最終話 遠くの明日へ ‐羽鳥海鳥‐
いよいよ最終回です。
長かったよーでも短かったよーでもあります。
空の茜色が、今日はとりわけ近くに見える。
響くひぐらしの声と、店の中から聞こえる楽しげなやり取りが相まって、私はどこか夢の中にでもいるような、現実とは思えない世界に彷徨いこんだかのような気持ちになる。ここに、母のお母さんの実家があるこの場所に引っ越してきて、もう半年近くが過ぎているけど、私はまだどこか馴染んでいない自分を見つける時があった。
今もそうだ。透明感のある風に頬を撫でられながら、縁側で鮮やかに染まる空を見ているだなんて、向こうにいた頃は想像も出来ないシチュエーションであるように思う。見える景色に家はない。木と、山と、空と、そして田んぼや畑が広がっているのみだ。のどかというよりも、閑散としている感じさえ受ける。
でも、私はこんな景色が嫌いじゃなかった。
それに、何もないわけじゃない。
「あ、赤トンボ」
夕焼けに負けないほど染まった一匹が、この店――『みなみや』の上を横断するように飛んでいく。向こうでも見ることのできた季節を告げる赤い使者は、こちらでも同じように秋の訪れを教えてくれているようだ。
「アキアカネが空を覆うと、いよいよ秋が来たって感じになるよね」
「二階堂君?」
いつも通りの落ち着いた声が響き、家屋の陰から二階堂くんが姿を現す。私がここで手伝うようになってから、毎日顔を出してくれていた。本当なら今も店番をしているハズだったんだけど、学校から大急ぎで帰ってきたさつきちゃんが交代してくれている。もちろん夏休みに手伝うという約束を交わした以上、不本意ではあるんだけど、正直言ってこの時間帯は忙しくて手が回らなかった。お客さんとしても、不慣れな私より慣れたさつきちゃんが対応してくれた方がありがたいだろう。
「今日までご苦労様」
派手な笑顔じゃないけど、穏やかな笑顔で労ってくれる。
「ほとんど座ってただけだし、大したことしてないけどね」
「それでもだよ。こうして貴重な夏休みを費やしたんだから、立派なことさ」
「へへ……ありがと」
ちょっと照れる。
とはいえ、実際に大したことをしたつもりはない。そもそも、さつきちゃんの自宅が駄菓子屋だってことを知ったのが夏休みに入ってからだというのが、まずいい加減な話だ。幸いというか、夏休みが終わってしまったらメインの客層である子供が学校に行ってしまうので、店番なんて言ったところで何もすることはない。都会のコンビニと違って、昼間から学生の姿が見られるなんてことは全くなかった。結局、接客らしい接客をしたのなんて数えるほどでしかない。むしろ大して働いてもいないのに昼食や夕食をご馳走になったりして、余計なお世話だったんじゃないかと思ってさえいる。
まぁそれでも、さつきちゃんは喜んでくれているようだし、二階堂君を始めとして毎日三人の顧客を確保していたのだから、無意味ってワケでもなかったと思う。
そして今日、九月に入って一週間目の七日、約束のお手伝いが終わろうとしている。最初は少し不安もあったけど、今は淋しいと感じている自分がいた。
「……今、店の方に皆も来てるよ」
どうしてか視線を逸らして、二階堂君は遠くに見える山並みを眺めながら呟くほどの声でそんなことを教えてくれる。
「みんなって、ユリちゃん達?」
「藤嶋さんや杉浦はもちろん、もっとたくさんの人達だよ。普段はあまり来ない人も居たな」
「それって大盛況ってこと?」
「まぁ、賑やかではあったね」
そう言われれば、微かに喧騒が聞こえてくる。店の裏手に当たるこの縁側は、普段なら怖いくらいに静かだ。
「大変じゃない。手伝ってこないと――」
「あ、良いって!」
「え?」
腰を浮かせた私を、二階堂君が慌てたように制止する。
「大丈夫って言ってた。心配しなくていいから、少し休んでいて良いってさ」
「でも……」
「今まで頑張ってきたんだから、最後くらい延長した夏休みを満喫しても構わないと思うよ?」
「んー、そっか。うん、そうかもね」
少し強引な気がしたけど、大盛況な中へ私が手伝いに行ったところで足手まといになる危険性も高い。そういう意味も含めての言葉かもしれないと納得して、私は改めて縁側に腰を下ろした。投げ出した足をブラブラと揺らしながら、鮮やかなオレンジ色に染まった夕焼けへと目を向ける。
