第35話 新発田家で
「私さ、今日思ったんだけど、やっぱあっち行ってたせいで、私成長してるわ」
新発田先生のお家に向かう車で運転しながら、私は修二くんに話しかけた。聖女効果を克服した私は今朝、実験にむりやり参加しようとして騒ぎを起こした。しかし午後からはちゃんと本業の理論研究にもどれていた。午後7時をすぎている道は真っ暗である。都心ならまだまだ道が混雑している時間であるが、東海村ではすでに走る自動車はとても少なく、気持ちよく移動ができる。
「どういうこと?」
修二くんの問に私は答える。
「あのさ、午後は私ちゃんと研究してたんだよ。もちろん実験は気になったから多少はデータ見たりシミュレーションしなおしたりはしたよ。だけどさ、それ以外のこともいつもどおり研究してたんだ」
「ふ~ん」
「今私達さ、玲子ちゃんのこともあるじゃない、だけど研究に集中できるってことは、私の精神力が成長したってことだよ。あっちで修羅場くぐり抜けたり、落ち込んだりしたしさ」
「う~ん」
「何、修二くん、私が集中できてなかったんじゃないかとか思ってんの?」
「いや、集中できてただろうと思ってるよ。ていうか杏、もともと物理になればいつでも集中できてたんじゃない?」
「修二くんひどくない?」
「いやあ、客観的には緒方さんの意見を聞きたいな」
「のぞみはどうせ、同じようなことを言うよ」
「かもね」
そんな会話をしているうちに新発田先生の家についた。宮崎先生の車が見えるから先生はもうついているようだ。榊原先生はあかねちゃんを連れてくると言っていたのでまだである。
新発田先生のお家に入ると、みほちゃんまほちゃんから大歓迎された。キャーキャーやっていると榊原先生もあかねちゃんを連れてやってきて、新発田家のリビングは満員になった。もルドルフは朝からお邪魔しているわけで、ちょっと申し訳ないと思う。
「じゃあ聖女様、宮崎先生にお話しようか」
新発田先生に促され、私は話を始めた。
「実は私、というか私と修二くん、まほちゃんみほちゃんあかねちゃんも、異世界に言ってきたんです」
「異世界? なんかアニメとかでやってるやつ?」
「ええ、信じられないのはわかりますが……」
私はかいつまんで2回にわたる異世界生活を宮崎先生に語った。
「それでその、ルドルフくんはドラゴンだと言うんだね。変身するとか、信じがたいな」
するとルドルフが、
「ママ、いいかな」
と言ってきた。ルドルフは宮崎先生の脳内に思念を送る気なのだ。ところが新発田先生は、
「信じられないのはわかるけど、ルドルフくんは今日の昼間、フーリエ級数を勉強していたんだよ」
「ほう、ルドルフくん、ライプニッツの公式を、フーリエ級数を用いて証明してくれ」
ルドルフは難しい顔をしていたが、やがて方形波をフーリエ級数で表して証明し始めた。
新発田先生はノートを取り出して宮崎先生の前においた。宮崎先生はそれを見て目を剥いた。日付は先週の金曜日、内容はとてもじゃないが数日でフーリエ級数にたどり着ける内容ではなかった。
「修二くん」
「はい」
「聖女様はむこうでルドルフくんにも勉強を教えていたようだね」
「ええ、戦力になりつつあるところでした」
新発田先生が私に語りかけなかったのは、私がハラハラしながらルドルフの証明を見ていたからだろう。
やがて宮崎先生は大きくため息をついて言った。
「わかりました、信じますよ、異世界」
私はここで本当に言いたいことを話すことにした。
「宮崎先生、いままで大変おせわになりました」
宮崎先生は無表情になった。
「私もこれで実験屋の仲間入りができます」
宮崎先生はなぜか修二くんと目を見合わせた。
「修二くん、僕は実験をあきらめた経緯をよく知っているから、とても言えないよ。修二くんから言ってくれないか」
「そうですね」
修二くんはちょっとの間、黙っていた。
大学3年の終わり、卒業研究の研究室選びの際、私は強磁場の大家伊達先生の研究室を訪れた。そこで電磁石のコイル巻きを体験させてもらったのだが、何度やってもうまくいかなかった。それで私の心は折れ、実験どころか物理の世界から逃げようとした。だけど扶桑の先生方は私を引き止め、宮崎先生は研究室のメンバーとして私を受け入れてくれたのだ。
「杏」
「何?」
「今日みたいに窒素入れたりとかサンプルの入れ替えとか、そういうことを手伝ってもらえるのは助かるよ」
「うん」
「だけどさ、僕としては杏に、基本的には今まで通り理論のほうで頑張ってほしい」
「え、嫌」
「実験を禁止するわけじゃないんだよ、あのね……」
私は視界がぼやけ、修二くんの言葉があたまに入ってこなくなった。
「杏、杏、だいじょうぶか?」
「う、うん、大丈夫、修二くん」
「でね、さっきの実験の話だけど……」
意識が遠のいた。
「困ったな、予想してなかったわけじゃないけれど」
新発田先生の声が聞こえる。
「やっぱりショックなんでしょうねぇ、修二くんから言ってもらえればわかってもらえるかと思ったのですがね」
宮崎先生の声も聞こえた。
「ママ、しっかりして、落ち着いて話を聞こ」
さすがに我が子に言われたらしっかりしないわけにはいかない。
「杏」
「うん」
「杏が実験をしたいことは他の誰よりもぼくが一番良く知っている」
「うん」
「だけど研究仲間として言う。当面は、そう、少なくとも博士とるまでは今まで通り、杏には理論屋として研究してほしいと思っている」
「なんでよ」
「いままで杏が出した論文、主なものは結局実験がらみだよね」
「そうね」
「なぜあの論文たちが輝いていると思う?」
「そりゃ実験がよかったからでしょ」
「ちがう、まず杏の理論的予測があり、それがあたっていようが外れていようが実験結果について杏が徹底的に考察しているよね」
「そうね」
「それは杏にぼくらよりも理論的素養があるからだ」
「客観的にはそうだろうね」
「そうだよ、それが僕らの実験グループの強みだよ。それが杏がこれから実験屋としての勉強をしてみろよ、理論の勉強時間、大幅に減るぞ」
「そうね」
ルドルフがいなければ私は寝ないで勉強しただろう。だが親としてそんなことはできない。もちろんプロとしても失格である。
「人間全部をひとりでやることはできないんだよ、わかるだろう」
わかるが、わかるのだが。
「いいかい杏、僕の手は杏の手だよ。僕の目は杏の目だよ。それを杏の頭脳で使ってほしいな」
「うん、わかった」
私はいつの間にか修二くんと抱き合っていた。
「人の家でいちゃいちゃするの、そろそろやめてもらっていい?」
新発田先生の声がした。
「パパとママがごめんなさい」
ルドルフが謝っていた。
私は慌てて修二くんから離れた。




