なる移動になる。私にとってはルドルフの存在が本当に癒しになっている。


 去年の1年間、修二くんは本当に頑張っていたなと思う。戦車のゲームにのめりこんでいたのも仕方ないのかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、私は図書館にたどりついていた。図書館は予想通り人がほとんどいなかった。


 膨大な書籍の中から的確な教科書を見つけるのは実は難しい。というのは私が専門外であるから、スタンダードな教科書がどれだかわからない。また、あまりに古い教科書だと現在の学説とずれていることもある。逆に新しい教科書だと内容、記述がまだこなれていない場合もある。そうすると初学者にはやはり向かない。

 結局私はガラスの教科書は借りずに「相転移」に関する教科書を借り出した。「相転移」とは中学で教わる「状態変化」(例えば固体から液体への変化)のことだ。物理の研究者はあまらい「状態変化」という言葉は使わない。私の主たる研究分野も金属相から超伝導相への転移である。

 言い訳しておくと、アンダーソンによる相転移の古典的教科書はもちろん読んである。あの教科書は相転移を「対称性の破れ」で説明する素晴らしい本なのだが、いかんせん古い。新し目の教科書でガラス転移も扱っているものを選んだ。ガラス転移専門の教科書でないので議論が単純化してあり、かえって読みやすいかと考えたのだ。


 私は借り出した教科書を自転車のかごに入れ、居室ではなく実験棟へと向かった。もちろん宮崎先生にはそう行動すると伝えてある。


 制御室へ行くと、チョッパー分光器のシマにはビジターの先生と学生がいるだけで、修二くんと榊原先生はいなかった。ちょっと変だなと思って実験ホールへ入室する。朝聞いていたスケジュールだと、そろそろ冷凍機交換のはずである。この時間で前の実験が終了し、次のビジターの実験が始まる。冷凍機はちょうどカートリッジのように分光器に入れ替えて使えるようになっていて、ユーザーが変わるごとに冷凍機ごと交換するのが普通だ。


 実験ホールに入るとすぐ目の前がチョッパー分光器である。そこで榊原先生が険しい顔をしていた。修二くんも一緒である。

「先生、どうしたんですか?」

 本来なら修二くんとの会話が最優先であるが、礼儀上、一応先生に先に話しかけた。

「あ、ああ、もうすぐユーザーが変わるんで冷凍機入れ替えないといけないんだけどね、窒素がちょっと足りなさそうなんだよ」

 液体窒素は分光器全体も冷やすのに使われているから、毎日大量に使っているのは知っていいた。

「もしかして分光器側のが足りないんですか?」

と聞いてみると、そのとおりだった。そうなると130リットルのでかいストレージ(タンク)に汲んでこないといけない。修二くんも説明してくれた。

「次のビジターは、SHELが初めてなんだ。だから冷凍機の交換はぼくと榊原先生の二人でやったほうがいいんだけど、それをやっていると分光器の温度が上る可能性が高い」

「ふ~ん、じゃあ液体窒素、私、汲んできましょうか?」

「え、聖女様、大丈夫?」

「ええ、講習もうけましたし、何回か修二くんを手伝ってますから」

「じゃあ、頼もうかな?」

「杏、助かるけど、気をつけてよ」

「うん、気をつける」


 私は分光器に繋がれていた液体窒素のストレージを切り離し、ゴロゴロ押して実験ホールから出た。出たところで実験のトラブルがあって、居室に戻るのが遅れるのを宮崎先生に報告した。


 液体窒素の供給ステーションで私は分厚い革手袋を装着し、気分爽快に液体窒素をストレージに入れた。130リットル用のタンクだが、本当はいけないのだが満タンにした。なぜ満タンにしてはいけないのかと言うと、満タンにしてしまうと気化した液体窒素が逃げ場がなくタンク内の圧力が異常に高くなるからである。だけど私は知っていた。蓋をしなければいいのである。蓋をしなければ内圧が上昇することはありえない。


 そしてトラブルは突然やってきた。供給ステーションから少し移動したところでキャスターがアスファルトのちょっとした凹みにひっかかった。そして少し油断していた私はほんの少し対応が遅れ、ストレージがグラっと傾いてきた。


 20度か30度くらい傾いたところで私は悟った。もう私の力ではこのタンクの転倒はさけられない。


 ここで私の頭は高速回転した。


 選択肢は2つ。


 1つ目は、ぱっと手を離し、ダッシュでこの場から逃げること。タンクが受ける衝撃により、派手に破損する可能性がある。もしかすると爆発するかもしれない。


 2つ目は転倒は避けられないものの、最後まで力をかけつづけ、タンクと地面の衝突による衝撃を少しでも和らげ、機材の破損を防ぐというものだ。


 決断に必要な時間は1秒も無かったと思う。


 私は2つ目を選択し、とにかく力いっぱい転倒に抗った。騎士団での訓練が役に立ったのかもしれない。


 そしてタンクはゴロンと軟着陸した。

 タンクのてっぺんの口からは、液体窒素がものすごい勢いで流れ出た。もったいないと思って私はタンクを立てようとしたが、びくともしなかった。

 それはそうである。まずタンク自体の質量が100キロを超えている。液体窒素の密度は0.8くらいのはずで、今130リットルを超える量が入っている。それだけで軽く100キロを超えるので合計200キロくらいあり、それは私の力で持ち上げられるわけがない。半分くらい出てしまうまでは無理だろう。


 ドバッ、ドバッといつまでも液体窒素は出続けた。自分のミスで液体窒素を無駄にしてしまった。くだらないミスをしたものだが、通りがかりの人に見られないか、気が気でなかった。研究所の人口密度の低さが幸いして、タンクを立て直すまで誰もこなかった。

 そして私は何事もなかったかのようにもう一度液体窒素を汲み、慎重に実験ホールに戻った。タンクが転倒した場所は私がこぼした液体窒素によりしっかり冷凍されていた。

 転倒した場所が野外だから良かったが、室内であれば窒息事故を起こし、ノルトラントに戻ることができなくなるところだった。


「聖女様、遅かったね」

と榊原先生に言われたが、適当にごまかしておいた。


 あとで液体窒素タンクのキャスターを見てみたが、私が押していた国産のグレーのタンクのキャスターは小さく、外国製のは大きかった。危ないからこんな部品をケチらないでほしいと思う。

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