「あ、二階堂君も座りなよ。座布団なくてゴメンだけど」
「う、うん……」
当然すぎる私の誘いにぎこちなく頷いた二階堂君は、何もない空を見上げながらそろりそろりと近付いてくる。何だか不審な動きだ。いつもの落ち着きと冷静さが、少しも見られない。
「どうかしたの?」
「な、何でもない! 何でもないんだ、海鳥ちゃん……」
明らかに何でもあるような素振りで、それでも私の隣にチョコンと座る。その様を見て、最後に漏れた私の名前を聞いて、失礼とは思いながら吹き出してしまう。
「な、何?」
「ゴメンゴメン。私の名前、まだ慣れない?」
「いや、そんなことは――」
「別に『羽鳥さん』でも、以前の『安田さん』でも構わないんだよね。私個人としては、さ。でも、そういうのに振り回させたくはないから。特に親しい人にはね」
「うん、知ってる」
私の両親が正式に離婚して、私の姓がお母さんの旧姓である『羽鳥』へと変更になったのは、あの遠足を終えて一ヶ月も経たない頃だった。私自身にとっては驚くほどの変化ではなかったけど、それでも僅かばかりの問題を抱えてもいた。
「名前に鳥が二つ付くって、何だか間抜けだよね」
妙に重苦しい雰囲気を打破したいという気持ちも込めて、私は少し無理をして明るく振舞ってみる。でも正直、失敗したかもしれない。まるで空元気を披露したかのような感じだ。不思議なほど笑いが浮いている。
「僕は気にならないよ。それに――」
続きかけた言葉を、何故か二階堂君は呑み込んだ。
「それに?」
「いや、その……」
遠足の時には凛々しく見えた二階堂君だけど、普段の彼はどこか落ち着かないような、不安定な雰囲気に見える。あるいは、普段本気を出していないことが、いざという時の切れに一役買っているのかもしれない。遠足で一緒だった時は、こんな風に照れて顔を背けたりなんて反応、思いもしなかったことだ。
「何? 恥ずかしいことなの?」
「いや、恥ずかしくなんてないよ、うん」
「でも、真っ赤だよ?」
「それは――」
二階堂君の反応は面白い。いや、可愛いと言うべきかもしれない。
「ゆ、夕焼けのせいだよ、きっと」
「じゃあ、『それに』の続きは?」
「大したことじゃないんだってば。結婚したら姓が変わるって、それだけのことだよ」
「あ、なるほどー」
私は納得する。不自然に止められた『それに』の後を継ぐ言葉として、更に二階堂君が隠しようのない照れを表情に浮かべていた理由としても。
それにしても、さすが二階堂君だ。私は結婚なんて将来のこととしても想像できないもの。ホント、この人にはずっと先のことが、まるで目の前にあるかのように見えているのかもしれない。そうじゃなければ、あんな作戦をあらかじめ用意しておくなんて出来ることではないだろう。
「ホント、二階堂君って未来が見えるみたいだよね?」
「え、未来っ?」
何故か二階堂君はうろたえた。
「だって、そうじゃなきゃ『あんなこと』思い付かないよ」
「あんなことって?」
「入れ替わり、だよ」
「あぁ……そのことか」
何だとばかりに肩の力が抜ける。私とっては驚くべきことが、二階堂君には普通なのだろう。
「山岸君に言われた時はビックリしたよ。突然お面を差し出して、ゴール方向へ飛び出して下さい、だもん。しかも鏡でもあるみたいに自分の顔が目の前にあるしさ」
「うん、そうだろうね」
「あの時は勝ったことが嬉しくて、ただ浮かれていたけど、最近になって山岸君に聞いたんだ。よく咄嗟にあんなことを思い付いたねって。そしたら、こういう状況になったら入れ替われるように、あらかじめ変装しておいて欲しいって二階堂君に頼まれたんだって聞いたの」
「まぁ、あんな状態になるとは思っていなかったけどね」
「嘘ばっかり。あんな展開になるってことも読んでたんでしょ。この話を聞いて、私はそう確信したの」
「だとしても、勝てたのはやっぱり偶然だし、あの場で海鳥、ちゃんが頑張ったからだよ。僕はただ、そのための下準備をしていたってだけのことさ」
「ふーん……結果オーライだし、二階堂君がそう言うなら、そういうことにしておきますか」
私は立ち上がり、オレンジ色の輝きを全身に浴びる。遠足に夏休み、中学時代を彩る一つ一つの楽しみが想い出になって流れていく。今日もまた、いずれ思い出される光景の一つになっていくのだろうか。それは楽しみでもあり、同時に淋しくもある。未来が今になって、今が過去になって、そんな当たり前のことに、今の私は無性に焦っているのかもしれない。
