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第7話 落ちる必然 ‐二階堂義高‐

時間軸としては前回とダブります。


 黄色いリボンが右へと流れる。

 あんまり端へ寄ると危ない――そう言おうと開きかけた口は、次の瞬間に悲鳴へと塗り替えられた。

「わあああぁぁぁぁっ!」

 落ちた当人のものではない。それを背後から見ている僕のものだ。

 正直、こんなに驚いたのは小さい頃の肝試し大会以来だろう。

 尾根に沿って続く狭い足場を見た時に、落下の危険があることは誰の目にも明らかだった。ただ、こうも見事に、手を出す余裕すらなく姿が消えてしまうとは、思ってもいなかった。

 これは僕のせいだ。

 この状況に対する注意の喚起を怠るべきではなかった。彼女がこちらでの遠足に不慣れなのはわかっていたのだから、こういう危険があることに気付いていなかったのかもしれない。

 それに、落ちる様を目前にしながら、何も出来なかった。

 それが出来る唯一の存在が、僕であったというのに。

 身体どころか、指一本彼女のために動かすことができなかった。

 ただ驚き、情けない悲鳴を上げただけだ。

「安田さんっ!」

 その姿が吸い込まれていった地面へと駆け寄り、四つん這いになって下を覗き込む。

 そこに、彼女の姿はない。

 その体躯を受け止めたであろうと思われる窪みと、滑り落ちた跡だけが、虚しく残されているだけだった。

 真下が岩場でなかったことに少しだけ安心する。

 だが同時に、その姿が遥か下方、密度の濃い木々の乱立する深い森の中へと消えていたことは、新たな不安を呼び起こした。

「安田さんっ! 安田さぁんっ!」

 更に身を乗り出し、声を限りに叫ぶ。

 しかし届かないのか、それとも返事が出来る状態にないのか、何も返ってはこなかった。

 眼下に見える新緑のざわめきが、舞い上がる風に乗って耳に届く。

 それはまるで獲物を捕らえた肉食動物の咆哮のようにも思えて、僕の気持ちは更に焦った。

「安田さーんっ! やすぅわっ!」

 手をかけた端が崩れ、身体が流れる。支えを失った肉体は吸い込まれるように宙を踊り、視界は揺れながら天へ向かって走り始める。

 これが落ちる感覚か。

 安田さんも、こんな風景を見たのだろうか。

 そんな疑問が頭をよぎり、ある意味覚悟を決めた瞬間、視界が止まった。

「危ねーなぁ、お前まで落ちる気かっ」

 両肩が引っ張られている。僕は右手の支えを失って尚、バランスを保って崖の上にいた。いっそ落ちてしまった方が今の僕には相応しいとも思えたけど、仲間の手を振り払ってそんなことが出来るほど、僕の感情は力強くないらしい。

「……ごめん」

 呟くような声で謝罪しつつ、乗り出していた身体を引っ込める。

 それを確認して、ようやく杉浦が僕のリュックを手放し、その馴染んだ重量感が戻ってきた。途端に現実が視界を塗り替え、目の前で消えていった黄色いリボンを思い出させる。

 正直、悔しかった。

 過去、二度の遠足の中でも、こんなに悔しいと思ったことはない。

「大丈夫かな、みどり」

 胸の辺りでジャージを強く握り締め、藤嶋さんが心配そうに言葉を漏らす。その響きは重く、そして暗い。

「とりあえず、下が岩場じゃなかっただけでもラッキーだろ。怪我さえなけりゃ、何とかするって」

 杉浦はいつものように楽観的だ。

 でも、その声には明らかに張りがない。彼にだってわかっているのだ。安田さんが一人で危機を乗り越えられるほど強くはないということが。

「とにかく、早く探しに行かないと」

「そうだな。下りられる場所を見付けるか」

 藤嶋さんの提案に、とりあえずとばかりに杉浦は頷く。

「ホラ、二階堂くんも行くよー?」

「あ、うん……」

 呼ばれて、僕も歩き出す。

 だが、気持ちはどこか別の場所を彷徨っているようだった。あの二人はもう歩き始めている。安田さんを助けるためにはどうするべきなのか、すでにわかっている。

 僕は駄目だ。

 まだそこまで到達できていない。唯一助けられる位置にいた僕は、この班の中で最も彼女の身を案じていたと自負していた僕は、何も出来ずに彼女を危機にさらしてしまった。しかも今、彼女のことを心配しながらも、自分に出来ることが何一つ思い浮かばない。

 こんなんで、僕はどうやって彼女に謝るべきなのだろう。

 いっそ怪我でもしてリタイアにでもなってくれていたら、潔く頭を下げることができるかもしれない。

「……くっ!」

 自分の思考に呆れる。

 怒りすら覚える。

 足は止まり、呼吸をしているのかどうかすらわからなくなってきた。何を考えているのか、何を考えたら良いのか、そんなことすら見えなくなった。

 パンパンッ!

