第38話 超多忙
年末というのは忙しいものである。師走という言葉があるが、榊原先生はリアルに走っていることがあり笑える。では学生と研究者の中間みたいな院生はと言うと、十二月だろうといつだろうと関係なく忙しい。
そして私は当然のごとく多忙を極めた。ふつうでも院生、とりわけ博士課程ともなれば忙しく研究をするのは当たり前だが、更に私には忙しさが増える理由がいくつもあった。
理由1 実験が忙しい
なまじ実験に参加できるようになってしまったものだから、ついつい実験室内に長居してそのたびに宮崎先生に注意されている。
理由2 子育て
ルドルフにはルドルフの生きる世界がすでにある。十二月中旬の日曜日にあかねちゃんとみほちゃんがクリスマス会を企画した。彼女たち曰く「私達には幼稚園でクリスマス会がある。るーくんにはない」 ありがたいお話であるが、手ぶらで行かせるわけにもいかず、お土産やらルドルフの衣装やらでかなりの時間をとられそうである。
理由3 忘年会など
茨城は一応関東である。2年間不在であったので、扶桑関係者とくに就職組からお声がかかる。全部を断るわけにはいかないので、土曜日開催のものは出席する。土曜に川崎に帰り、夜飲み、日曜日に東海村にもどる。すべての週末の予定が空いているわけではないので2回行っただけだが、実質的に十二月のすべての週末は予定がつまってしまった。来年は気をつけよう。年末の土曜は渋滞がひどく、時間がとられイライラした。
理由4 オンラインセミナー
これは私が悪い。自爆である。去年のクリスマスは嫌味で実験棟にクリスマスケーキを届けたが、今年は私も実験メンバーになったし、聖女の癒やしをみんなに施したい。オンラインでクリスマス会と言う名の合コンをやって、一応隠れ蓑としてセミナーとしたのだがそれがいけなかった。SHEL所長の菅野先生は、参加者に必ずSHELと大学院大学のパンフレットを送れと厳命された。気がついたら参加大学は北から、札幌、柏、物理学校、国立女子大、扶桑とひろがっていた。パンフレットの袋詰と発送は修二くんと二人でやるしかない。
理由5 トレーニング
オンラインセミナーとも絡むのだが、去年着用したセクシーサンタコスがキツくなっている。電気式の腹筋トレーングパットはまだしも、エアロバイクは完全に時間がとられる。脂肪を燃やすためには最低でも20分は必要だ。20分なんてたいしたことないと思うかもしれないが、毎日である。その累積は大きい。筋トレしてからやれば時間の節約になるという話もあるが、私はカサドンではないのでムキムキになる気はない。
オンラインセミナーの内容はガラス転移の中性子散乱実験による研究である。
普通中学校で、物質の状態は固体・液体・気体の3種類と教わる。固体と液体の違いは何かというと、固体は原子の位置が決まっているのに対し、液体は決まっていない。分子同士はぶつかり合いながらランダムに動き続ける。常に分子同士がぶつかり合っているので、ほとんど圧縮されない。気体になるとランダムに動き続けるのは同じなのだが、分子間の距離がものすごく大きくなり、お互いにほとんどぶつかり合わない。だから圧縮されうる。
うんちくを垂れると、自動車のブレーキは油圧で作動する(正確には油ではなくアルコールの一種を作動液として用いる)。ブレーキ液が液体であればブレーキペダルを踏む力が正しくブレーキパッドに伝わる。しかし何らかの理由でブレーキ液中に気泡が入ると、ブレーキペダルを踏んでもその力が気泡が圧縮されることで吸収されてしまうので、ブレーキが全く効かなくなる。話によると、ブレーキペダルをふむと、ペダルが床まで行くそうだ。これは怖い。
それはともかく、ガラスというものは、ものすごく大雑把に言うと、原子の位置がランダムに固定されたまま動かなくなったと解釈できる。だから液体と固体の間みたいだとも言える。しかし一部の研究者は、ガラスは「ガラス」という固体でも液体でもない別の状態だと主張する。だから小学生とか中学生とかに固体の具体例を挙げるとき、ガラスを出すのは不適切である。
ヒガシさんたち国立女子大のグループは、高分子をガラス転移させたものをサンプルにして研究していた。大学4年のとき参加した「実験物理若手の学校」で私はヒガシさんたちにガラスの話を聞いていたが、その後ちょこちょこと勉強するくらいであまり勉強していなかった。今回は私達の分光器で実験であるから、私もしっかり勉強したいものだ。
私は居室でいつも通り勉強していた。いつも扱っている超電導関連の合間に、今度のセミナーで扱うガラスの勉強もしなければならない。ただその勉強は、居室にいたままでは難しい。それというのも論文は居室からオンラインで検索できるが、教科書はそうはいかない。論文から勉強することもできないわけではないが、論文というのはその分野の研究者が読むためにかかれているから、初心者にはハードルがものすごく高い。やっぱり教科書があると楽なのだ。日頃の研究分野であれば宮崎先生の蔵書をお借りするのだけれど、ガラスのように宮崎先生も私もやっていない分野だとそうはいかない。私は宮崎先生に断って、研究所内の図書館に行くことにした。
少しでも消費カロリーをかせぐため、車ではなく自転車をつかうことにする。