きっと、今がとても楽しいのだと思う。
「……あるいは、これも血なのかな?」
「ん?」
呟きが、すっかり熱気を失った夕暮れの風に押されて私の耳にうまく届かない。
「いや、大したことじゃないよ。蛙の子は蛙なのかなーと、ふと思っただけなんだ」
「お母さんの優勝と私の優勝は関係ないと思うけどなー。お母さんのはともかく、私のはただの偶然だろうしね」
仲間に恵まれただけの話だ。多分だけど、お母さんは違う。優勝者になってこんなことを言うのは何だけど、偶然だけで二度も優勝できるほど遠足は甘くないと思う。もっとも、普段のお母さんからは切れ者とか出来る女とか優秀な才女とかって言葉は連想できない。せいぜい物持ちが良い程度のずる賢いオバサンだ。しかもバツイチの出戻りだったりすれば、人生の勝利者とはとても言えないような境遇なのは間違いないだろう。
私が優勝者のジンクスを聞いたのは遠足が終わってからだけど、結局二度の優勝をしたら不幸になるという逸話は、正しく機能しているのかもしれない。
「偶然なんかじゃないよ。海鳥ちゃんだったから、優勝できたのは間違いないと思う」
「まぁ、そう言われて悪い気はしないけどね」
時折だけど、二階堂君は私のことを手放しに、それも大した根拠もなく認めたり誉めたりすることがある。それをらしくないと思う自分がいる一方で、ありがたく喜んでいる自分がいることも悲しいかな事実だった。
まぁ、誉めてくれる相手が二階堂君じゃなくて杉浦君だったなら、単なる冗談として流していたのかもしれない。それだけ、普段の二階堂君の言葉は正確で重みがあるということだ。
ただ、それがどうしてなのか……いや、純粋にわからないとは言わない。もしかしたらという予想はある。あまりにも自惚れた、恥ずかしい予想ではあったけど。でも、もしもそれが、この予想が当たっていたとしたら、それは驚く以上に嬉しいことで、この先の未来を明るく照らしてくれているようにも見える。
「お、こんなとこにいたのか」
ペタペタと床を鳴らしながら、裸足の杉浦君が登場した。
「どうかしたの? やっぱりお店手伝った方がいい?」
夕陽に身体を向けたままの私の言葉に、杉浦君は悩むことなく首を横に振る。
「いや、その必要はねーよ。そもそも、オレが探していたのは義高の方だ」
「僕を?」
「あぁ、お釣りとか、どうするつもりなんだ? さっちんが悩んでたぞ」
さっちんというのはさつきちゃんのことだ。まぁ、それはいいとして。
「買い物の途中だったの?」
「いや、そういう部分も含めて任せてきちゃったつもりだったんだけど――」
「一応お前が主催なんだから、花火を買い揃えるくらいまでは責任持てって」
何というか、話が読めない。
二階堂君が花火というのもイメージが違うし、主催って何のことだろう。
「何の話?」
「花火大会だよ。海鳥ちゃんは聞いてないのか?」
もちろん初耳の私は首を横に振る。
「義高が賞金を全額使って花火を買うことにしたんだ。それで今夜は花火大会をしようってことになってな。五千円分だからな。結構遊べるぞ」
「しょうきん?」
「何だよ、そんなことまで知らないのか?」
杉浦君は少し呆れ顔だ。
「遠足の個人優勝者は五千円の商品券が貰えるんだよ」
「え、ホントにっ?」
二階堂君の相変わらず的確な説明に、私は素直に驚いた。賞金まで出ていたとは、相変わらず田舎の遠足ってヤツは侮れない。それにしても五千円か、何でも買えるほど高くはないけど、中学生的には結構な収入だ。
「ま、現金じゃなくて村の店でしか使えない商品券だから、正直言うと微妙だけどな。ゲームだって買えやしねーし」
杉浦君らしい意見だ。
でも確かに、この村でしか使えないってことになると難しいかも。駄菓子と日用品以外は、村から出るかネットで購入が必須の場所柄だしね。
「それで、二階堂君は花火を?」
「まぁ、そんな所かな」
イメージとは違うけど、他に使い道がなかったということなんだろうか。
「おいおい、そーじゃねーだろ」
杉浦君が、ニヤニヤと笑いながら口を挟む。
「海鳥ちゃんのためなんだろ。ハッキリ言えって」
「ちょ――杉浦!」
「え?」
私のため?