 両手で二回、頬を挟み込むように叩く。

 加減はない。痛いというより、熱くなった。

「義高?」

 振り返った杉浦が、やけに心配そうな顔でこちらを振り返る。

「よし」

 視界は戻った。意識もハッキリした。

 怖がっていても仕方がない。起きてしまったことが戻せないなんて、最初からわかっていることなんだ。

 だから、前に進もう。

「おいおい大丈夫なのか? ほっぺた真っ赤だぞ」

「もう大丈夫だよ。とにかく、一刻も早く安田さんを探そう」

「そ、そうだな」

 慌てて頷き、杉浦は正面に向き直る。

 その背中、ネイビーブルーのリュックを見ながら、僕も歩みを再開した。

 今度は明確な、自らの意志で。



 尾根はまだまだ続いている。

 アップダウンが結構激しいので、この状況がどこで終わりを迎えるのかは未だにわからない。ただ、進めば進むほど、この地形が巧妙なものに思えてくる。

 極めて狭い足場と、左右に広がる広大で深い森、並べてみれば単純な組み合わせと言えるだろう。景色を楽しむためのハイキングであったなら、むしろ絶好のロケーションを提供してくれる粋な演出ですらあるのかもしれない。

 だけどそれは、落ちることがなかったらという話だ。

 いや、ハイキングコースに指定されているくらいなんだから、そんなに危険はないということなんだろうか。

 柵どころか、注意喚起を促す立て看板すらない。

 逆にここまで見え見えの危うさだと、対策を講ずる必要がないということなのだろうか。いや、それでも実際に落ちる人はいる訳で、というか実際にいた訳で、もう少し何かしらの対策はあって然るべきだったのではないかと思う。

 せめてこう、これ以上外側を歩くと危険ですよという感じの杭があるだけでも、違っていたかもしれない。事実、安田さんは足を踏み外して落ちたのではない。足元が崩れてバランスを失い、落ちていったのだ。

 見た目に不安がある以上は真ん中を歩くのが常道だとしても、どの程度から本当に危険なのかがわからないというのは、ハイキングコースとしては不合格と言われても仕方がないだろう。

「あっ……」

 何かに気付いた杉浦が、不意に足を止める。

「どうかした?」

 半歩遅れて、二番手を歩く藤嶋さんも立ち止まる。その後ろを歩く僕も、応じるように歩みを止めた。

「あれ……」

 右側に身体を傾け、藤嶋さんの背中を避けるようにして杉浦の指先を追う。

 彼の指し示す先、そこには安田さんが落ちた場所と同じように崩れた崖があった。その部分だけが、不自然に抉り取られているように映る。

「やっぱり、みどりの他にも落ちた人がいるってことよね?」

 藤嶋さんも事態の深刻さがわかっているようだ。

「さすがにこれだけ崩れやすいと、無理もないね」

 彼女がこちらの遠足に不慣れだという要素を差し引いても、この足場は狭いし不明瞭だ。単純に安田さんの不注意とは言えないだろう。

「お、あっちにもあるぞ」

 そう言われて視線を左へと動かすと、確かに似たような崩落場所が見付かった。

 ここは左右を似たような深い森に挟まれている。どちらに落ちたとしても、状況として大きな変化はないだろう。ただ心配なのは、安田さんが落ちた先に他の班の人がいるかもしれないということだ。

 その相手が安田さんみたいな穏やかな人物だったら、それで良い。こんな状況でうっかり落ちるような人だから、あまり心配する必要はないのかもしれない。

 でも、楽観できるほど生易しい状況ではない。

 何といっても、彼女は一人なのだ。

 とにもかくにも、一刻も早く合流する必要があるのは、間違いなかった。



 結局、崩落場所は安田さんが落ちた所を含めて四ヶ所見付かった。右側が二ヶ所、左側が二ヶ所、安田さんの落ちた先に、誰かもう一人いることになる。

 それだけじゃない。

 その仲間を探すために、先行する班の一つが右の森に入っているハズだ。ここから落ちた何者かと対峙するだけならともかく、三人、あるいは四人を相手に立ち回れるほど、安田さんは強くない。

 しかも、あれだけの高さから落ちた彼女が五体満足でいるという保証はどこにもないのだ。

 くそっ、悪い考えばかりがどんどん溢れてくるみたいだ。

 そもそも、こんな危険な場所を放置したまま遠足を敢行するだなんて、先生達は何を考えて……いや、待てよ。

 僕は足を止める。

 よくよく考えてみれば、これはかなり不自然だ。

 遠足の基本は試練と対処、このバランスで成り立っている。安全な遊歩道を歩くだけの遠足も、生きて戻れないような断崖絶壁を無理矢理渡るような遠足も、どちらもそぐわない。