花火を買うことが私のためって、一体どういうことなんだろうか。
「……いや、延長した夏休みも今日で最終日だし、何か皆で楽しめる方法はないかなと思ってね」
視線を逸らし、頬の辺りを掻きながら放たれる二階堂君の声は、爽やかに通り過ぎていく風の音の溶け込んでしまいそうなほど小さいものだ。でもそれは私の耳に――いや私の心にしっかりと届く。
二階堂君を知っているからこそ、その言葉が完全な真実をついていないことがわかる。もちろん、嘘ではないのだろう。でもこのタイミングで、遠足の優勝賞金を全額使う理由としては弱いと思えた。少なくとも、この駄菓子屋の売り上げに繋がるだろうことを考慮してのことなのは間違いない。
私が働いている時の売り上げを伸ばそうとしてっていうのは、さすがに自惚れすぎかな。
「とにかく店の方に来てくれ。全員が好きな花火を勝手に選んじまって、もう収拾がつかないような状況なんだからさ」
「あ、あぁ……」
曖昧に頷きながら、とりあえず二階堂君は立ち上がる。そんな彼を呆然と眺めつつ、私は改めて自らの幸運に感謝していた。
この人がいなければ、遠足の優勝はなかった。
この人がいなければ、さつきちゃんと友達にもなれなかった。
この人がいなければ、こんな気持ちで夕焼けを眺めることもなかった。
感謝してもし切れない。ありがとうの言葉だけじゃ、とても返した気になんてなれなかった。この先、私はこの人に、二階堂君に何をしてあげられるんだろう。わからない。わからないけど――
「……勉強、頑張らなくちゃね」
「え?」
この『みなみや』を回り込もうと、私の背後を通り過ぎかけていた二階堂君の足が止まる。それは言葉の意味がわからなかったというよりも、単純に聞こえていなかったようで、こちらをジッと見詰めたまま私が繰り返すことを待っていた。
でも私は繰り返さずに、違う言葉に置き換えた。
「高校、一緒に行こうね」
「え、あ……」
唖然として、すぐに視線を外される。
それが二階堂君の照れなのだとわかるから、私は微笑んだ。
二階堂君と同じ高校に行くのは難しいかもしれない。以前の、ここに引っ越してくる前の私だったなら、挑戦する前から諦めていたに違いない。でも今は、あの遠足を完歩した今の私なら、困難と恐怖が散乱している道を歩いていける。
一歩一歩確実に。
果てしなく遠い明日に向かって。
本当に長い作品を読んでいただき、誠にありがとうございました。
そして、ご苦労様でした。
途中に二つの企画物が挟まりながらペースを崩さずにいられたのは、単純に書いていて楽しい作品だったからと言えます。それだけは、良かったと思えますね。
次の長編も考えていますが、まだ具体的な形にはなっておりません。
同じ書くなら、これからも楽しく書いていきたいものです。
それではまた、皆さんが楽しい小説に巡り会えることを祈りつつ。
栖坂月