 一見すると単なる危険なコースにしか見えない尾根の一本道も、実は先生方の思惑通りであるのだとしたら。

「……二階堂くん?」

 数メートル先で僕の歩みが止まったことに気付いた二人が立ち止まり、振り返ってこちらを見ている。しかし今、僕の視界に二人の姿はなかった。

 どうしても確かめたい。

 その思いで一杯だった。

「おいおい義高、突然呆けてどうした?」

 心配そうというよりも、不安そうな声が聞こえてくる。

 だけど、僕はそんな声にも答えない。

 身体を右へ向ける。視界から二人の姿が消え、代わりに底の見えない緑色の大きな湖が広がっていた。

 まるで誘われるように、右足を踏み出す。

 まだ大丈夫だ。足元はしっかりしている。

 もう一歩。

 まだだ、崩れる気配はない。

 もう……。

「おいこらっ、何やってんだよ!」

 またもやリュックを掴まれる。でも僕は、前に進めないことを承知の上で一歩を踏み出した。

 予想通り、足元の地面が消える。

 いや、正確には予想通りとは言えないかもしれない。

 思っていたよりも大きく、しかも簡単に崩れてしまった。もし少しでも体重をかけていたなら、わかっていながら落ちるという間の抜けた道化師を演じるところだったのかもしれない。

「ありがとう。正直言って助かったよ」

「……お前、大丈夫なのか?」

 頬の筋肉を引きつらせている杉浦に、僕は頷く。

「大丈夫だ。やっとわかったよ」

「わかった?」

「このコースの目的が」

 僕の発言に、幼馴染みコンビは顔を見合わせる。

「すまん。何を言ってるのか全くわからんのだが……」

「歩きながら話すよ。とりあえずリュックはもういいから」

「あ? あぁ」

 まだどこか不安そうだったが、それでも僕の意識がしっかりしていると感じたのか、杉浦はリュックから手を離し、再び先頭に立って歩き始める。

「で、目的って何?」

 藤嶋さんの眼差しは疑問に溢れている。いや、本来なら安田さんがいなくなった現状で、こんなことを考えている僕の方がおかしいのかもしれない。彼女のことを親身になって心配してるのなら、その背景に何があるのかなんて、気にする必要はないのかもしれない。

 でも、わかって良かったと思う。

「このコース自体が、ある目的を持っているってことだよ」

「コース自体って、この危ない尾根に何の意味があるの?」

「これは多分、班を分断するための罠なんだ」

「罠? え、このコース自体が?」

 さすがの藤嶋さんも驚く。

 正直、まさかこんな大袈裟なセッティングにしているなんて、思いもしないことだろう。だからこそ、僕も今まで偶発的な事故だと思っていた。

「そうだよ。直接崩してみてわかったけど、あれは脆すぎる。雨で崩れないのは不思議だよ。しかも、極一部がそんな状況で残っているんじゃない。このコースの両脇全てが崩れやすくなっているなんて、あまりに不自然だ」

「それってつまり……」

 藤嶋さんはしばし考え込み、解答に行き着く。

「そういう風に作ってあるってこと?」

「その通り」

「おいおい、そんじゃあ海鳥ちゃんは、まんまと先生の思惑に引っ掛かって一人はぐれたってことなのか?」

「そうなるね」

 杉浦の正しい分析に、僕は頷きを返す。

「そんなの、何のためにだよ?」

「想像だけど、チームワークを試すためと考えるのが自然かな。一人欠けてどうするのか、探しにいくのか待つのか、軽く考えるか重く受け止めるか、それぞれに反応が違ってくると思う。模範解答は難しいけど、チームワークを軽んじる班は、一人はぐれたという状況になればリタイアを考えるだろうね」

「なるほど、チームの絆を試す、というワケね」

 若干大袈裟な物言いにも聞こえるが、藤嶋さんの弁は間違っていないだろう。

「そして、もしそうなら一つハッキリすることがある」

 僕にとっては、これこそが最大の発見だ。

「これが罠なら、安田さんは無事だ」

 あの落下が不幸な事故であったなら、彼女の身はどうなっているのかわからない。捻挫や骨折どころか、命に関わるような大怪我をしていた可能性だってあっただろう。

 だが、この落下は必然だ。

 それなら、大した怪我はしていない。

 言い切れるほどではないが、そう信じられるくらいではある。

「そっか。確かにそうだな」

「何か、ちょっとホッとしたかも」

 二人の表情が、目に見えて柔らかくなる。

 落ち着いているように見えていたけど、彼らなりに心配していたのは確かなようだ。

 良かった。彼女を助けようと思うことなく諦めようとするような連中じゃなくて、本当に良かった。

「さて、と」

 先頭を歩いていた杉浦が立ち止まり、こちらへ振り向く。

 気付けば、下り坂は終わっていた。少し先に緩やかな上り坂が見え、左右には濃密な森が口を開けて待っている。ここは多分、尾根の最も低い場所になるのだろう。

 つまり、ここからなら森に入れる。

「どうする? 助けに行くか、それとも待つか」

 ニヤニヤと笑いながら、杉浦がそんな質問を口にした。

 だが、それは愚問だ。

「そんなの決まってる」

 明確な返事など必要ない。

 僕達は進路を右へと変更し、深い森の中へと足を踏み入れるのだった。


その頃、海鳥はポテチを食べていた(笑)

ちなみにこの大袈裟な罠ですが、昨日今日作られたものではありません。ずっと昔から続いている伝統的な罠です。

ハイキングコースから落ちる人が多数出るのは内緒ってことで。

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